第30話 峡谷
「あー、やっぱ見えないかあ……」
「見えるわけないじゃん、あそこからここまで何マイル離れてると思ってんのよ」
地球が何千何万もの歳月をかけて作りだした雄大な景色に背中を向けて、ピーチバレーパラダイスのあるあたりを眺め呟くバルバラ・サファイア。そしてそれをフォローするアグネス・ルビー。
私たちのいるピクニックブランケットを拡げた場所から、二人が地平線の果てを眺める背中が見える。
ショーはお日様が地平線の彼方に沈みきったのと同時に始まる予定だから、そろそろマリア・ガーネットとあの犬耳のウィッチガールがギャラリーの前でお互い向かい合っている頃合い。どのタイミングでカテドラルが乱入するのか知らないけれど、悪い妖精の国の大人たちを油断させるためにしばらくはショーを演じてみせる筈。私はそう予想している。
夜の帳は降りつつあって、東の空には赤い満月が姿をのぞかせている。赤い砂漠に赤い満月だなんて、ウィッチガールのお祭りにはぴったりだ。
ここはかつての観光地。七年前のあの事件の影響で封鎖区域内に入ってしまい、だれも立ち入ることなく見捨てられている公園だ。本来なら立ち入ることなんてできないエリアの景色を独占できるのは、正直悪く無い気分。
ここで私たちはシスター・ガブリエルの用意してくれたお弁当を食べる。日持ちのことを考慮えられているのだろう、おかずを入れたマフィンや乾いたものがほとんどだった。
お客様から手配された運転手さんは、バスから降りる際に笑顔の私たちからお弁当を手渡しても表情一つ変えない強面の男性だった。逃走中にみせた運転技術一つみても、荒事には慣れた方なのだろう。
「ドクターの知り合いなんだよね、あの人。信用できるの?」
バスから降りた時、歩きながらながらカタリナ・ターコイズはこそこそ囁いた。売り飛ばされないと断言されても彼女はまだまだ不安なのだ。
「外へ連れていかれた途端、国の変な研究機関に捕まったりしない? あたしらモルモットにされたりしない?」
「――前から言いたかったんだけど、あなたおかしなコミックの読みすぎよ」
「だってあのドクター、国とか企業とかに変なコネがあるって噂があるじゃん? 実際どうなの? あんた詳しいでしょ?」
「そんなことをいちいち気にしていたらキリがないわよ」
私が奇麗な死体になるまでみんな安全だ(そしてお客様は時々子供じみた意地悪をする方だけど、あれで私の意志と生命は尊重してくださる方だ、おそらく)、このことを説明しなければいけないのはわかっている。でも、せっかくのピクニックなのだ。しかもこの数日間は目が回ったり眩んだり、とにかく激しい毎日をすごしていたのだ。カタリナ・ターコイズには悪いけれど、ちょっとくらい後回しにさせてほしい。
女の子が十一人、引率者が一人、運転手が一人、そして途中から合流した招待客が一人、合計十四人という結構な大所帯のお弁当を用意してくださったのは、この場にいないシスター・ガブリエルだ。本来の予定になかったピクニックのお弁当作りに黙って協力してくださったことについては、あの方に感謝しなければならない。
「……シスター・ガブリエルはどうするんだろうね……」
お腹が満たされたからか、私の隣に座るジャンヌ・トパーズがしんみりした声を出した。一連の出来事と、食べなれた食事とは今日でお別れだという事情が、ジャンヌ・トパーズの情緒をまた刺激したみい。
「あの人が作ってくれるご飯、美味しかったよね……。わたし達と一緒にくればよかったのに」
「マリア・ガーネットと一緒にいることにしたんですって」
「そっか。じゃああんたの女王様も寂しくないか。――でも大丈夫かな? あの人、弱そうだよ……」
雄大な日没、次第に闇にまぎれてゆく広大な大地、未来があるのかないのか不確かな私たち。
諸々の状況が否応なく私たちをセンチメンタルにさせるわけだけど、それを打ち消してしまうような無粋な子が一人紛れている。もちろん、ハニードリームのあのピンクの子だ。がつがつとチーズとベーコン入りのマフィンに食らいついたあげく、勝手に宣言する。
「あー、大丈夫大丈夫。あのシスターは生き残るよ。心配するだけ無駄無駄」
