第9話 博愛主義者の偏愛


「良き風よ」


ぶわりと身を撫でる大気の流れを全身に感じながら、彼は呟いた。

眼下の緑が風に乗って煌めき、まるでさざ波でも見ているかのような気分にさせられる。


「町もほどほど豊かで海も近い」


瞳成町の全体を見渡しながら、感嘆の声を漏らした。

そしてゆっくりと振り向いて、眉を顰める。

目線の先には、ずるりと忍び寄る雨雲と、山のてっぺんを覆い尽くす黒い影。


「やれやれ…アレさえなければ、極上の土地なのだがなあ…」






「凛?」


学校帰り、いつも通り凛の元に来たは良いが、所定の場所に彼は居なかった。

彼の姿を探す麗子に、建物の陰からこちらに滑るように足を運ぶ人影が見えた。


「!」


咄嗟に構えると、麗子のその額めがけて、大きな拳が向かってくる。

ところが拳は目と鼻の先で止まった。

頰に風を感じながらも麗子は微動だにせず、その瞳をじろりと向ける。


「…なんだよ。喧嘩なら買うけど?」

「フハハハ!これは肝が据わった娘だ」


そう言って拳を戻し、あっけらかんと笑うのは大柄な男だ。

背後を振り返り、口を開く。


「なあリン。良い人間を見つけたのう」

「…ちょっかいを出すのはやめてくれ。麗子ちゃん。大丈夫だった?」


続いて建物の陰から、盆に乗ったお茶を持つ凛が姿を現した。

なかば呆れた顔をしながら男を手で指す。


「彼の名前は雷伍らいご。神様だよ」

「…神ぃ?」


言われて雷伍を見てみるが、短く切られた髪に大柄な体。

着物の前はばかりと開いて、その鍛え上げられた肉体が見えていた。

細く女性的な凛と並ぶと、違う種族であることは間違いないだろう。


「…そのへんのヤンキーみてえな神だな…」

「ハッハッ!リンに見慣れていればそれはそうだろう!だが、神なんぞ俺様のような奴ばかりだぞ。リンが特殊なのよ」

「はあ…」

「普通の神はあんなにお人好しではない。今日の用件も…」

「雷伍は」


言いかけた言葉を、凛が制した。

あまり主張しない彼が珍しいこともあるものだと麗子がそちらに視線を注ぐと、いつものように優しい笑顔を浮かべている。


「…雷伍は僕とは違って、古くから居る神だから、人の信仰心関係なく存在できるんだよ。今も土地も社も持たないであちこち漂流してるんだ」

「ふうん…」

「住居はそのうち構えるぞ!ハハハ!その時はレイコなら俺様の嫁に迎えてやっても良いぞ!」

「いやそれは遠慮しとく…嫁?」


ぴたりと麗子の表情が固まる。

それに気がつかず、凛が呆れた顔で声をかけた。


「雷伍、あまり彼女をからかわないで…」

「その嫁の話、もっと聞かせてくれ!」


麗子が振り向き、雷伍の太い腕を掴む。

一拍遅れて、凛の持っていたお盆から茶器が滑り落ち、がしゃんと割れる音が響いた。






「なあ!教えてくれ。人間でも、神と結婚できるのか?」


山の階段をくだりながら、麗子が雷伍に質問した。

その表情に、目的は別にあることに気がつく。


「…ほお。ふたりきりで話したいと言うから、期待したものを…。成る程。リンのことか?」

「!」


図星を突かれたように麗子の顔が赤くなり、照れ隠しか後頭部をかいた。


「神に隠しても無駄か…。今のままじゃ、アタシの方が早く死ぬんだろ?その…凛に付き添ってやる為には、どうしたら良いのか知りたいんだ」


(鼓太郎にもああ言われたし…ハンパな真似はしたくない)

すぐに行動を起こすわけではないが、自身が進める選択肢を知っておきたかったのだ。

その顔を見ながら、雷伍は目を細めた。


「…リンめ。罪深い真似をする」

「…?なんだよ。やっぱりアタシは神になれないのか?」

「いいや、そうではない。そうではないぞ、レイコ。お前が神になるにはちと大変だが、リンと一緒にいたいという願いは叶えることができる」

「本当か!?」


軽い雨が降ってくる。

雷伍が手を広げると、ふたりのまわりから雨粒が消えた。


「俺様のような純粋な神が人間になるのは難しいが、リンは人神。元々は人間だ。ちょいと神力を使えば人間に戻ることができる」

「そうなのか…」

「まあ当然、神としての力は失う上、寿命も人間並みになるがな」


その言葉に、麗子が渋い顔になる。


「う…凛がそこまでして、アタシと居ることを選んでくれるかが問題だな…」

「そうか?」

「その…博愛主義って言うのか?凛にとって、アタシは特別じゃない。この町の人間は平等に好きで、アタシはそのひとりにすぎないからな…」

「……」


黙ったまま、雷伍が静かに手を合わせた。

地面からぶわりと風が吹き抜ける。


「レイコ。また会おう」

「あ、ああ。ありがとな」


空気の流れが変わる中、麗子の耳に彼の声が飛び込んで来た。


「俺様はリンとは違うことわりで生きる神。ただ見守るだけよ。お前らの行く末をな」


その風に麗子が思わず目を瞑る。

再び瞼を開けた時には、彼の姿はなかった。






「くくく…」


空を移動しながら、雷伍の口からは笑いがこぼれる。

思い出すのは、先の光景だ。


『わっ!びっくりした』


がちゃんと大きな音に、麗子が雷伍の腕を放し振り向いた。

地面にはふたつに割れた茶器。


『あちゃあ。凛、何してんだ大丈夫か?』

『…大丈夫だよ。少しぼーっとしてただけ。ありがとう』


そう言ってにこやかに笑う凛はいつも通りである。

だが、茶器を落として麗子に話しかけられるまでの間、その刹那の顔を雷伍は見逃さなかった。


「リンめ…何をしても笑っている昼行灯かと思っていたが…」


(あれはおおよそ…博愛主義者のする顔ではなかったのお…)

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