第10話 遊園地

 チェリーソーダの瓶は結局、開けることすら出来なかった。

 額に当てて冷たさを味わったり、赤みのつよいピンク色の液体が入った小瓶の可愛さをマットレスに転がって眺めるだけで十分心が満たされる。

 ソーダの小瓶は、今現在この面白くもない地下室の中で一番愛らしい調度品だ。胸に光を灯しながら、あと一日くらい眺めていられる。いっそそうしちゃおうかしら、だってもう今日は一日分の労働を果たしたと言えるもの。

 ああ、それにしたって何? チェリーソーダってチョイスが可愛いんだけど! 愛おしいんだけど!

 ……なんて、衝動に駆られるままにマットレスの上をゴロゴロしたり気を抜いている時に限って、シスター・ガブリエルが階段を降りる気配がする。夕食と水を差し入れにお見えになったのだ。見つかっては面倒そうだから慌てて小瓶を隠す。ああもう、せわしないったら。


 

 横長の窓の外がオレンジ色に輝いてすぐに暗くなり、入れ変わって人工の光が瞬き出す。

 ピーチバレーパラダイスがにぎわうのは夜だから、音楽や呼び込み、ハイウェイの彼方から車に乗って教会へお参りに来た信徒の方たちの声がこの地下室にも入り込む。それに、灯りに引き寄せられる鬱陶しい虫たちも。だから私は窓を閉めた。

 天井の上では、教会へ向かうお菓子たちの話し声や足音も聞こえる。みんなご苦労なこと。


 下着一枚だけの状態でマットレスの上に横になって、私は棚を見上げた。

 見上げるのはⅠの札がついたケースのみ。


 午後にあのケースを持ち上げた時の、ごとん、に、ばさばさざらざら、そんな感触は私の腕に残っていた。

 時間が経っても、あの不気味な感触がどうしても気になって止まらない。

 ほかの子たちの棺が丁寧な死化粧もほどこされた上できちんとお弔いをすませた遺体が眠っている安らかなものだとしたら、マリア・ガーネットの棺の中身はどんなエンバーミングもおいつかないほど徹底的に損なわれた躯を思わせた。

 その連想は、私の胸を激しくざわつかせる。

 見るべきか、見ざるべきか。

 水滴でびしょ濡れになったチェリーソーダの瓶を見つめ、私は決心した。踏み台代わりの椅子をもう一度、棚の正面へ運びだす。


 ごとん、ざらざら、ばさばさ。

 抱えあげ、動かすごとに、ケースの中身は揺れる。その感触が耐え難くて、私は急いで床の上に置いた。

 見れば見る程、ありきたり樹脂製ケースだ。なのにとてつもなく禍々しい。

 やっぱり棚にもどしてしまおうかしら? そんな気持ちと葛藤した後、蓋にかかったロックを外して手を添えた。ぎゅっと目を閉じ、心の中で、いち、にの、さん、とカウントしてから蓋を持ち上げる。


「……!」

 

