第27話 真夜中
十二人いるお菓子のうち一人を除いた十一人、そのうち数人が教会で聖歌を歌う。
会衆席に座ったお客様たちがそこから、気に入ったお菓子を指名する。
指名されたお菓子は、神父様のお住まいにある部屋で待機をする。
その部屋にお客様がやってくる。
これがこの教会の仕組み。
普段のお仕事は交代制で、十一人全員がお勤めにはげむことはまず無い。でも「掻き入れ時だから」という神父様のご命令により、今夜はシスター・ラファエルが演奏するオルガンにあわせて十一人で合唱していた。
心を込めることなく歌うのも、これが最後になるだろう。こうやって掻き入れたお金もどうなってしまうことやら。
ホーム最後の夜でも、私を使命なさったのはいつものお客様だった。今後の話もあるから仕方ないのだけれど。
「不貞腐れるのはよしてくれないか。最後の最後なんだから」
「最後じゃないわ。私が奇麗な死体になるまでおじさまとの縁は続くんだもの」
車の手配、封鎖区域の外に出る為の通行証の受け取り、身の振り方が決まるまで滞在することになている建物の所在地、必要な手順や情報の確認を早々にすませた後、私はベッドに寝ころんでいた。壁の方を向き、膝を抱えて丸くなっている。お菓子の勤務態度としては失格だ。
「……マリア・ガーネットとはあと数時間でお別れなのに」
「いじけるのは私のいないところで存分にやりたまえ」
甘えた女の子が嫌いなお客様は、いじけた女の子のことだってもちろんお気に召さない。わかっているから存分にいじけてやる。
ハニードリームからのお客様が帰った後にガレージを覗いてみたけれど、マリア・ガーネットの姿は無かった。広報活動に熱心な神父様は、あんなことがあった翌日でもあの子を離して下さらない。
今日は砂が舞う日だったから、外に洗濯物は干されなかった。
お客様から手渡されたタブレットからウィッチガールバトルショーの専門サイトを閲覧する。ネットの海のうんと深くまで潜らなければたどり着けない、そんな場所でこの動画は公開されている。広報に励んでみせているマリア・ガーネットの動画はここでしか見られない。
今日のあの子ずっと、明日本番を迎えるショーの為にショーでおなじみのウィッチガールスレイヤーとして振舞っていたみたいだ。
赤いマントの下にチョーカーとビスチェだけを纏った上半身に、ローライズなボトム。引き締まってしなやかな肢体を見せつける、何回見ても見飽きない無敗の女王様スタイルだ。翻るマントから魔法の右腕が覗く。
フェンスと給水塔を背に立っているのは、いつも実況と審判を担当しているバニーガールスタイルのウィッチガールだ。彼女からの執拗な問いかけをクールかつぶっきらぼうに無視することで、あの子はショーで演じているいつものキャラクターを忠実に守っていた。こんな時なのに。こんな時だからこそ?
