第38話 孵化

『起きろ! 起きろってば、マルガリタ・アメジスト』


 あの子が私の体をゆさゆさ激しく揺さぶっているその傍で、誰かが弾かれたように立ち上がる。犬耳のウィッチガールだ。ドアが開いた瞬間、彼女の両手両足を結んで動きを封じていた黒い縄を引きちぎり、裸足で床を蹴ってはドアを目掛けてかけてゆく。

 ドアのそばにはお兄様のお友達が銃を構えていた。三又の鉾を携えた見るからに悪いウィッチガールへ銃口を向けようとした所を、駆けてきた犬耳の子に突き飛ばされてよろめく。

 犬耳の子は軽やかな音だけを残して階段を駆け上った模様。そしてそのまま逃げてゆく。お兄様のお友達は、地下室の様子と逃げる彼女の後ろ姿を見比べてから、あークソ! っと吐き捨てた。そして階段を上って行く――。

 犬耳の子の脱走劇から分かるのは、ドアが壊れたことによってこの地下室の魔力が随分うすまったということ。つまり、イブリス・ルキファにだけ絶対有利な場所じゃなくなったってことだ。彼女を戒めていた黒い縄が、ドアが開いた瞬間に解けたのがその証拠。ドアが開いてしまうと魔法の効果が弱まるに違いない。

 どうやら犬耳の子はホームを出るなり中庭へ移動して、大いに暴れながら逃走しているらしい。爆発音が轟いて閃光が差し込む。


 時間にすれば一分にも満たない、一連の出来事を私はスノードームの中から把握していた。でもそんなことより、私の本体がマリア・ガーネットに抱かれて揺さぶられ、叩かれていることに神経を集中させたい。 

 魂の宿っていない私の体は、芯のない人形も同然た。ぐったりとされるがままになってるだけ。鉾を構えたイブリス・ルキファから離れた場所の床に膝をつき、私を抱きしめ必死に呼びかけるあの子の呼びかけに答えられないのが歯がゆい。ああもう、早く体に戻ってきれいに目を閉じたいし、そのままぎゅうっとしたいのに。

 必死なあの子が私の本体を抱きしめる前に、手のひらのスノードームを掴んで落ちるのを防いだ、悪魔みたいな女の子は迫る。


『びっくりしたわ、あなた地下室に入れたのね。誉めてあげましょうね』

『ルーシー、それは……?』


 マリア・ガーネットの目がこちら――つまりイブリス・ルキファの手のひらの上にあるスノードームを見る。確かにこの場ではそぐわないものだから目にもつくだろう。その中にいる私に気づいてくれないかと期待したけれど、あの子の視線は私を素通りしてしまう。


『これ? さっき見つけたの。懐かしいでしょう。あなたったら遊園地から帰ってきてからずっとあの日のことばかりお話してたわね』

『もう無くなったと思ってた……』

『これだけは壊せなかったの。そんなことをしたらあなたもマイクも悲しむでしょうから』


 どうもすっきりしない会話だ。マリア・ガーネットは、住んでた家から持ち物まで神父様の手下に面白半分に壊されたってシスター・ラファエルは仰っていた。でも、これではまるで直接手を下したのはイブリス・ルキファみたいじゃない。 

 ――ああ、彼女はこの時神父様の使い魔だったわね。

 姉妹みたいに仲良く育った女の子を効率よく支配する為か、それとも単なる戯れか、神父様は片方の女の子にもう片方の女の子へ暴力を振るうようお命じになったというわけね。はいはいはいはい……。

