第11話 睦言
「だっ!」
ごとっ、と床で何かがぶつかる音とマリア・ガーネットのおかしな声、それで私は目を覚ました。
地下室じゃなくてガレージにいるまでの出来事を思い出しながら、ぼんやりあたりを見回した。と、擦り切れたラグの上で呻いているマリア・ガーネットのが姿がすぐに目に入った。膝と片手をついた格好のあの子は「っ
寝ぼけ頭で判断するに、どうやらソファから移動しようとした拍子に足がもつれでもしたのか、ソファから落っこちたっていう状況らしい。ドジっ子ちゃんで可愛いけど、ぶつけたのが顔というのがよろしくない。私はゆっくり、顔をさすっているあの子へ手を伸ばす。
「おはようマリア・ガーネット。ぶつけたところ見せて」
「……おはよう、マルガリタ・アメジスト。別にどうもなってないから安心して」
あの子は、ぷい、と顔を背けてしまった。ソファから落っこちるという可愛い所を私に見られたのがたまらなく恥ずかしかったみたい。声がことさらぶっきらぼうでこっちを見ようとしない様子から、私は頭をめぐらせた。──どうやらこの子、窓から差し込む清浄な午前の陽の光に照らされるうちに、私に甘えながら眠ってしまったことを思い出して居た堪れなくなってる模様。やだ可愛い。
私もソファの上から体を起こし、四つん這い状態から立ち上がろうとしているあの子へむけて手を伸ばした。左の腕をつかんで引き寄せる。あの子の顔が私に近づく。
「ダメ、顔は大事にして」
「……今更傷の一つや二つ増えた所で……」
「ダメなものはダメ。私あなたの顔が好きなんだもの」
まっすぐに「好き」って言われるの慣れていないのか、マリア・ガーネットは目をそらした。私はその両頬に両手を当ててよおく調べる。
擦り切れているとはいえラグの上だったのが幸いしたみたい。ぶつけた箇所はちょっと赤くはなっていたけど大事にはなっていなかった。鼻の骨が折れていたりしてなくてよかった。
せっかくなのでソファの上で膝立ちのまま、うんと近くでマリア・ガーネットの顔を観察することにする。赤い瞳、三白眼気味な眼。二重まぶた長いまつげ、鼻すじはすっと通っていて唇が可愛い。
マリア・ガーネットの顔には傷跡が多い。一番目立つのが左ほおのものだけど、光の加減なんかで細かな古傷が浮かび上がることもある。そんなのどうってことないって顔で堂々と晒しているところがたまらない。
でも、今、どうしてもそれには昨日地下室でみた焼け焦げた写真を思わせる何かを感じずにはいられない。
左ほおの傷跡にそっと指の腹を這わせてみたけど、特にこの子は特に嫌がるでもなかった。
「あんた何やってんの?」
じっと見られるのは照れくさいのか、いやいやをするように顔を左右に振って私の拘束から逃れ、そのあと自分のもつれたままの脚を振り返って、ああっ! と声をあげた。そして顔を赤くして、私の脚の下にあったものを取り上げる。マリア・ガーネットの普段着でもあるつなぎだ。どうやらこの子、目覚めてから今まで形がよくて長い脚を私の前に晒していたことに今気がついたらしい。
しかも、私が故意に脱がしたのだと誤解してるみたい。
「……ッ! 一応訊くけど、人の睡眠時に服を脱がすのってやっていいことかそれとも悪いことか、今すぐ答えてくれない、マルガリタ・アメジスト?」
「この状況ですもの。あなたが私へ怒りを向けるのももっとよね、マリア・ガーネット。でも私の名誉のために一つ弁解させてくれないかしら?」
無実の私への抗議にかまけているこの子の脚のひきしまり具合を堪能しつつ、私はこんな状況になってしまった流れに対する推理を語ってみる。