ヒール風のメイクを施したこの子は、やっぱり綺麗で格好良くてぞくぞくするくらい色っぽい。寝ていたソファから落っこちたり洗濯が好きだったり、頼まれてジャガイモの皮を剥いていたり、嬉しいことがあると思いっきり笑顔になるような、そんな子には見えない。まして神様を信じているような子には。
カメラの前で無敗の女王様を演じているあの子も好きで、そこからのギャップの激しい普段のあの子も姿も好きだ。そんなことを考えていると、どうしたって無性に会いたくなってしまう。
バニーガールスタイルのウィッチガールを無視するあの子の動画を繰り返しながら、私はため息をついた。
昨日の午後、ショー用に演じてみせるキャラクターとはまるで違う顔つきでびっくりしていたあの子のことをよく思い出すために、私は目を閉じた。
「あんたそれ、飲んでなかったの?」
私が拾い上げたチェリーソーダの瓶が、まさか以前自分が渡したものと同じものだったなんて──。あの瓶があそこにあったのは、あの子にとっては驚きの種だったのだ。
昨日の午後、院長室で。
ひとしきり涙を流し終わったあとのシスター・ラファエルは涙をぬぐい、鼻をかみ、顔をぱちんと叩いて気合を入れると早速行動を開始なさった。
「こうなってはぐずぐずしていられませんからね。神父様に話を通してきます!」
こう言うなり、颯爽と院長室を出て行かれた。シスター・ラファエルは厳しい方だけど、その分修羅場をかいくぐってきた方らしい風格を感じる背中を見送ったあと、私たちは二人、院長室に残された。
その後すぐに、バラバラになったデスクの残骸に紛れて転がっているチェリーソーダの瓶を見つけたのだ。厚紙のトランクは見る影もなくひしゃげていたけど、瓶は奇跡的に無傷。傾けると赤く着色されたソーダがとぷんと揺れた。
いかめしい院長室とは全く不似合いなこの瓶が、あの日、ジャンヌ・トパーズとカタリナ・ターコイズの手を借りて自分が渡したものだと気づいて、マリア・ガーネットはびっくりしたのだ。
「えっ、何で? これ嫌いだった?」
「違うの。あなたから初めてもらったものだからとっておきたかったの」
あの暑苦しくて陰気な地下室で、このソーダの瓶だけが愛らしくて私を支えてくれた。それがくすぐったくなるくらい嬉しかったから飲まずにとっておいたのに、マリア・ガーネットはやっぱりムードを理解してくれなかった。
「気持ちはありがたいけど、早めに飲んだ方がいいよ? 賞味期限ってものがあるんだから」
「嫌。とっておくの」
背中に瓶を隠して顔をそむける。
泣きたい気持ちを殺したばっかりだったから、ちょっとぐらい拗ねて困らせてやりたくなったのだ。
「ずっと飲まずにとっておくの」
この子には私が何を言いたいのかどうせ伝わらないんでしょうけれど。
そうやって心の準備をしていた時に限って、私の頰に両手を添えて顔をむかせて覗きこんだりする。マリア・ガーネットってそんな子だ。
赤い瞳でもの言いたげにこっちの瞳をみつめるくせに、欲しい言葉はなかなかくれない子。
魔法の効果でじんわり温かい金属の右手。柔らかい左手で頰に触れられるのも気持ちいいけれど、私は右手で触られるのが好きだった。あの子が右手で触れるのは私だけだもの。だからあの子の右手に私の左の頰をくっつける。
「どうしたの?」
「ん、いや……」
マリア・ガーネットが両手を滑らせて、私の肩に置く。そのままさらに背中へと滑らせたあと、ぎゅっと力を込められた。私は抱きしめられる格好になる。
体を少しかがめて、私の耳にあの子が口を近づけた。耳に息がかかる。胸に光が灯ったことを熱と鼓動で感じた。
「ありがとう、マルガリタ・アメジスト。さっきは本当に……ありがとう」
私がドルチェティンカーの後継者になることを宣言したこと、それから封鎖区域の外に出るという計画を私主導の案だというニュアンスを匂わせたこと。マリア・ガーネットはこの二つに対してをありったけの感謝を伝えてくれていた。
「あたしはあんたみたいに口が回らないからこういうしかないんだけど、……ありがとう……ここに来てくれて」