 死後の世界なんてどうにも信じにくいけれど、もし地獄があるとするなら業火とやらでこんがりローストされていただきたいものね、神父様もといピーチバレーパラダイスボス。


『昔話はあとにしましょう。まずはこの子をいい子にしないと』


 もう使い魔ではなくなった筈の彼女は、手にした三又の鉾を再度、マリア・ガーネットが抱える私の頭に突き立てようとする。


『今から私がすることをあなたには見せたくないの。だからその子を渡して。それから地下室の外に出て』

『……嫌』


 ガクガクゆれる私の頭を右手で支えて、マリア・ガーネットはイブリス・ルキファを見つめる。睨む、まではいかない怯んだ視線だ。怖い大人と必死に向き合う子供みたいな目。

 地下室のドアが破れても、この場所がまだ怖いのか。それとも目の前にいる悪魔みたいな姿のウィッチガールが怖いのか。

 私の位置からは鉾を構えているあの憎らしい女の子の顔は見えない。でもきっと余裕のある表情をしてるんじゃないかしら。

 でも声だけは聴こえる。ホームでいつも聞いていたシスター・ガブリエルのものと同じ声だけど、いつもより柔和で優しくて、おどおどした様子のない声だ。


『あなた達がダメって言ったんですもの、だから私はマルガリタ・アメジストに危害を加えたりしないわ。ただメラニー達が困らないように、その子をいい子に作り変えるだけ。分かるでしょう?』

 

 私の頭に見るからに危険な鉾をつきたてようとして「危害を加えたりしない」なんて、笑えない冗談を言うイブリス・ルキファから、マリア・ガーネットは距離をとる。ぐっと瞼を閉じたあと、あの子は私の本体を抱きしめる(ああどうして私の魂はこんなガラス球の中にあるのだ)。

 そのあと瞼を開き、さっきよりは力のこもった目でこっちを見据えた。


『それはダメ。この子を作り変えないで!  今のままじゃないとダメだから』

『ああそうね。悪知恵がくるくる働くような子じゃないとメラニーが苦労するわよね。じゃあ、性格と記憶だけ変えましょうか。そうね、その綺麗なお顔に似合った性格にしてあげましょう。優しくて純真で清廉で、地上に生けるものすべてを愛するような、天使みたいに心の美しい子がいいかしら。その方がその子の見た目にぴったりでしょう? きっとマルガリタ・アメジストも喜ぶわ』


 うん? と、スノードームの中で私は首を傾げる。

 この会話だけ聞くと、ホームに連れてこられたウィッチガール達の記憶と人格を壊して作り変えたのはまるで自分だったと言わんばかりだ。ウィッチガールの記憶と人格を壊して奪うのは、カテドラルの騎士の仕業じゃなかったの?


 ──無かったんだ!


 雷に撃たれたようなショックで私は棒立ちになる。

 ウィッチガールを倒すことはあっても、カテドラルの騎士は記憶を奪ったり人格を破壊したりはしなかった。現にイブリス・ルキファはウィッチガールになる以前からの記憶を失わずに保持している。不思議だったけどなんのことはない、私が一緒にくらしていたホームのお菓子たちの記憶と人格を破壊していたのは、シスター・ガブリエルを名乗っていたこの悪魔みたいなウィッチガールだってだけのこと。考えればすごく単純な真相だ。

 馬鹿みたいな真相にたどり着けなかったことを悔しがっている場合ではない。イブリス・ルキファは私の体を抱いているマリア・ガーネットへ近づき、危害は加えないと言っているそばから三又の鉾を私の頭に刺そうとしているのだから。


『メラニーはそんなこと望んでないよ。あの人もマルガリタ・アメジストの性格は知った上で必要だって言ってるから。だからわざわざ作り変える必要なんてない。そんなことしなくてもいい!』


 マリア・ガーネットは私の頭を右手でかばいながら跪いた状態であとじさり、地下室の奥へと追い詰められる。この子からみたイブリス・ルキファは今一体どんな風に見えてるのだろう。


『そうかしら? あなたたちは受け入れなくても、その子は案外喜ぶかもしれないわよ。だってこんな所の生活なんて忘れた方がいいでしょう? こんな酷い町で、大人に保護されなきゃいけない年頃の女の子が、しなくてもいいお仕事をして、忘れていたのに異世界の兵器だったことを思い出していたなんて。新しい場所で新しい生活をするなら、そんな記憶は全部きれいに消してあげた方がいいわ。そう思わない? ジョージナ』


 それを聞いたとたん、マリア・ガーネットの顔に恐怖が現れる。悲鳴を上げる寸前のように目を見開いて、酷く頼りない顔つきに。まるで大切な宝物を大人にとりあげられそうになった小さな子だ。

