月の使者(プラネタリウム、月、ベース)
忘れられない、と言ったら大袈裟かもしれないが、僕にはそんな恋の物語がある。
誰もいない夜の公園で一人空を見ている女性、それが君だった。僕は特に声をかけるわけでもなく通り過ぎる。そんな毎日。
とうとう僕は声をかける。君は空に向かって手を伸ばした瞬間、ブランコから落ちたのだ。
「大丈夫ですか?」
慌てて駆け寄った僕を見上げて、恥ずかしそうに笑う君は月明りで綺麗だった。
毎日いるのかという問いに、いない日もあるとの答え。その後の僕のくだらない話に付き合ってくれて、時間が経つ。
薄く明るくなってきた頃、君は「そろそろ時間」と呟く。
僕もすっかり時間を忘れて過ごしてしまったようだ。
「また会えたら話してくれますか?」
君は「会えたらいいですね」と言った。
僕はこの答えになぜだか満足して家に帰った。直接的に断られなかっただけで嬉しかったんだろう。
次はいつ会えるか、そんなことばかり考えていたが、僕は二日後にまた君に会えることになる。
また空を見ているようだ。
「こんばんは」
「どうも」
あまりこちらに関心がない対応である。
「私、月が好きなんです」
初めて向こうから話してくれた。
「でもこうやって遠くからしか見るしかなくて、もっと近くで色んなことを知りたいんです」
空というかずっと月を見ていたのか。
「誰も教えてくれなくて、隠してるみたいで、なんででしょうね」
「行きましょう!」
突然僕が大声を出したものだから、君は驚いてブランコから落ちてしまった。
「あ、すみません。急に」
「いえ、私が驚きすぎただけなので」
なんとなく話すに話せなくなってしまった。
「それで、なんなんですか、行くって」
君の方から聞いてくれた。
「月のこと、知るならやっぱりプラネタリウムですよ!」
眉間に皺を寄せる君。
「ぷらねたりうむ?」
知らないようだ。
「空のことを知れる場所です。明日、明日行きましょう。一緒に」
はぁと乗り気ではない様子。
「昼間じゃなくても良いんです。今なら、夜もやっているみたいなので」
考える仕草をみせた。
そこから早数分が経つ。僕も急かしたりはせず黙っている。
「あの、じゃあ明後日でも?」
「喜んで!」
どこかの居酒屋の返事になってしまった。
さて、当日いつもの公園で待ち合わせ。今日も変わらずブランコの上。
「お待たせしました」
「全然」
ぶっきらぼうに返答された。
「じゃあ行きましょう」
そうやって着いたプラネタリウム。夏休みが終わったこともあり、人はまばらだ。
中に入ると広々とした綺麗な空間で、外から見たザ地元の古びた感じとは少し違う。
「座ってやるものなのですか、へぇ」
本当に知らないらしい。
明るかった室内が暗くなり、部屋一面に星が広がる。
君は目を丸くさせていた。
ナレーションで、今日は月について話すと言った。
天井に月が映った時、君は椅子から落ちた。また手を伸ばしたらしい。近くには人がいなかったから、変に目立つこともなく静かに席に着いた。
解説が始まり、ゆるやかなBGMも流れ始めた。
時折、ふむふむと分かりやすい相槌を打ちながら真剣に聞いている。
三十分があっという間に過ぎ、終わりの時間がやってきた。
「よく分かった」
君はそう言い、明るくなった部屋から出て僕の方を向いた。
「月が分かった。お礼を言います」
それから無言で来た道を戻っていく。僕も何か話すわけでもない。
いつもの公園に着くと、ブランコに乗り独り言のように呟く。
「中にいて分からないことも、外からだと分かる、そんなこともあるんだな」
そう言うと、ぴょんと立ち僕に「さよならだ」と話した。
またどうせ夜中にブランコにでもいるんだろうかと思った僕はその場の挨拶と捉えた。
「はい、さようなら」
月に手を伸ばした君は「餅でもお礼にお送ります」と言って。
どうしたんだっけ。
多分僕はさようならをした後、普通に家に帰ってきて寝たんだと思う。
そしてあのことが夢だったかのように、公園には君に姿を見なくなった。
現実的に考えて、夜中出歩かなくなったか引っ越したかだろう。
不思議なのは、ダンボールいっぱいに餅が送られてきたことくらい。
送り主は月の使者、全く覚えがないと言えば嘘になるが、さて住所なんて教えただろうか。そう思いながら、どうやって餅を食べようか考えながらラジオで流れるベース授業を聞いていた。
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