ややかすれ気味なマリア・ガーネットの声を真近で受けて、耳が、全身が痺れてたまらなくなった。
瓶を持った右手と何も持たない左手を、あの子の背中へ回す。空の左手で背中をかき抱く。応えるようにマリア・ガーネットも腕に力をこめる。それでも硬い右腕が私を潰さないように加減してくれる気配があって、嬉しいのとじれったいのでたまらなくなる。いっそ潰してくれればいいのに。
しだいに涙で濡れてくる声であの子がくりかえす「ありがとう」が「さよなら」にしか聞こえなくなってきて、合わさった私たちの胸の隙間から薄紫色の光がこぼれる。
ありがとう、なんてやめて。
私はそう伝えたかった。
私がこの教会に今こうしているのは単なる偶然。ウィッチガールがお嫌いなカテドラルの騎士に壊されて、廃品としてここに流されてきただけだ。
私がここに来たことを感謝するのなら、きっかけを作ったカテドラルの騎士にもそれを捧げなければ筋が通らない。そしてカテドラルの騎士に私を壊すよう指示した、天に棲む誰かによる筋書きにも。だから嫌。
私がここに来たのはただの偶々で、私があなたを好きになったのもあなたが偶々私の好みに合うくらい綺麗な子だったにすぎない。ロマンチックなお話に登場する運命というものなんかじゃない。
偶々あなたのことが好きになった私が、あなたの右腕になりたくて、柄にもなく全力を出しただけだ。それだけの話だ。
でもきっとマリア・ガーネットは私に感謝するのと同時に、私をここへよこした神様にも感謝をささげている筈だ。だってこの子はそういう子だもの。
神様を信じているこの子のことが好きなのに、私はどうしても神様が信じられない。この子がありがとうと唱えるごとに、私への気持ちが神様へも分配されるのが口惜しいくらい。
だから、ありがとうなんて言わないで。感謝なんてしないで。
ありがとうって言葉で私を従わせないで。
ありがとうなんて言うくらいなら、ショーのときに見せる冷酷で無慈悲で格好良い女王様姿でめちゃくちゃにいたぶってくれた方がずっといい。呆れるほど我儘で手を焼かせるテレジア・オパールにはあんなにサービスするんだから、私にはもっと手をかけてくれたって罰は当たらない筈だ。それだけで私は封鎖区域の外にあるどこか知らない場所で、きれいな死体になるまで幸福に生きていけるのに。
そう伝えたかったのに、マリア・ガーネットが唇を優しく重ねてきたから何も言えなくなってしまう。
勉強として見させられるティーン向け映画で見たような、初めて好きになった子と気持ちが通じ合った時におくる優しい口づけだったせい。何かと正直な体を持つ私にはこういうキスは贈れない。
小鳥の羽毛に触れるように、いたわる様に髪を撫でる手が辛いくらいに優しかった。
胸のひかりが眩しすぎて邪魔だったから、私はうんと胸をあの子の体に押し付けた。
──昨日の院長室のことを思い出してため息をつく私を、お客様はうんざりした様子で御覧になる。胸をじんわり光らせていること、私が誰のことを考えてそうなっているのかよくおわかりなのだろう。本当に不便な体だ。
「……つくづくはしたない娘だな、君は」
「とっくにご存じでしょう? そんなこと」
猫なで声の女の子が嫌いなお客様に、お行儀の悪くて反抗的な態度はけっこう効果的。お客様はベッドの縁に腰をおろし、膝を抱えてタブレットを操作している私に覆いかぶさる。
夜が明けまでまだ遠い。この方だって退屈だもの、何かしら時間を潰さないと間がもちはしない。
膝を伸ばして開かせるお客様には逆らわず、でもその間も私はタブレットを見つめている。
新しいブラウザを開いて地図を開いた。戯れにここから一番近い界通トンネルを調べてみる。
「酷い勤務態度だ」
口ではそう仰るけれど、お客様は愉快そうに私の服の裾を捲る。
お客様にすら「はしたない」とたしなめられるほどの体になったのは、この時のキスのせい。
