第8話 彼方の愛を探して


菊池真由きくちまゆはその日、ランドセルによく似合う、お気に入りの長靴を履いて上機嫌だった。

小学校からの下校中、泥や水たまりを避けて慎重に歩いていたのだが、家のすぐ近くまで来た時、その足は止まる。


「……なにしてんの?」

「…え?」


田んぼの側を流れる川の中で、泥だらけになりながら、腰をかがめる金髪を見たのだ。

彼女が顔を上げると、その頰にも泥が擦れた跡がある。

どう見てもただ事ではないその様子に、真由は思わず差していた傘を彼女に傾けながら口を開いた。


「こんな雨の日に川遊びしたら風邪ひいちゃうよ?」

「…遊んでるわけじゃねえよ…探しモンだ、探しモン」


そう言って、彼女はすぐにまた川に手を突っ込んだ。


「…そんなに大事なものなの?」

「……母さんの形見なんだ」


その言葉に真由が目を大きく開けた。

すぐに踵を返して自宅に駆け込み、数分後、雨合羽を着て出てくる。

そして、ばしゃんと川に飛び込んだ。


「何探してるの?」

「ゆ、指輪だけど…」

「わかった。一緒に探してあげる。私、菊池真由。あなたは?」

「…ありがと…。麗子。環麗子だ」


驚きながら麗子が答える。

ちらりと真由の足元を見て、口を開いた。


「良いのかよ。その長靴、新品っぽいけど」

「いいよ。長靴は洗えばきれいになるもん。風邪引くと困るから、30分だけね」

「お、おう…」


やたらとしっかりした目の前の小学生に、麗子は気圧されながら返事をした。






「…なかったね」

「……」


コンコンと、雨だれが缶の上に落ちる音がする。

ふたりで探し始めて30分、それでも指輪は見つからず途方にくれていたところ、真由が自宅に招き入れてくれたのだ。


「……」


タオルをかぶって、麗子が居間の仏壇を見やる。

そこに飾られた写真には随分若い女性の姿。

おそらく真由の母親だろう。

(どうりで…)


「…綺麗な母ちゃんだな」

「でしょ!?」


真由がきらきらした瞳でこちらを振り返った。

その顔に、麗子の心にわずかな羨望がよぎる。


「写真残ってるの…良いな…」

「…麗子、お母さんの写真ないの?」

「……」


黙ってしまった麗子を前に、真由は立ち上がった。

その小さな胸をどんと叩く。


「大丈夫だよ!生きていればいつか、お母さんに会えるから!」

「……え?」

「お母さんに教えてもらったの。私が頑張っていれば、ちゃんと、いつかまた会えるからって」


そう話す彼女の瞳には、一片の曇りもない。

それに例えようのない感情が湧き上がってきて、気がついたら麗子は言葉を発していた。


「嘘だ」


真由が驚き、その顔が強張る。

子供相手とはわかっていながらも、麗子は抑えきれず続けた。


「それが本当なら、アタシはどうなるんだよ…母さんが現れるどころか、顔だって思い出せない」

「そ…そんな訳ない!お母さん嘘つかないもん!」


彼女のその大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれる。

それを見て我に返った麗子が、振り切るように立ち上がった。


「…世話になった。アタシ、もう一度探してくる」

「……」


その言葉にも真由は顔を上げない。

外に出ると、雨足はいっそう強まっていた。






「麗子!」


ばさりと羽根の音がして、鼓太郎の声が響き渡った。


「麗子!凛が心配してたぞ!何してんだ!」


鼓太郎が見咎めたのは、土砂降りの中、必死で川底をかき回す麗子の姿。

彼の声にも耳を貸さず、その金髪を泥と雨まみれにして一心不乱に手を動かしている。


「麗子!」

「あの指輪は…アタシに母さんがいたことを証明してくれる、唯一の形見なんだ…」


やっと出てきた麗子の声は、かすれていて、ひどく震えていた。


「わかったから今日は帰れ!」

「嫌だっ!」


麗子が振り向く。

そのずぶぬれの顔は、鼓太郎が見たことがないほど怯えていた。


「指輪が無くなっちまったら…一体誰が、アタシはちゃんと必要とされて生まれて来たって、証明してくれるんだよ!」


麗子がまるで、吠えるように叫ぶ。

その息は一瞬で白くなり、空気中でかき消えた。


「っ…!」


(雨が…)

雨が冷たい。

たったひとつで良いから、生きる理由が欲しい。






暗くなった部屋の中で、麗子は机に向かっていた。

結局あの後、いくら探しても指輪は見つからなかった。

あれが手元から消えたのは2回目だが、今回は誰かが預かっているわけでも返される条件が決まっているわけでもない。


「指輪、を、探して、います…」


画用紙に連絡先を書く。

これが最後の頼みの綱だ。

(見つからなかったら、アタシ…アタシは、どうしたら良い?)

大きな不安に駆られる。

溢れた涙を腕で拭って、続きを書こうとペンを持った。


「指輪の内側には、Eikaと、書かれてい、ま…」


書きかけて、麗子が息を止める。






翌朝、山へと続く階段を登るあつ子の背中を、麗子が追いかけていた。


「ババア!お前ボケてるんだから、山に登るんじゃねえ!」


慌てて彼女の前に立ちふさがり、行く手を阻む。


「あら。誰かと思ったらアキエちゃん。久しぶりだねえ」


あつ子は軽い認知症を患っている。

危ない場所は行かないよう、彼女はここで止めはするが、それよりも今は目的があって追いかけて来た。

麗子が息を整えて、すぐに口を開く。


「なあ!教えてくれ!アキエちゃんって、栄香…環栄香のことか…!?」


昨日、指輪の情報を書きながら気がついた。

栄香をローマ字で書くとEika。

それを逆から読むとAkieになる。

(勘違いかもしれない…偶然かも…だけど、だけど!)