昨晩、私を抱きしめて寝入る寸前のマリア・ガーネットの格好は、普段のこの子のスタイルだった。つなぎの袖をウエストで結んで上半身は黒いインナー一つの、お菓子の心を惑わすあの格好。そのいでたちのまま私を抱いて入眠する。私も眠ってしまう。寝ているうちに、たまたまつなぎの袖が解けた上に私の足がひっかかる。私より先に目を覚ましたマリア・ガーネットは、それに気づかずソファから立ち上がる。私の脚がつなぎを踏んづけ、ソファに縫い止めてしまう。マリア・ガーネットは転ぶ。
「──今のあなたの姿はおそらくこういう経緯の結果だと思うの。信じてくれるかどうかはあなたに任せるけど、所謂不幸な事故であってわざとやったことではないとだけは言わせてちょうだい。そりゃあ確かに私は欲深だけど、あなたが嫌がることをわざわざしでかすほど愚かではないわ」
「御託並べても無駄だよ、あんたの視線はその減らず口よりよっぽど正直みたいだから」
ぷりぷり怒りながら、上下ともに下着だけの姿で私の前からマリア・ガーネットは移動する。古いチェストの引き出しを開けて、似たようなつなぎを乱暴に取り出す。
やや大股で歩く所と、着替えを取り出すために膝をついたところも、どんな動作をしてみせてとあの子の脚は綺麗でほれぼれしてしまう。理想的に筋肉がついていて、すべすべに磨かれた木の肌を思わせる肌に覆われて、見ているだけじゃなくじっくり触ってみたくなる、そんな素敵な脚。痣や傷があることに却ってどきどきしてしまう。
私生活でもショーの時でも、マリア・ガーネットは脚を露出することがない。生脚は貴重なのだ。
貴重といえば、転んで一瞬四つん這いになってた時はとても可愛かった。いい具合に丸くしまって形のいいお尻がこっちに向いていたんだから、眠気だって一瞬で飛んでいっちゃったもの。そしてやっぱり下着はありきたりなショーツではなく股上浅めの黒いブリーフタイプのものだった。
「着替えるの?」
「いや、ホームのシャワーを借りにいくとこ。朝起きたらいっつもそうしてるから」
「そうなの? じゃあ私も一緒にお湯を浴びようかしら。二日も体を洗ってないんだもの、もう限界――……どうしたの?」
マリア・ガーネットはじいっと私を見返している。私がじいっと、この子の下着姿を見ていたことにやっと気が付いたらしい。
きゃあっと叫んで体を隠すようなことはしないけれど、眉と目を吊り上げて睨んで見せた。
「──何見てんの?」
「あなたを見てるの。奇麗だから。こういう機会はめったにないもの」
「なんで見てるの? さっき見るなって言わなかった?」
「記憶違いじゃなければ、言ってなかったわね。寝ている間に許可もなく服を脱がせることへの良し悪しなら訊かれたけれど」
「これ以上聞くに耐えない屁理屈こねるなら、あんたをここからつまみ出す。それにもう二度とあんたをこのガレージに入れさせない。……その上でどうする? あたしの質問に手短に答える? それとも屁理屈垂れ流す?」
右腕を掲げ、がちん、と鉄の爪を打ち付けて音を立てた。こっちを睨みならが見せる獰猛な笑みはショーの時の女王様姿のよう。きゃあ、と声をあげそうになったけど、脅しじゃなく本当にガレージからつまみ出しそうな雰囲気をみなぎらせている。私は真面目な表情を作った。マリア・ガーネットは右腕をおろす。
「──もう一つ訊くけど、あんた、プライバシーとかエチケットとかそういう言葉知ってる?」
「知ってるわ」
「……なら、あたしの言いたいこと分かるよね?」
「見ちゃダメ?」
「ダメっ、――っつうかちょっと気を許したらこれだ!」
あの子はぷりぷり怒ったまま、新しいつなぎに足を通してしまう。勿体無い。
──それにしても、今の言い草はちょっと心外。私はむーっと唇を尖らせた。子供じみたこの表情は、お客様をわざと困らせたい時に見せるバリエーションの一つでもある。
「『ちょっと気を許したら』って、なあに? まるで私からあなたに一晩抱いて頂戴ってお願いしたみたいじゃない? そういう気持ちが私の中にあるのは確かだけれど、でも昨晩は違ったわよね? あなたが私を誘ったのよね?」