 あの子の周囲には焼け焦げた写真が数枚落ちていた。イブリス・ルキファが現れた時にあの子の棺からまき散らされたものだ。


『……ダメ、それだけは絶対ダメ!』


 縋る様にしがみつくように、マリア・ガーネットは私の体を抱きしめる。つぶしかねないほど強く。


『あの子と今朝、約束したんだから。ここのことを忘れないでって。この町がこんなになる前、ただの普通の町でみんながいた頃の町の思い出を全部渡して、知らない町に行ってもここのことをどうか忘れないでって――だからダメ!』


 あの子が時間をみつけては細いペンで昔のことを余白に書きこんでいたあのバイブルは、トランクごとバスに積んだままだ。もし記憶が失われてしまえば、シスター・ラファエルたちと合流しても、あれはただ落書きされただけのバイブルになってしまう。

 あの子が祈りを込めて書き込んで守った思い出が、まるで無意味なものになってしまう。

 それは私にとっても辛いことだ。あの子がソファに寝ころんだり座ったり、その時々の姿勢でペンを走らせたりバイブルのページをめくっていたり、そんな姿を思い出せなくなってしまう。そんなの私にとっても耐えられない。


『それに、そんなことしたらこの子がこの子じゃなくなる。あたしのマルガリタ・アメジストじゃなくなっちゃう……! そんなの嫌だ。やめてよ……っ』


 私の本体を渡すまいとするマリア・ガーネットに、聞き分けのない子供を諭すような口ぶりのイブリス・ルキファは迫る。


『あら、おかしいわジョージナ。あなたさっき、マルガリタ・アメジストはメラニーに合流させるって言ってたじゃない。ということはもうその子はあなたのものじゃないのよ。メラニーの子になるの。あなたもさっきまで承知していたじゃない?』


 優しいお母さんのような口調で、悪魔みたいな外見の憎らしいウィッチガールは迫る。


『それなのに、そんな聞き分けの無いことを言うなんて。あなたがそうやって我儘を言っちゃ、マルガリタ・アメジストも安心してメラニーと合流できないじゃない。だから、ホラ。その子を渡してちょうだい。いい子だから』

『嫌っ、ルーシーのお願いでもそれだけは絶対イヤ!』

『メラニーだってこの町のことを、それにこの町にくる以前のことだってよおく覚えていらっしゃるじゃない。その子の記憶が消えたとしても大丈夫よ、安心なさいな』

『……そういうことじゃない……っ』


 マリア・ガーネットの声が涙声になる。うつむいているから顔は見えないけれど、きっとあの子は泣いている。

 泣きながら私の体を強く抱くマリア・ガーネットは、まるで小さな子供みたいだ。古くなったお気に入りのおもちゃを取り上げられないように、必死に抵抗して手を焼かせる幼い子の仕草を思わせる。

 あの子は今まで大切なものを奪われて壊されてきた子だ、その時の恐怖や悲しみが一気に蘇ったかのようだ。


『嫌なんだ、この子があたしのことを忘れちゃうのが嫌なんだってば……! そんなことをしたらこの子はあたしの好きなこの子はいなくなる……!』


 マリア・ガーネットは涙声で鼻をすする。普段のこの子なら絶対見せない、ぐずった小さな子どもそのものの仕草で。目の前の相手を脅えて怖がって、それでも必死で自分の願いを通そうとする、儚い子供の必死な目だ。赤い瞳が濡れている。

 

『あたしはこの子がずっとこのままでいてくれなきゃ嫌だ! 理屈屋で助平で根性腐ってるマルガリタ・アメジストじゃないと嫌なの。それがあたしの大事な子なの! あたしはこの子にずっと今のままでいて欲しいの……っ、そんな天使みたいな子にしないで……』


 「あたしの好きなこの子」「あたしの大事な子」、あの子の直接からその言葉を聞けた痺れるような嬉しさは、同時に感じる痛々しさを打ち消すことはできなかった。

 割れないガラス越しに見えるマリア・ガーネットの姿は、七年前の小さな女の子を連想させる。

 あの子はしゃくりをあげながら、力のない役立たずな私の本体を奪われないようにするために抱きしめている。


『……あたしもう、大事なものを奪られるのは嫌……!』


 スノードームの中にいる私は、絞り出されたようなその声をただ聞くことしかできない。胸が痛くて痛くてたまらない。今すぐ体に戻ってあの子を慰めたくて、大事な子って言ってくれてありがとうって、伝えたくてたまらない。