マリア・ガーネットに何度も唇を啄まれて、だんだんそれが激しくなるうちに自然と二人とも息遣いも荒くなる。お行儀悪くなって、と願いを込めて口の中に入ってきた舌を迎え入れると、やっとあの子の体が高ぶった兆しをみせてくれた。
なのに、ちょうどその瞬間、院長室のドアがノックされたのだ。
「ジョージナ、そこにいる?」
「!」
柔和でたよりないその声は、誰でもない。シスター・ガブリエルのもの。
無視して! というつもりで私はあの子の背中に爪を立てたのに、マリア・ガーネットは体は一瞬で強張った。情熱的だった口の動きが止まってしまう。
――ああもう、こうなっては何もかも台無しだ。
口惜しさに地団駄を踏みたくなる気持ちを抑えながら、テレジア・オパールがハンストを決行するきっかけになった物干し場での出来事を思い出していた。どうして私とあの子がいい感じになると邪魔が入るのかしら、いつもいつも……。
「いるわよね? ジョージナ、入るわよ」
「ま、待ってルーシー! 今はちょっと――」
ドアノブが回転する音に焦ったように、マリア・ガーネットは私の口から口を離した。ドアへむけて呼びかけたけど、シスター・ガブリエルは気を利かせてはくださらなかった。
「メラニーが明後日急にピクニックをすることになったって言うんだけど一体何が……」
マリア・ガーネットはわかりやすく狼狽える。その様子ったら、秘密の遊びに耽っていたところを親に踏み込まれたティーンエイジャーのそのものだった。それを察した上で、私はこの子の体にぎゅっとくっついた。だって私は恥ずかしくなかったもの。
闖入者のシスター・ガブリエルは、抱き合っている私たちを見て目を見開いた。緑色の瞳でこちらをご覧になって数拍の間を置いた後、ぱちぱちと瞬きをなさった。
「……」
開けたドアを、シスター・ガブリエル一旦閉じられる。そのまま見なかったことにして引き返して下さればいいものを、ものの数秒で正気にお戻りに。今度は勢いよくドアを開き、こんな時ですら足音をあまりお立てになることなくこちらへ歩み寄られた。いたずらっ子の悪さを発見した新米教師の顔で、私たち二人をお叱りになった。
「あなた達何をしてるんです、ここは院長室ですよ! 全くもうこの一大事に……!」
こんな無惨なことになってしまえば、空気を元通りにするなんて絶対に無理。マリア・ガーネットは左手で顔を覆って天を仰ぎ、シスター・ガブリエルのお叱りを身に浴びていた。
せめて私は反抗して、あの子の体によりくっついた。
「返事を待たずにドアを開けるだなんて、マナーに反するのではありませんか? シスター・ガブリエル」
「……またあなたなの、マルガリタ・アメジスト? 本当にもう、あなたという子は……」
「また」ってどういうことなのか? 私はそれを聞いてムッとする。
そもそもシスター・ガブリエルだって、私がマリア・ガーネットと一緒にシスター・ラファエルに呼び出されたのはご存じな筈じゃない? 院長室前で言葉を交わしたばかりなんだから。
それなのに、私もいることなんかをお忘れになったように院長室に入られた。ドアをノックした際の呼びかけも、マリア・ガーネットのことを「ジョージナ」とお呼びだった。自分たちの間だけで通じるその名前をお使いになったのは、最初から私がここに居ることを考えていない証だ。
どうもこの方には、七年前から一緒に過ごした三人から私を仲間外れにしようとする傾向が強く見受けられる。線を引かれた側としては、どうしたってこだわってしまう。
──大体「この一大事」って何よ。ご自身だってシスター・ラファエルに呼び出されていたのに、夕食の準備があるからってだけでマリア・ガーネットに説明責任を丸投げしていたじゃない? 私は忘れていませんからね――。
そんな思いを視線に込めたのに、シスター・ガブリエルはその時にはもう粉々になったデスクの残骸にご注目だった。ひいっと息を飲まれたあと、怯え切った目を私へお向けになる。
「これもあなたがやったの、マルガリタ・アメジスト⁉」
「冗談はおやめください。私にこんなことができる腕力も魔法の力もありません」