「……っ、あんたその言い方――」
マリア・ガーネットの顔が赤くなる。こんな環境で生活しているわりにこの子はわりと奥手なことは把握済みだ。会話に夜のことをほんのり匂わせる単語を混ぜるだけで、会話の主導権くらいすぐに奪える。
「あれは、だから、そういう意味じゃなくて――」
ほら、もう視線をそらした。
ショーの時の女王様姿からかけ離れたかわいい仕草を前にして、私の中に獰猛な気持ちが芽生える。しなを作って大袈裟に涙声をだしてやる。
「どういう意味でもあなたから言ったのは事実でしょう? それなのになあに? 私を一晩おもちゃとして扱ったのにさっきの言い草は? いたいけなお菓子の心を踏みにじるだなんて、あんまりよ」
「……だーかーらー、その言い方ぁ……」
くすん、しくしく……と、わざとらしい嘘泣きを交えるとマリア・ガーネットは狼狽えた。演技なのが丸わかりでも女の子が泣いているところを見てしまうと気まずくなるだなんて、まるでフィクションでしか見かけない少年って生き物みたい。泣きまねをするとすぐにチッと舌をうつ私のお客様とは全然違う。可愛い。
私をぬいぐるみのくまちゃん扱いしたことや、くまちゃんを必要としなければならない精神状態だったことは事実だから、マリア・ガーネットも反論しなかった。ただ左手でくしゃくしゃと髪をかき混ぜる。これはどうやら、マリア・ガーネットが困った時や狼狽した時にする癖らしい。
「ああー、もう、悪かった! あんたがいてくれて助かったのに酷いことを言って悪かった!」
自棄になったようにマリア・ガーネットは謝った。私はそれで満足したから、すぐににっこり微笑んでみせる。
でも、この子はそこで大事なことに気づいたらしい。真顔になって私を睨め付けた。
「――でも、それと人の下着姿を勝手にじろじろ見るなってのは全然別の話だよね?」
気づいたか。今度は私が視線を逸らした。
「……ったく、油断も隙もあったもんじゃない」
呆れたようにマリア・ガーネットは呟きつつ、私に向けて何かを投げて寄越した。頭の上からばさっとかかったのは、私が昨晩地下室から持ってきたワンピースだ。
「シャワー浴びたいんなら着いてきて。今日は服があるんだからちゃんと着て外に出な」
「……はあい」
いたずらが見つかった子供のような気持ちになって、私は頭からワンピースを被った。
今日も空は隅々まで晴れ渡っている。時計をみれば午前中、お菓子たちにとっては真夜中みたいな時間。
夜の乱痴気騒ぎがうそのように、静まりかえるピーチバレーパラダイス。ガレージからホームへたった数メートル移動するだけだけど、なんだか世界に二人だけ取り残されたような気がする。食堂の傍の裏口から、私たちはホームへ入る。
こんな時間の、しんと静まったホームの廊下はとてもよそよそしい。慣れ親しんだホームが別の顔をしているよう。
「じゃ、あたし先に入ってるから」
下着やタオルを既に用意しているマリア・ガーネットは、頓着することなく先にシャワールームへ入っていった。私は彼女をみおくって、足を忍ばせながらもなるべく素早く二階の自室に入る。自分の着替えや下着やタオルを持ってこないもの。
それにもう一つ大事な用事がある。
そおっとドアを開けると、ベッドの上ではジャンヌ・トパーズが枕いて気持ちよさそうに眠っている。彼女を起こさないように、二人で共有しているクローゼットを開けて私物を着替えと私物をとりだす。
洗濯から戻ってきた替えのワンピース、上下の下着やソックスなどの着替えと一緒に、クローゼットの片隅に立てかけていた小さな厚紙製のトランクも。