「そうだよお。あんたが呼んでくれって言ったんじゃないか。親とあんまりうまくいってないから、元の名前は嫌いだって」


あつ子の言葉に、力が抜けそうになった。

彼女は胸を張って続ける。


「ほんの少しの間しかいなかったアンタだけど、私は忘れないんだから」

「なら…」


麗子の身体が震えた。

あちこちから汗が滲んで気持ちが悪い。

それでも、その冷たい唇を開ける。


「なら…その娘は、麗子のことは知ってるか?」






強い雨が降りしきる山の中で、麗子は膝を抱えてうずくまっていた。

傘も差していない彼女はしとどに濡れて、厚い雲は影を落とす。


〈寒いの…〉


そのそばの木。

幹の影から、黒い少女が姿を現した。

うずくまる麗子に向かって、ぶつぶつと言葉を吐きながら手を伸ばす。


〈頂戴。幸せな思い出、ちょうだい。ねえ…〉


その真っ黒で冷たい手を、麗子が握った。


「いいよ。持っていきな」


頭をあげた麗子は目を真っ赤にさせて、口元には微笑みを浮かべている。

驚き身じろぐ少女に、麗子は続けた。


「寒かったよな。分かるよ。アタシの思い出でも、カイロぐらいにはなるだろ?良いよ。持ってけ」


ぼろぼろと、その両目から雨よりも大きな粒の涙が落ちる。

彼女の膝元にはたくさんの写真。

栄香が、小さい麗子と共に笑顔で写っている。


「アタシは全部思い出したから、もう大丈夫。もう絶対…忘れない」


あつ子に写真を見せてもらって、思い出を聞かせてもらって、全部全部思い出した。

(アタシ…ちゃんと愛してもらってた…)

顔を上げると、凛の住まいであるクスノキが見える。

この町を出る日、栄香はここへ来て言ったのだ。


『神様ー!もし、麗子がひとりになるようなことがあれば、その時はアタシのこの壮大な愛を、ほんの1ミリでも良いから伝えてあげてね!』


そうして彼女は、抱いていた麗子にキスをした。


『愛してるよー!麗子ー!』

「アタシも…愛してるよ。母さん」


クスノキの前にいた栄香が、まるで幻のように消える。

そこに立つ麗子の手の先には、少女の姿。

真っ黒だった彼女はその煤がとれて、可愛らしい顔と着物が見えていた。


〈あったかいね…〉

「だろ?もうこんな寒くて暗い場所に居るのはやめな。お前も思い出せないだけで、きっと、幸せなこともあったから」

〈うん…〉


少女が屈託のない笑顔を浮かべた瞬間、その姿が光となって消えていく。

それが空に昇っていく様子を見届けた麗子が視線を戻すと、傘を持った凛がいた。

まるで驚いたように目を見開いて、こちらを見ている。


「麗子ちゃん…」


彼に近づき、口を開いた。


「凛。ごめん。ありがとう」

「…ううん。僕は何もしてないよ」

「赤ん坊の頃の記憶があるほど、アタシ頭良くねえよ。お前が、大事に持っててくれたんだろ?」

「…僕がしたことはほんのちょっとだけだ。麗子ちゃんが頑張らなければ、辿り着けなかった道だよ」


いつの間にか雨は止み、雲の隙間から光が差し込んでいる。

その光に照らされて燦然と輝く町並みがあまりにも美しくて、麗子が目を細めた。






「…げ」


登校途中の真由が、道の真ん中で傘を持って立つ人物を見て、嫌そうな顔になった。

ふんと鼻を鳴らして、彼女の脇を駆け抜けていく。


「ごめん」


麗子の口から出た言葉に、真由が足を止めた。


「なにさ、今更謝ったって…」

「お前の母さんが言ったこと、嘘じゃなかった」


驚いて真由が振り向く。

麗子は念を押すように、もう一度続けた。


「嘘じゃなかったよ」

「……」


沈黙がその場を支配する。

麗子が振り向くと、ランドセルを握る彼女の手が震えていた。

驚いた表情のまま、ゆっくり唇を開ける。


「…本当?」

「…うん」


その言葉に、真由の顔がくしゃりと歪んだ。






『アタシも栄香に…母さんに…会いてえなあ…』


写真を見ながら、麗子が誰に言うでもなく呟く。

すると聞こえていたのか、あつ子は振り向いてあっけらかんと笑った。


『何言ってるんだ。鏡を見れば、そこにいるじゃないか』

『…ババア。アタシはアキエちゃんじゃないって…』


笑いながら壁に掛かっていた鏡を見て、ふと固まる。

そこには手元の写真の栄香と良く似た人物が映っていた。

(いや…顔が、双子みたいにそっくりとか、そういう話じゃない)

当然だ。

麗子には父親の遺伝子も入っている。

歳だって、写真の栄香よりだいぶ若いはずだ。

(けど…)


『その不器用な優しさも、口の悪さも、どこか寂しそうに見えるところも、アキエちゃんそのものだよ』

『…そっか…』


しんとした家の中に、麗子の小さな声が響いた。

雨粒のような涙が、写真の上を経由して、床にすべり落ちて行く。


『そっか…』


写真の中では、栄香が本当に幸せそうに、笑っていた。

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