この方はわざと私を怒らせようとなさってるんじゃないかしら? という疑惑が私の中で膨らむきっかけとなった出来事だった。
――こんな風に中途半端に火がついた状態で放りだされたから、私の胸は弱く光が灯りつづけていた。服を着ていれば隠れてしまうほのかな明るさだったけれど、それでも光はずっと消えない。
お客様のおもちゃになってほどほどに体の飢えは満たされても、やっぱりちらちらと紫色に胸元が光っている。
やっぱり私はあの子に会いたいのだ。
あの子じゃないとこの光は消せない。
あの子に会えないとこのままずっと胸は光ったままなのかしら。それは困る。
タブレットを起動して時間を確かめる。時刻は日付が変わって数時間経った所。お客様は私の隣でよくお眠りだ。急なお仕事のお任せしたんだもの、お疲れだったのだろう。
私もこのまま眠ってしまおうか。休める時に休まないと、明日からへばってしまうもの。
「……」
大人しく眠ってしまうなんて無理、そんなの考えるまでも無い。
床に投げ捨てた服を拾って身に着けると、そっとドアを部屋を出てゆく。神父様のお住まいの窓は全て嵌め殺しだから、窓から脱出するのは絶対無理。
廊下には、お菓子たちがちゃんとお仕事に励んでいるかを見張る宣教師がいらっしゃる。その脇を、お手洗いに行くんですけどなにか? という顔つきで通り抜けようとしてみたけれど、なかなか難しかったみたい。宣教師は廊下を小走りで通ろうとする私の後をついて来る。まあそりゃそうよね、この人たちはこれがお仕事なんだから。
「便所はそっちじゃねえぞ」
そしらぬ顔で玄関の方へ向かおうとすれば、当たり前のように警告を受けた。大柄で荒事にむいていそうな宣教師らしい、がらがらとした低い声だ。
「ホームの方へ行こうと思ったの。ここのお化粧室はお掃除が緩いんですもの」
「そりゃあお前らが手ぇぬいてるってこったろうが」
私の言い分なんて、この方に通じるわけがない。大きな手が私の肩を掴み、引き返すように促す。ここで逆らったって痛い目をみるだけ。ここは一度、大人しく引き下がった方が部屋に方が賢そうだ。
そんな考えを巡らせていると、静かに玄関のドアが開いた。現れたのはシスター・ガブリエル。彼女は宣教師に捕まっている私を見るなり、はぁ、と小さくため息を吐かれた。何やら勝手に呆れられたご様子。
私の方だって、感情をこらえるのを失敗してしまう。またこの方と顔を合わせることになってしまい、眉間に皺が寄ったのを感じずにはいられなかった。
何しにいらしたのかしら? といぶかしむ私のそばまで、シスター・ガブリエルは滑るように私の傍まで歩まれる。いつものように滑るような足取りで。そしていつもの、新米の先生じみた頼りない表情で私に囁かれた。
「約束通り迎えに来ましたよ、マルガリタ・アメジスト」
「!」
思わず息をのんだ。
今から約半日前、夜になればマリア・ガーネットにあわせてあげると確かに彼女は仰った。ピンク色のウィッチガールが立ち去ったあとの客間で、そんな口約束を交わしたことは私だって覚えている。でも、この方が本気でそれを守ってくれるだなんて、私は一かけらも信じていなかったから。
言葉が出てこない私に変わって、シスター・ガブリエルは宣教師に近づき気弱そうに囁く。
「所用がありますので……。しばらくこの子をお借りしますね」
「用ねえ……。そいつはさっきそんなこと一言も言いやがりませんでしたぜ、シスター。あんたに用があるなら正直に言えばいいもんだが」
宣教師の絡むような声にも、シスター・ガブリエルは怯まなかった。それどころか、蠱惑的と呼んでいい笑みを浮かべて、右手の人差し指を立たせる。家政を受け持ちなのに荒れた所一つみられない細くて白い指先に、宣教師の視線が自然と吸い寄せられる。シスター・ガブリエルはつうっとその指を、宣教師の口元へ運ぶ。唇に触れそうなくらい近く。
「お疲れでしょう? どうぞゆっくりお休みくださいませね」