このトランクには、もともとは中にお菓子がぎっしり詰まった商品だった。雑貨屋でこれを見かけたジャンヌ・トパーズが面白がって購入したものの、トランクを持て余していたの譲り受けたのだ。形がかわいいので持っているだけで満足だったんだけれど、やっとこれの使い道ができたってわけ。
厚紙製のトランクを開けると、昨晩紙袋に入れて持ち運んだ元ウィッチガール達の遺品を並べる。ついでに昨日飲めなかったチェリーソーダの瓶も。
金属でできている留め金をかけて、紙製のトランクをクローゼットの元の位置にしまった。うんと注意深く見つめても、どこがどう変化したかは分からない筈。
来た時と同じようにそおっと足をしのばせて部屋を出ると、足音を立てないよう廊下を走り、階段を降りる。
「あんた何怒ってんの?」
「――別に」
二日分の汚れを落としてさっぱりした後、二人で並んで更衣室のベンチに座ることになった。
でも私はちょっぴりむくれていた。
なんてことはない。せっかく二人でシャワーを浴びるんだから隣のブースごしにシャンプーやなにかを貸し借りしたり、そういう昔のハイスクール映画っぽいことがやりたかっただけなのだ。
でも、マリア・ガーネットのシャワーの時間が想像以上に早く、私がシャワールームに足を踏み入れた途端、入れ替わるようにあの子はもう出てきちゃったのだ。それが残念なだけだし。
我ながらつまらないことでガッカリしちゃったけれど、でもいつもとあまり変わらないつなぎとインナー姿のマリア・ガーネットが脱衣所で私を待っていてくれたことが嬉しい。ウォーターサーバーから汲んだ水を、ベンチに二人で並んで飲んでくつろぐ。
紙コップごしに冷たさに触れたからか、私は言わなきゃいけなかったことを思い出した。
「ねえ、昨日はチェリーソーダをありがとう。ミスターのお店までわざわざ買いに行ってくれたのね」
「ああ――まあ、お礼とお詫びみたいなもんだから」
「それに、私を地下室からだすようにシスター・ラファエルに掛け合ってくれたのよね? シスター・ガブリエルが仰っていたわ。それを聞いてすごく嬉しかった」
「……だって、そりゃあ」
マリア・ガーネットは片膝を持ち上げてベンチの上に踵を乗せた。そうやって抱えた膝の上に顎をのせる。
私は彼女の右側に座っていたから、鋼鉄の右腕と私の左腕が触れそうになる。そういえばこの腕は水にぬれても平気なのね、と今この場では関係ないことを一瞬考えた。
「あたしがあのコートをあんたに着せなければ、ああいう事態にはならなかったわけだし。責任感じるよ。やっぱ。──本当はあのままずっと隠しておかなくちゃならないコートだったのに」
あのコート。アグネス・ルビーを錯乱させたあの黒いコートのことだ。十字のエンブレムと袖口のカッティングが独特なあのコート。
本物のウィッチガールスレイヤーが着ていたのかもしれない、曰くつきのコート。
マリア・ガーネットの横顔は、自分の行動を心から悔いている風だった。そんな表情のこの子へ質問するのはためらわれたけれど、私は尋ねる。
「あのコート、どなたのもの? あなたのご家族かしら?」
「――今答えなきゃならない?」
「ううん。男物だったからちょっと気になっただけよ」
あの子の言葉遣いに、心に壁を築いた気配が滲んだ。私は深追いはやめる。
Ⅰのケースの無残な家族写真に写っていた男性は、おそらく彼女のお父様とお兄様。
私をだきしめながらとつとつと語った昔話に出てきた男性も、お父様とお兄様。
彼女の右腕に宿る使い魔、アスカロンを託したのはお父様。
そしてお父様はすでに他界されている。それも結構な昔に。
となると、今ここにいるお菓子たちのかつての人格と記憶を破壊した非情なウィッチガールスレイヤーの候補から、この子のお父様は外される。アグネス・ルビーを錯乱させたのは黒いコートを着た別の誰か。
じゃあマリア・ガーネットのお兄様が本物のウィッチガールスレイヤーなのかしら?