むっとしたジャンヌ・トパーズに構わず、あの子はマフィンを人よりたくさん平らげる。ジャンヌ・トパーズは私にヒソヒソ耳打ちした。
「ねえ、どうしてあの子と一緒にお弁当食べる羽目になってるの? あたし達」
「ごめんなさい。私が彼女の責任者って立場になってるから」
お詫びのかわりに、ジャンヌ・トパーズへ私の分のマフィンを一つ差し出した。ピンク色の子は私たちなんか気にも留めず、水筒の紅茶をがぶがぶ飲み干して息を吐く。
「んっだよこの喉につっかえそうな粉まみれ弁当! って引いたけど、普通に美味くてやべえじゃん。――あんな妙な環境で当たり前に美味い食べもん料理できるようなヤツってそれだけで異常だし、生命力おかしいよ。だからまあ、生き延びるんじゃない? 心配する必要なくない?」
「何その根拠? 適当だなあ」
カタリナ・ターコイズが呆れたように呟く。彼女はピンク色の子の乱暴狼藉を直接目の当たりにしていないので、ジャンヌ・トパーズほど嫌悪感を抱いていないないみたい。なんにせよ、ピンク色の子はどこ吹く風だった。
「適当じゃないし。あんたらがピクニックするって決めて実行するまで一日もなかったんだろ? それで通常業務こなしながらこんな大量の弁当一人で作れるとか、業者でもなきゃ無理だし。じゃあ魔法が使えるやつだって考えるのがあたしらの筋じゃん。──ねえ~、そこのシスター先生?」
「……」
ピンク色の子は探るような視線をシスター・ラファエルに向ける。ブランケットの上に足をのばし、お菓子たちがハメを外して怪我でもしないか崖から落ちたりしないかと目を光らせていらしたシスター・ラファエルは、彼女のことをじろっと睨んだ。対してピンク色の子は挑発的に大きな目を細める。
「 実はさー、十年近く前によく現場で一緒になってた他事務所の子がドタキャンしたっきり行方不明になったことがあったんだけど、あっちのシスター先生ってその子にちょーっと似てんだよね~。もしかしたらって思ったんだけど、もしかしたりする?」
「……失礼」
シスター・ラファエルはピンク色の子になんてお構いにならない。煙草を咥えると火を点け、ゆうゆうとけむりを燻らせになる。相手をする気はない、と態度でお示しになる。
それでもあの品の無い子はシスター・ラファエルに鬱陶しくつきまとうのだろう──という私の予想に反して、彼女は余裕気な表情を一変させた。ピンク色の子は唐突に立ち上がり、私たちから距離をとる。
「ちょっ、コラやめろって。コスチュームがヤニ臭くなんじゃん、ピンク担当に煙草は致命傷だなんですけどー。そういう所から、アイツカメラの回ってないところでタバコ吸ってるとか、業界内で悪い評判が出回ったりするんですけどー!」
魔法少女はニコチンアルコールダメ絶対~! と妙なフレーズを口にしながら、彼女は風上へ移動してゆく。
あれでプロ意識が高いことには感心したけれど、暴力撹乱破壊工作もなんでもかんでも手に染めているくせに、煙草とお酒は嗜まないだなんて。彼女の倫理観ったらまるでわからない(わかりたくもない)。
呆れながらも私は、ピンク色の子の観察力には改めて感心した。
シスター・ガブリエルは七年前の事件の生存者、九歳の女の子の命と引き換えに十二人の少女と一人の大人が閉じ込められた地下室唯一の生きて戻れた存在だ。どのようにしてたった一人生き残ったのか、マリア・ガーネットも口をつぐんでいるし、シスター・ラファエルもお話なさろうとはしない。私も詳しく訊けない。ただ、とても言葉で言いあわらせないような状況だったのだろうと想像するだけだ。
想像するだけでぞっとしてしまうような状況からたった一人だけ生きて帰ってこられたシスター・ガブリエルは、確かに大人しくてたよりない外見に反して生命力の旺盛な方だといわば言える。それをわずかな間で見抜いた彼女の眼力にだけは敬意を表さずにはいられない。ベテランなだけのことはあるのね、性格は最悪なくせに。
タバコの煙が流れてこない場所に移ったピンク色の子に、カタリナ・ターコイズが不思議そうな顔で尋ねた。
「あんたさっき十年前がどうのこうのって言ってたけど何年ウィッチガール活動やってんの? っていうかいくつなの?」