そう仰るなり、シスター・ガブリエルは指先を素早く上へ滑らせた。気を呑まれたように指先に見入っている宣教師の目が指を追って上を向く。その頃にはもう、シスター・ガブリエルの右人差し指は、宣教師の額につぷりと埋まっていた。
関節一つ分ほど、しっかりと、音もなく。指がしっかり額の中に潜り込んだのに、血や体液が溢れ出る、なんてことも無かった。
信じがたいようなことが自分の身の上に起きているのに、宣教師はただ「あ?」という声を漏らしただけ、痛みも何も感じていないよう。でも、シスター・ガブリエルの指が額から抜き取られると同時に両目がどろんと淀んだ。そして、その場で崩れ落ちる。
あおむけに倒れた宣教師の額には、傷跡一つない。倒れた宣教師は宣教師だって、目を閉じて唸り声のようないびきを上げながら眠っているだけだった。
自分が今見たものがとっさに信じられず、私は言葉を失う。シスター・ガブリエルは間違いなく、今、魔法を使われたのだ。
興味深さから宣教師の顔をのぞき込んでしまう私の手を、シスター・ガブリエルはぎゅっと掴んで引っ張られた。
「いらっしゃい」
冷たい声で一言命じて、たたらを踏んでしまった私に態勢を整える間も与えることなく、するするとシスター・ガブリエルは歩まれる。滑るような足取りのまま、神父様のお住まいから外に出た。
建物の外、ビーチバレーパラダイスのけばけばしいネオンの照り返しをあびるシスター・ガブリエルの横顔は、いつもの新米小学校教師風。さっきの蠱惑的な微笑みや冷たい声は気のせいだったのかと思うほどだ。
でも私はこの目で見たのだ、シスター・ガブリエルが不思議な現象を繰り広げたところを。あれはどこからどうみても魔法だ。彼女は魔法を使ったのだ。
マリア・ガーネットは言っていた。シスター・ガブリエルは元ウィッチガールで、あの子に魔法の手解きをした先生だったって。今の今までどうしても信じられなかったけど、さっき彼女がみせた手際は鮮やかだった。
「……本当にもう、あなたって子は……。少しの我慢もできないのね」
外に出た途端、私に対する悪感情を露わになさるいつもの調子に戻られたから、これ以上感心する気を失くしてしまったけれど。
「申し訳ありません、シスター・ガブリエル。あなたがまさか私とかわした口約束を覚えてくださるだなんて思いもしなかったので」
「……どうしてそんな、意地悪な口をきくの?」
シスター・ガブリエルは私をガレージへ導きながら、首を左右にふり、あてつけるようにため息を吐かれる。
「ジョージナはどうしてあなたみたいな子をお友達に選んだのかしら? ホームにはもっと良い子だっているのに。よりにもよって、こんな……」
「ええ、シスター・ガブリエル。私以外の子はごくわずかをのぞいて皆良い子です、自分からお相手に声をかけるような真似をしてはならないという教えを頑なに守っていたんですもの。教えに背いた結果、私はあの子の隣に立てるようになりましたけど」
シスター・ガブリエルは私を冷ややかに見下ろすのみで、何も仰らない。今までなんとか隠そうとはされていた私への嫌悪がついに剥き出しに。
でも、そんなことはすぐにどうでもよくなる。
ガレージのそばにマリア・ガーネットが立っていたのが見えたから。広報活動が終わった後なのか、ショーの女王様スタイルで。
「ジョージナがあなたに会いたがっていたから連れてきてあげたのよ? そのことを忘れないで頂戴ね」
それこそ意地悪な口調でシスター・ガブリエルは私にお告げになったけれど、いちいち気分を害してなんかいなかった。走ってあの子に飛びついていたんだもの。
「お帰りなさい、マリア・ガーネット」
「ただいま、マルガリタ・アメジスト」
マリア・ガーネットは飛びついた私を受け止めてくれるけど、やっぱりプリンセスを抱き上げるようにはしてくれない。でも、待ち焦がれていたようにぎゅうっと抱きしめてくれたんだから、それで十分。
「ちょ、待っ……待ってって……! んっ」
胸の光がずっと消えなかった私はもう限界に達してしまい、マリア・ガーネットをソファの上に押し倒している。太ももの上に跨って、あの子の肩をソファのクッションに押し付ける。