いいえそれとも、ただ単に本物のウィッチガールスレイヤーが来ていた服とよく似たコートを、お兄様がたまたま持っていただけなのかしら。
──検証しようにも私が持っている情報は少なすぎる、こういうことは今度、お客様とお会いした時に尋ねてみよう。……ああでもあの方きっとかなりお怒りでしょうね、ご機嫌取りが面倒だけど仕方がない。
コートのことを思いだして落ち込んでいる様子のマリア・ガーネットへ、別の質問をしてみた。どうしても気になることがあったのだ。
「ねえ、昨日夕方、地下室の階段を降りてきてくれたのって、あなた?」
とん、とん、と、一歩一歩ふみすめるようにゆっくりゆっくりと降りてきたあの足音。私が声をかけるとハイスピードで階段を駆け上がっていったあの足音。
すれ違ったはずのシスター・ガブリエルが「誰とも出会わなかった」と意味の分からない嘘をついた、あの足音の主。
あの時間、お菓子たちは二階で行われているシスター・ラファエルの講義が終わった直後だった。どんなに足の速い子だって一瞬で地下室へ続く階段まで移動するのは不可能。みんなの前で先生をやっていたシスター・ラファエルも同様。
神父様の手下でもある宣教師たちが戯れに遊びに来たという線も考えたけれど、あの人たちはあんな繊細な歩き方はしない。ドヤドヤ革靴の音を響かせておりてくる。
消去法でマリア・ガーネットじゃないかと見当をつけたのだけど、昨晩、地下室を異様におびえる彼女を見たばかりだ。私は慎重にこの子の様子を見ていた。
「……」
立てた膝の上にマリア・ガーネットは額をくっつける。どうも彼女には不安になると無意識に体を丸めたくなるようなクセもあるらしい。
「チェリーソーダ、あれを直接あんたに渡そうと思って。子供じゃあるまいし、いつまでもあんな物置ごとき怖がってるわけにもいかない。いい機会だって。──結局無理だったけど」
私の推測は正解だったみたい。でも嬉しいというより、心配が勝る。
どうしてこの子はあんなにも地下室を怖がるのだろう。それとあの無惨な棺の中身との関係は?
とても気になるんだけど、軽々しく訊けない。昨日の様子を見た以上は無理だ。
「赤ん坊みたいに一歩一歩降りて、やっとドアの前に立った時になってから鍵がなきゃドアが開けらんないってことに気が付いて焦ったりしてさ。ほんとバカみたいだった」
マリア・ガーネットは自嘲する。
「で、代わりにあんたの友達に渡してもらうことにしたんだ。ちゃんと届けてくれたみたいで安心した。いい子たちだね。特にあの綿菓子みたいな髪の子」
「ジャンヌ・トパーズよ。ベッドの上でお菓子を食べなきゃもっといい子なんだけど」
あはは、とマリア・ガーネットは笑った。あのケースの中に入っていた写真の女の子を思わせる、屈託のない笑顔。
がらにもなく私の胸が痛む。この子の棺なんか覗かなかければよかった。そんな、私らしくもない反省が心をかすめる。
「……ねえ」
膝に額をのせたまま、マリア・ガーネットがこっちを見つめる。昨日の晩に見せたような、どこか頼りない眼差しを向ける。
「訊かないんだね、あたしがあそこであんな風になったことについては。それにケースのことも。どうでもいいことに関してはグイグイ来るくせにさ」
マリア・ガーネットは「地下室」も口にできないのか、そんなにも恐ろしいのか。
昨日のみたケースの中身に関する記憶が蘇る。火災現場に残された燃え残りを無造作に突っ込んだような、昔のあの子の遺物。
私に触れるか触れないかの位置にある鋼鉄の腕が、窓から差し込む陽の光を浴びて輝いている。
不意にたまらなくなって、わたしは彼女を抱きしめる。脈絡のない行動に、マリア・ガーネットは面食らったみたいだ。
「何、急に?」
「あなたがどうしてあそこをそんなに怖がるのか、正直とても気になっているの。でも今はまだいいわ。話せそうなら話してほしいけど、今そのタイミング?」
「……やっぱりもうちょっと待ってほしいかな」
「そう? じゃあ今はいい。その時が来るまで待ってあげる」
抱きしめるというより、私といる時は無意識に体を丸めようとする不安が少しでも溶けてくれれば、と、温めるような気持ちで硬い右腕の上から抱く。鉄の右腕が私の体に押し付けられて、心地よく痛んだ。
「……」
マリア・ガーネットにとって、私の反応はとても意外なものだったらしい。
洗いたてでいい匂いのするはずの頭を背中に押し付ける、そんな私を払いのけるでもなく呟いた。
「あんたのことだから、なんだかんだ質問攻めにすると思った」
一体私をなんだと思っているのかしら?