「十四歳だよ、決まってんじゃん。つかさぁ、女子に歳きくとかダサいことすんなって幼稚園の頃からきっちり躾けられる国で育ったんだろ、あんたらは?」
こうして私たちは、ほかにだれもいない元観光地で思い思いにくつろぐ。
食事を済ませてはしゃぐ子たちもいれば、バルバラ・サファイアのように私たちが逃げてきたピーチバレーパラダイスのを方を見ようとする子もいる
レストエリアから派手に逃げてきた私たちのことを、あそこにいたカテドラルはあれ以上追いかけてこようとはしなかった。ピーチバレーパラダイスからの追手も見られない。
これから始まるショーや戦闘を前に、避難民ごとき構ってる暇はないという判断がくだされた――ということならいいんだけど。
シスター・ラファエルは煙草をくゆらせながら、ピクニック・ブランケットの上に足をなげだしてお寛ぎだ。お菓子たちやピンク色のウィッチガールが羽目を外しすぎないか目を光らせながらも、何かから解放されたような、そんなご様子だった。
その中で一人だけ、離れた場所で膝を抱えて座っている子がいる。
誰でもない。テレジア・オパールだ。
バスからずっとあの調子だ。サイドキック二人に誘われても頑なに動こうとしない。この期に及んでもショーのことが頭にあるバルバラ・サファイアも、今回ばかりは自分の欲求を最優先で女王様を放置している。この前のハンスト騒動がよほど懲りたのか、アグネス・ルビーもバルバラ・サファイアに付き合っている。
よって今、女王様は一人で思う存分悲しみにくれている。
雄大な大地も、満月のから遠い空を覆う降るような星も、彼女の悲しみと後悔を癒しはしないらしい。
こんな厚かましい態度の子が一人でもいると、なんとなく場の空気は居心地悪くなるものだ。ブランケットの上で私たちは顔を見合わせ、代表してジャンヌ・トパーズが彼女へ声をかけた。
「テレジア・オパールぅ、とりあえずなんか食べたら~? 明日まで持たないよ~?」
「――」
当たり前のようにテレジア・オパールは無視をする。膝を抱えた姿勢のままピクリとも動かない。ジャンヌ・トパーズは肩をすくめた。
本当に周りに気を使わせることには長けた子なんだから。イライラするのに、厚かましく図々しく自分だけの悲しみに思い切り浸っているテレジア・オパールを、今回だけは突き放すことができなかった。
マリア・ガーネットとは永遠にお別れだ、とピンク色のウィッチガールに気遣いの欠片も無く告げられた後、テレジア・オパールは一旦その場にへたり込みそうになった。でもその後、通路を突っ切ってやってくると平手で私の顔を叩いたのだった。
走行中のバスの中、高いソールのサンダルをはいた状態で繰り出す平手打ちのとしてはかなり痛いものだったと思う。
「どうしてあの子を連れてきてあげなかったの、マルガリタ・アメジスト! いっつもいっつもベタベタしてたくせにどうしてそういう可哀想なことをするわけ⁉ 薄情者!」
涙の浮かんだ目でテレジア・オパールは私を睨んだ。普段マリア・ガーネットには意地悪なことばかり口にするテレジア・オパールが、あの子のことを素直に思いやる姿がとても新鮮で、涙目になった所もいたいけだった。
我儘で高慢ちきで素直じゃなくて手を焼かせるのを当然だと思っているに違いない、彼女のことを初めて可愛いなと思えた瞬間だった。
「あなたいつもそういう態度だったら良かったのに」
叩かれた頰に手を添えて思わずそう呟いた所、空いた方の頬をまた平手で叩かれたのだった。
シスター・ラファエルが鎮めてくださらなかったら、私は一体どうなっていたことやら。
「──でもさあ、あんたもあのセリフは良く無かったよ? バスの中ではあの子を刺激するなって言ったのに……」
しばらく前のことを振り返っていた所、急にジャンヌ・トパーズが私の方を非難がましい目で見つめる。
「あなたいつもそういう態度だったら――って、あの子と一晩一緒に過ごしたあんたがそんなこと言っちゃ、そりゃテレジア・オパールは怒るよ」
魔法瓶のお茶を飲みながらジャンヌ・トパーズは私を叱る。普段私の味方になってくれる彼女が、テレジア・オパールの肩を持つのだから、私はよっぽどひどい真似をしでかしたということになのだろう。