院長室の続きをしたくてしたくてたまらなかったから、まず唇に吸い付いて、あの子に準備を促す。だって私には時間が無いんだもの。
待ってなんて言いつつも、この子は私にされるがまま。本気なんか出さなくたって私を払い除けるくらいできはずなのに、素直に抑え込まれてくれている。それはきっと、私と同じ気持ちだから。
──なんて油断していた所、息継ぎのために唇を離した隙をついて腰を掴まれて、軽々とひっくり返されてしまった。
「待ってってば……もう!」
マリア・ガーネットをソファの上に組み敷いていたのに、今度は反対に組み敷かれる側になってしまう。まあ問題はないけど。むしろ、もっともっとっておねだりしたいくらいだけど。
首の後ろに両腕を回してせがんでも、この子はまだ躊躇うそぶりをみせている。
「ちょっと待ってってば――あんたがっつきすぎで怖いって」
窓から差し込むネオンで照らされるマリア・ガーネットの顔には、恥ずかしさに加えて怯えがまじっている。
そうだこの子は怖い目に遭ったばかりだった。
あの子への配慮を失念していたことを悔いて、私は手のひらで顔を覆う。
「……ごめんなさい。私ってば本当にはしたなくて……」
「あ……、や、ちょっとびっくりしただけだから」
私の上にかぶさるマリア・ガーネットは、私の顔を覆う手をそっとどかせる。
私のことを見下ろす顔から、怯えが消えている。よかった。ほっとして微笑むと、この子も微笑み返してく」る。無敗の女王様スタイルには似合わない無防備な笑顔だったけれど、そのギャップに息苦しくなるほど胸が跳ねる。
マリア・ガーネットは金属でできた右手を私の頰にそっとくっつけた。じんわりと温かい鉄の腕。だから甘えるように左の頬をすりつける。
その様子を、この子はじっと見下ろしている。思いのほか真面目な顔つきで。
「どうしたの?」
食い入るように見つめられたから、左の頬をすりよせたまま私は訊いた。
すると、ちょっと慌てたように視線をそらしてみせた。
「や、その……なんでもない」
ネオンで照らされた顔が少し赤らんでいる。その照れた様子が可愛くてたまらない。ついつい意地悪をしたくなってしまう。
「はぐらかすのは禁止。そうやって説明をとばしたり面倒臭がったりしちゃダメだってカタリナ・ターコイズが言ってたわ」
「だからそんな、別になんでもないって……ただちょっと」
右手で私の頰をそっと撫でながら、マリア・ガーネットは呟く。
「こういう時のあんたは普段とは別人みたいだなって思っただけ……。なんていうかその…………あれだよ」
しばらくためらってから、意を決したように、何故かちょっと怒ったような顔つきで告げる。
「こうした時のあんた、可愛いから」
ぐっと心臓が掴まれた思いがした。
聞き間違いかと思った。
いつもいつも私の顔を見ると、助平だとか根性腐ってるとかそんなことしか言わない子が今なんて? 可愛いとか言わなかったかしら?
俄かには信じられなかったせいか、私はよっぽどおかしな表情をしていたみたい。
マリア・ガーネットは左手で髪をくしゃくしゃさせてから頭を左右に振った。私にからかわれているとでも勘違いしたみたい。
「ほらもう、今のはナシっ! 聞かなかったことにして」
そんな勿体無いことをするわけがない。
私は腕を伸ばしてマリア・ガーネットの首を抱く。
「ありがとう」よりずっと、「可愛い」はうれしかった。全身がびりびり痺れるくらい。それだけで有頂天になれるくらい。
私がマリア・ガーネットが欲しいと思ってるように、マリア・ガーネットも私のことを欲しいと思ってくれていることだもの。だから胸の光は強くなる。
それを隠すために、私は胸をあの子の胸にくっつける。でも無理だったけど、密着した箇所から光が漏れてしまったから。
とにかく私は嬉しかった。
遠く知らない町で綺麗な死体になるまでは、いつまでもいつまでも生きていけそうなくらい。
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