ちょっとむっとしてしまうけれど、次の言葉でそれを打ち消してあげることにする。
「マルガリタ・アメジスト、あんた優しいね。助平で理屈屋でシンプルに根性の腐ってる変なヤツだと思ってたから、ちょっと意外」
優しい、なんて評価をいただいたのはこの人格になって初めてで、つい面食らってしまう。──後半なんだかとっても失礼なことを言われた気がするけれど、まあ聞かなかったことにしてあげよう。
不意に一階の廊下をするすると滑るような足音が聞こえる。きっとシスター・ガブリエルだろう。
シスター・ガブリエルも夜はなんだかんだとお忙しいのに、このホームでは明け方に等しいようなこの時間でもうお仕事を始めておられる。
更衣室のドアががたっと音を立てたので、私たちは離れた。
「いますね、マリア・ガーネット」
入りますよ、とも言わずにシスター・ガブリエルはドアを開けた。ベンチに並んで座っている私たちを見る。
本当ならこの時間はまだ地下室に居なきゃいけない私がここにいても驚かないどころか、ふうっとため息をお吐きになる。マリア・ガーネットの仲介で私が地下室から脱走したことなんか、もうすでにバレていた模様。シスター・ガブリエルの態度がこうなら、きっとシスター・ラファエルもとうにご存じの筈。
「……あなた達ったら、なんてことをしたんです⁉」
「おはようございます、シスター・ガブリエル。ご機嫌いかがです?」
こういう時は私が先陣を切った方がいいだろう、笑顔で慇懃に尋ねてみた。
「残念ながらいいとは言えません。シスター・ラファエルがあなた達が言いつけを破ったことに関してお話があるそうですよ、マルガリタ・アメジスト」
「あのさ、ルーシー。あたしが勝手にやったことだからあんまりマルガリタ・アメジストをとやかく言わないであげてくれる?」
マリア・ガーネットがシスター・ガブリエルに直接掛け合ってくれる。思わずきゅんときたけれど、直後に違和感が。……ルーシーって?
それに、ここのお菓子たちは基本的に両シスターには敬語で接するように指導されている。なのにこの子はシスター・ガブリエルにごく親しい仲のような口をきく。
他のお菓子がフランクな口をきくと必ず訂正させるはずなのに、シスター・ガブリエルもそれを当然のように受け止める。その上で大きく目を見開いて呟いた。
「あなた、自分から地下室に行けたの⁉︎」
どうやらシスター・ガブリエルはマリア・ガーネットが「地下室」って単語を口に出せないくらい怯えてることについてお詳しいみたいだ。
――そりゃあ、ショーに向かう時には付き添いをおつとめになったり、ガレージへ食事を運んだり、そんな様子は見ていたけれど。
でもなんだろう、ちょっと面白くない。
どうやら私がじいっと睨んでいたことに気づいたらしく、シスター・ガブリエルは口調を整えた(こういう誤魔化し方が下手なのだ、この方)。
「それは私が判断することではありません。シスター・ラファエルに伺いなさい!」
「……わかったよ、しょうがいないな」
いっちょ怒られてくるかあ、と今ひとつ緊張感のない呟きを放ちながらマリア・ガーネットは私の手をとった。一緒にシスター・ラファエルのいる院長室まで行こうの意味だろう。
私はかなり生意気だけれど二人のシスターにあのような家族みたいな口はたたけない。お二人とはそこまでの関係ではないもの。
廊下を並んで歩きながら私は尋ねた(確かに質問ぜめにする所はあるわね、認めなきゃ)。
「シスターにああいう口をきいても構わないの?」
「……ああ、あたしはなんていうか、あの二人とはつきあいが長いから」
つきあいが長い、ずいぶんシンプルな回答だけど、この子と二人のフランクなやりとりはそのシンプルさに似つかわしいものだった。昨日、シスター・ガブリエルが「あの子」と呼んだ時にも感じたニュアンスにも共通する距離の近さ。
──なんだろう、ちょっとつまらない。
廊下を歩きながら振り向くとシスター・ガブリエルは私たちを見おくっていた。やれやれとでも言いたげに肩を小さく上下させる。
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