 こういう時にこそ愛の魔法による奇跡が起きたりするものじゃないの? って、今までお勉強として鑑賞させられてきたロマンス映画や小説の類に縋ってしまうのに、私がどれだけ祈っても、拳で叩いても、ガラスには罅ひとつ入りそうにない。

 小さな子供のように泣くしかないマリア・ガーネットを、イブリス・ルキファは見下ろしている。その口調には苦笑が混ざる。


『あらまあ、ジョージナったら本当に聞き分けのないこと。それじゃああなた赤ちゃんみたいよ? 私が神父様に従わざるを得なかったあの時ですら、そんなにぐずったりしなかったじゃない』

『あの時ルーシーは嫌だって泣いてた! こんなことしたくないって言った! だから辛くたって泣きたくたって我慢したんだよ。メラニーにだって黙ってた……』


 悲鳴じみたあの子の声は、弱々しい訴えに変わる。


『今のルーシーはあの時と全然違うじゃない。あの時はあたしに酷いことをしたって泣いて謝ってくれたのに、さっきは笑ってたよ……? それじゃまるで、本物の悪いウィッチガールだ』


 私の位置からはイブリス・ルキファの表情は見えない。ただその時だけ、優しいお姉さんぶった猫なで声が一瞬消える。むき出しの冷淡な声が、しんと響いた。


『酷いわね、ジョージナ』

 

 マリア・ガーネットの表情は叩かれたようなものになる。 

 大きく目を見開いたその表情が、私には辛くてたまらない。こんなところで閉じ込められているせいで、あの子の体をだきしめて、あんな言葉耳にしなくていいって言ってあげたい。あなたは何も間違ってない、イブリス・ルキファは動画の中で悪いウィッチガールを演じた異世界出身の優しい女の子ではなく、もう本物の悪いウィッチガールそのものだって。


 あの子をいじめるあの悪魔じみた女の子がどんなに不運な少女だったか、どんなに辛い目にあってきたかは把握した。やりたくもない悪事の片棒を担がされたことで体にも心にも酷い傷を負ってきたことも大体は分かった。この子が全然知らない、遠い世界でくらす女の子だったとしたら「可哀想ね」くらい口にしていたかもしれない。

 でも彼女がなりたくもなかった悪いウィッチガールになってしまったのは、本当は優しくていい姉さんだと知っているんだからって信じて許して受け入れた、あの子に付け込んだイブリス・ルキファ自身が選んだ道だ。 

 それなのにどうしてまだ何もかもをあの子をせいにして責めて苛むのか。

 ガラスの内側で、ただただ怒りに身を焦がすしかできない私はせめてガラスに手をあててひたすら念じる。

 今この地下室では、彼女以外のウィッチガールだって魔法が多少は使えるはずなのだ。なら、その〝多少″にすがるしかない。割れろ、割れろ、とひたすら念じる。

 私は魂だけだと魔法が使えないようだけれど、やらずにはいられない。

 けれども物質に対しては強くても魂だけでは無力という、私の魔法の質は絶対らしい。割れろ割れろという念はやっぱり通じず、脅えて濡れた眼のマリア・ガーネットを前にイブリス・ルキファが三又の鉾を振りかざす。


『あなたも結局、みんなと同じことを言うのね』


 私の頭をかばう右手の甲ごと、私の頭に鉾の先を突き立てようとするような動作だった。

 その一瞬、あの子の赤い瞳がスノードームを捕らえた。涙で濡れた瞳にガラスの球体が映る。

 そこに私の魂が囚われていたことにあの子が気づいたかどうかは分からない。ただ即座に脅えた小さな女の子から、ショーで見せる無敗の女王様の表情に切り替わった。

 あの子の左手が動いて、三つに分かれた鉾の先を一つ掴む。私のこめかみに突き立てられる直前だった。

 魔力のこもった金属を、生身の左手で掴んだマリア・ガーネットの表情が苦痛に歪む。それでも痛みで恐怖から吹っ切れたのか、迷いのない動作で矛先を私のこめかみから自分の頭部へぐいっと引き寄せる。左の手のひらにスノードームを乗せ、右腕一本で鉾を持っていたイブリス・ルキファバランスを崩した。