でも納得いかない。だからちょっと口ごたえをしてしまう。
「無駄につんつんせずに、以前からあんな風に素直でいたら可愛くて素敵なのにって思いから口にしただけよ、私は? 悪気なんてなかったわ」
「あんたはそういうつもりでも、あのシチュエーションじゃそう響かないよぉ。『あんたが素直になれなくて行動できない間に私はさっさとあの子の一番の仲良しになってイチャイチャベタベタしまくった挙句最後の夜を一緒に過ごしました〜。ふふん』って受け取られるに決まってん――うわっ!」
どさっ、とピクニックブランケットの上に何かが降ってきた。テレジア・オパールが履いていたソールの高いサンダルだ。
振り返ると、膝を抱えていたはずのテレジア・オパールが片方だけ裸足で、こっちへ投げつけた姿勢のままで立っている。私たちがじっと見ているとそのまままたどすんと座って膝を抱える。
「今のその態度はなんですか、テレジア・オパール!」
先生としての立場からシスター・ラファエルはお叱りになったけれど、もちろんテレジア・オパールは耳を貸さない。再び膝を抱えて悲しみに浸りだす。
あきれる程に強情っぱりで、手を焼かせ、いつも通りわがまま放題な姿だ。
彼女のそんな姿をみると普段ならむしゃくしゃするしてたまらないのに、うらやましいような可哀想なような複雑な気持ちになるのは何故だろう。壮大な景色のせいかしら。
私だけマリア・ガーネットとお別れを済ませることができた優越感と罪悪感がそうさせるのかしら。
自分の世界に思う存分こもりきるテレジア・オパールの姿をみていたら、私の胸がちくちく痛みだす。せっかく今まで抑えていたのに。
私もブランケットの上で膝を抱えた。そろえた膝の上に額を乗せて顔を伏せる。
真夜中から朝にかけての数時間、マリア・ガーネットが私のことを「可愛い」って言ってくれたのは結局一回きりだった。
でもガラスか陶器でできた細工物をあつかうように私の体に触れてくれた左手の柔らかさから、私を愛らしく尊いものだと感じてくれている気持ちは十分伝わってきた。
人造ウィッチガールらしく私の見た目は申し分ない筈なのに、ここにいると外見をあまり評価してもらえなくなる。だから、胸の光とネオンの照り返しが浮かび上がらせている私の体を、あの子が息をつめて食い入るように見つめてきたそれだけで、くすぐったいような泣きたいような気持になった。今までそんな気持ちになんてなったことがなくて戸惑っていたら、体が自然と初めて他人に体を見られた女の子のように動きだしてさらに戸惑ってしまう。これじゃ媚を売っているみたいだって焦る所へあの子の優しい手が触れてきたから、いつになく早く高みへ追い詰められてしまう。
でも結局、あの子があまりこわごわと大切そうに触れるから、次第にじれったくなって結局私が主導権を握る形になってしまったけれど。
壊れ物のような外見に仕上がるよう造られているけれど、所詮私は大量生産品でしかない。少々乱暴に扱ってもいいように作られている筈。痛いのは嫌だけど、もう少し強引なくらいでちょうどいい。でないと胸の光りが収まらない。
そんな思いを込めて、あの子の体の敏感そうな場所を指と手と舌で探って調べる。ショー向きの露出度の高い恰好をしていたから作業は簡単で、私に攻められるとあの子は身をよじり切なそうな息と声をもらした。
あの子がひと際可愛い声をあげる場所がわかると、そこをゆっくり丁寧に刺激しながら耳元でわざと恥ずかしくなるような言葉を口にしてみたりもした。あの子が私に反撃せずにはいられなくなるように。
私の狙い通りに動いているともしらないあの子は、機をみて私を組み敷いてようやく私が望んでいたように荒々しく屠ってくれた。
ショーの時の女王様のみたいに。
「ここ……すごく光ってるけど」
あの子の右手が私の胸の光を直接指差す。魔力と魔力が反応してぱちぱちとはじけるキャンデイみたいに爆ぜた。こんなことは初めてで余裕のない声を出してしまった時にも、左手は私の体を攻めてくれていた。