 隙をつくように、マリア・ガーネットは反対方向へ鉾を押し返す。その際に持ってる魔力を込めたらしく、イブリス・ルキファは自分の道具から手を離して後方へ吹っ飛んだ。だん、と壁に激突する。

 そうなると当然、手のひらに乗っていたスノードームなんて無事ではすまない。私の目の前でガラスの向こう側の景色がごちゃごちゃと乱れた。きっとあの悪いウィッチガールの手のひらから落ちたのだろう。

 ガラスの向こうの景色が停止する。斜めに傾いた床と、採光用の窓が見えた。そこから見えたのは誰かがこちらを覗き込んでいる姿と、こちらに狙いをつけた銃口だった。

 次の瞬間、ガチャンとガラスの割れる音が響いて私の視界が切り替わる。

 そして、様々な光景とともに体に感情が流れてゆく。




 とてつもなく怖い目にあった後、何日かぶりで気が付けば知らない男の人に手を引かれて、外国らしい知らない場所へ連れていかれたこと。

 どういうわけか魔法が全く使えなくなって心細くてたまらなかったこと。

 わあわあと歓声の聞こえるホールのロビーのような場所で、知らない女の人の前に連れ出されたこと。

 シスターの姿で一見優しそうな女の人だったから安心したのに、言葉が通じないせいか、私をどこへつれていくのか、家へ帰してくれるのか、そんな質問には全くこたえてくれなかったこと。

 どうしてこんなことになったのか全く分からなくて、でも言葉の通じない見知らぬ土地で一人で逃げ出す勇気もなくて、優しそうなこの人に従うしかなくてぐずぐずべそをかきながら、促されるままに怖い人が乗りそうな黒い車に乗ったこと。

 夜の一本道を走る車の後部座席には、私と優しそうなシスター、そのむこうに不機嫌そうに黙っている子が座っていたこと。髪形と服装で男の子かと思ったその子が、窓に映った横顔とスタイルで女の子だと分かってびっくりしたこと。怖そうな子でますます不安になってまたべそをかいたこと。

 車が着いた先はネオンがきらめく竜宮城みたいな雰囲気の町で、連れていかれた先は十字架のついた尖塔のある教会の敷地内だったこと。

 車からおろされ、シスターに手をひかれるまま教会の裏にある二階建ての箱みたいな建物の中へ連れていかれ、玄関ホールをくぐった先にある階段を下って地下室につれていかれたこと。

 真っ暗な地下室に連れていかれ、不安が最高潮に達した時、目の前には三又の鉾を構えた悪魔みたいな女の子が立っていたこと。

 あ、この子どこかでみたことがあるかも、確か――……そう記憶が遡行しかけた瞬間に、悪魔みたいな女の子が突き立てようとした鉾の先が私の目の前に迫っていたこと。

 悲鳴を上げようとした瞬間に目の前が真っ暗になったこと。

 あ、あたし死んだのかな、最期の時ってこんな風に感じる余裕があるんだ、そんなことを考えていたこと。




 切り離されていた魂が再びもとの肉体に戻された衝撃で、粉々にされていた記憶の一部分だけが蘇ったのか、脳裏を様々な光景とそれに伴う感情が怒涛のように流れ去っていったけど、そのすべては私の体を抱きしめる暖かくて柔らかい感触で上書きされて、またぽろぽろこぼれて消え去っていく。

 

 それでいいのだ、今まであんな記憶なくたって全く困らなかった。


 今の私にとって大事なことは、私を強く強く抱きしめてくれているあの子をぎゅうっとすることだ。あの子の首に両腕を回して、涙が渇いていないあの子の頬に私のほっぺたをこすりつける。あたしの好きな子、大事な子って言ってくれてありがとう、だとか、あんな意地悪な人の言うことなんて間に受けないでと、かけたい言葉はたくさんあったのに、全くなにも出てこない。

 私の腕の中にあの子がいて、あの子の腕の中に私がいる。ああやっと、望んだ状態になれた。

 私の頭を支えていたあの子の硬くて温かい右手が、離さないというように私を抱きしめる。


「……居た……っ」


 涙の混じった声で、あの子はそう言う。


「やっと帰ってきた……!」


 そのあとぐっと息を吸い込んで、泣き声まじりに私を詰る。ひどく子供っぽい、幼い口調で甘えてかかる。


「馬鹿、バカバカバカ、ドアの向こうで急に声が聞こえなくなって死ぬほど心配したんだから……! あんたまでどうにかなったんじゃないかって、怖くて怖くてたまんなかったんだから……!」


 なりふり構わずというやつだったけれど、それでいいのだ。この子は今までずっと悪い夢の中にいたのに、こんな風に怖いって泣いて脅えて甘えて、頭を撫でてもらえるような、そんな当たり前の機会を今までずっと貰えなかった子なんだから。そんなこの子の弱いところを受け止める権利があるのは私だけだ。役得だ。

 馬のたてがみみたいにしているあの子の髪を、よしよしと撫でてあげる。


「ごめんなさい。魔法を取り戻したばかりでうっかり失敗しちゃったの。でももう大丈夫、安心して。あなたが頑張ってくれたからこうして体に戻ってこれたのよ。――ありがとう、マリア・ガーネット」

「……っ」


 撫でられるままになりながら、何度も何度もしゃくりをあげる。いつもならすぐ返事があるはずだけどそれがない。

 ただ私のことを二度と離すまいとするように、強く強く抱きしめるだけ。密着した胸からあの子の強い鼓動が伝わる。そうすると次第に乱れた呼吸も落ち着いてゆく。最後に大きく一つ深呼吸してから、あの子は私の顔を覗き込んで目じりに浮かんだ涙をぬぐってから笑う。


「……どういたしまして、マルガリタ・アメジスト」


 ああ本当、やっとこの顔が見られた。体が溶けるような喜びで私の胸は強い光を放つ。イブリス・ルキファの魔法の力も弱まっている今、変身くらいならできるみたい。それになにより私は感情で魔力が増減するタイプのウィッチガールだ。

 胸の光に手をかざす。一度コツを覚えてしまえば私のあの可愛くない杖を出すことなんて簡単だ。

 あの子の腕の中で、私は杖を引き抜いてゆく。私の髪が色を変えながら伸びてゆき、紫色の粒子を放ちながらしながら、みっともいTシャツとスカートは白いドレス姿になる。天使の羽根は今はまだ邪魔だからしまったままにしたけれど。

 私を閉じ込めていたスノードームはタイルの床の上で粉々に砕け散っていた。濡れたタイルの床には銃弾が撃ち込まれた跡がある。それを撃ち込んだ人はまだ窓の外だ。まだ外で地下室の外で何かの機会を伺っているみたいだ。

 壁まで突き飛ばされたイブリス・ルキファが起き上がる。呆然とした目で撃ちぬかれたスノードームの残骸を見つめている。窓の外にいるお兄様が、それを撃ったという事実が受け入れられないような、泣き出しそうにも見える表情だ。


 変身していてもまだ抱かれている私は、自分の腕をマリア・ガーネットの首にまわしたまま、顔だけあの憎らしい子に向けた。とびっきり根性が悪くてふしだらで、見るからに腹の立つ女の子の笑みを浮かべてみせる。あの悪いウィッチガールの神経に触りそうな、悪い子そのものの表情を。

 悪魔の格好をしたウィッチガールが、狙い通り腹立たし気に顔を歪ませる。それを見て、ふふん、と思い切り挑発的に笑ってやる。だってこちらには、手も足も出せない空間に閉じ込められていたストレスがあるんだもの。

 ――私のこういうところをこの子は根性腐ってるって評するのかしら? 一瞬そんなことを考えたけれど、まあ今だけは許してあげる。


 そんな私じゃなきゃ嫌だって言ってくれたんだから。

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