「こういうことされてこんな風になるなんて……あんたって本当にやらしいね、マルガリタ・アメジスト」
無敗の女王様とはおもえないぎこちなさで言葉で責める様子が可愛くて、私は唇をなめた。
「だって私はずっとあなたとこうしたかったんだもの、マリア・ガーネット。嬉しいからこうなるの」
そして唇を塞いだ。
私の胸の光りが消える頃には日が昇り、そろそろ出発準備に取り掛からなきゃいけない時間になっている。
裸のマリア・ガーネットは、いつかのように私のことをぎゅっと抱いていた。目の前にはあの子の形のいい大きめの胸があった。いい眺めだったけれどそろそろ行かなきゃ、離れようとするとあの子は私を抱きしめる腕に力をこめる。
行かないで、っていう風に。
私に遊園地の思い出を語ったような時のような、おさない仕草で。
「……もう少しだけ、こうさせて。マルガリタ・アメジスト」
最後の最後でくまちゃんを求める状態になったマリア・ガーネットが、幼くて儚くてたまらなかった。あの子はこれからショーに出て、カテドラルを招き入れてこの町を一掃するのだ。その場に私はいられない。
私はあの子の馬のたてがみみたいな髪を撫でた。染めてるから少し傷んでるけれど、こしが強くて指通りがいい。
しばらくすると、あの子は私を抱いていた右腕を背中から遠ざけ、サイドボードまで伸ばして何かを取った。
「これ、あんたが預かってくれない?」
目の前に差し出したのは、黒い革表紙のバイブルだった。時間がある時にあの子がパラパラめくったり、余白に何かを書き込んだりしているあのバイブル。少なすぎるマリア・ガーネットの私物の中でも、一等特別そうなものだ。
それをどうして私に渡すのか、上目で見つめて問いかけると、マリア・ガーネットは照れくさそうに笑った。
「ショーが始まって、兄さんが帰ってきて――ここがどうなるかわからないから。ちゃんと保管してほしいんだ」
「……大切なものじゃないの?」
「大切なものだよ。父さんの形見だし。それにあたしの思い出が書いてある」
ソファの上でマリア・ガーネットは姿勢をかえる。ぱらぱらとバイブルを捲って私にもその中身を見せる。余白に書かれている細かな文字も一緒にめくれてゆく。
「ここがこんなになるまで、あたしや父さんや母さんや兄さんや、メラニーやシェルターの姉さんたちや、近所の友達のことなんかの思い出がランダムに書いてあるだけ。あいつらにみられてもいいように暗号っぽくしてあるけど、そんな難しくないからあんたならすぐ読めるよ」
当たり前で、つまんないことばっかりだけどね、と付け足してあの子は苦笑する。
「ここは多分、消えてなくなるから。こんな町があったってことも忘れ去られるから、だからあんたが持ってて。そうしたら一応、こんな町があってこんな家族がいたってことだけは辛うじて遺されるから」
マリア・ガーネットはバイブルをとじて私に手渡した。
私はそれを抱きしめる。大切なものを裸の胸に書き抱くことに抵抗があったけれど、そうせずにはいられなかった。これはマリア・ガーネットにとって何よりも大切なものだ。忘れないで、というメッセージのこもったものだ。
私もこの子に忘れて欲しくない。こういう子がいたってことをどこかに遺してほしい。
「あんたみたいに変なやつ、絶対忘れないから安心しなよ」
マリア・ガーネットはそういうけれど、形になるものをどうしても手渡したかった。でも今それはない。
せめて――と体に跡を着けようとすると、焦って体を離そうとする。
「ちょ……ショーだから! ショーに出るんだから見える所はやめて!」
「見えない所ならいいの?」
「そうだね――背中とかなら、まあ」
返事を聞くより先に、私はこの子の肩甲骨付近に唇を当てた。くすぐったそうに身をよじったけれど、大人しくしてくれていた。
背中につけた跡なんて、数日たてば消えてしまう儚いものだけど。あの子は跡が消えても私のことを覚えていてくれるだろうか。
預けられたバイブルはトランクの中だ。ひょっとしたらバトントワリングを嫌がった日の思い出も書かれているのかもしれない。
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