 目を開くより先に、嗅覚がむわっと炭のこげたような匂いを嗅ぎ取る。視覚が働き、ケースの中身を確認するのはそれから。

 見ているものがなんなのかを把握するわずかな間、思わず自分の口を手で覆う。そうしないと、吐くか叫ぶかしてしまいそうだったから。


 まず目に飛び込んできたのは、焼け焦げた写真の束だった。

 ほんのかけらしか残されていないもの、一部だけ黒く焦げたもの、火が点けられた後のある家族のスナップ写真がたくさん無造作に投げ込まれ、層を成している。

 次に目立つのが、女の子向けみたいなピンクのスケートボードが一つ。ケースを傾ける度にごとんごとんと揺れていたものの正体はきっとこれだろう。

 焼け焦げた写真の層に首から突き刺された着せ替え人形と、首を切断されて詰め物をはみ出させたぬいぐるみ。ばきばきに割られたCDや、画面のひび割れたスマートフォン。

 その中で唯一無事なのは、遊園地のおみやげ品らしいスノードームだけ。

 とっさにケースの蓋を息を整えてからもう一度、ゆっくり蓋を外し中身を確認する。

 当たり前だけど、ケースの中身は私がさっき見たものと寸分変わらない。火災現場に残されたものを無造作につっこんだような無残な有様が晒されている。


「……っ」


 暑い筈なのに肌が粟立つ。

 ここにある十二個のケースは全てここにいるお菓子たち、元ウィッチガール達の棺だ。ここに来る前に有無を言わさず決別させられた過去の遺品だ。それぞれが自分の日常を過ごしながら誰かの日常を守っていた、無垢で愚かなな日々の結晶だ。

 でも、このケースだけは違う。この中身から想像されるマリア・ガーネットの過去、それはどうしても明るく楽しい無邪気なウィッチガールのそれではない。

 でも、他の子の棺と同じようにⅠのケースにもカードは添えられている。チェリーソーダの小瓶を抱き寄せながら、空いた手でカードを取り上げた。


 カードすら、他の子のものと様子が異なっている。


 まず、カードに貼り付けられていたのは斜めに大きく破られている写真だ。中心に映っているのは、八、九歳くらいの女の子。アイスを片手に無邪気に笑うその子の両脇には大人の女性と若い男性らしいカジュアルな装いの二人。でも頭は破り捨てられた側にあり、私にわかるのは二人の首から下とお腹から上までだけ。

 この不吉な写真から汲み取れる、大事な情報がまず一つ。二人の男女に挟まれているのが嬉しくてたまらなさそうな屈託のない笑顔を見せている女の子、この子の瞳は宝石みたいに赤い。赤い瞳の女の子なんてここには一人しかない。

 ということは十中八九、写真の中の女の子はマリア・ガーネットだ。でもアイスのコーンを持つこの子の右手は、白い肌に包まれて柔らかそうな女の子の手だ。水色のノースリーブのシャツからのびた右腕も鉄の腕ではない。髪も肩のあたりまで伸ばしたまっすぐな金髪だ。

 破られた写真の背景にはメリーゴーランドの一部っぽいものが映っていた。遊園地に遊びに来た時の一場面みたい。

 きっとこの写真は、元々はなんの変哲のもないスナップ写真だった。楽しい思い出を切り取っただけの他愛ない一枚だったのに、荒々しく破られているだけでひどく不吉な一枚と化している。

 破られたその写真のそばには、アッシュまじりのピンクに染めた髪をユニコーンみたいにしている現在のマリア・ガーネットの宣材写真だけ。金属製の右腕を無造作に前へ出し、赤い瞳でこちらを睨み付けるこちらの写真のあの子はひどく不機嫌そう。私の見慣れた今のあの子だ。

 二枚の写真に添えられているのは、マリア・ガーネットという現在の名前だけ。その他、記された情報はひとつもない。ほかの子のように詳しいプロフィールは何一つ書かれてはいない。


 汗が脇の下を伝った。


 破られたスナップ写真、遊園地でアイスを食べている女の子の写真をもう一度見つめると、ケースの中に手を突っ込んだ。そしてケースの半分近くを埋めている、焦げたスナップ写真をかき回す。一枚くらいまともな写真が残っていないか、探さずにはいられない気持ちになったのだ。

 でも、まともなものはほとんど見つからない。どれもこれも、一部か大半が焦げている。

 それらの写真をみて気づく。映っている家族は金髪の女の子と、母親らしき中年女性、それに十代半ばから後半にみえる男の子。この二人の瞳も赤い。ということはつまり、あの子の赤い瞳はお母様からの遺伝なのだろう。同じ色の瞳を持つこの男の子は、年頃からみてあの子の兄と考えるべきかしら。

 ──待って、あの子にお兄様?

 どんなことでもいいから情報がほしくて、写真の層をかき回す。目についたのは少年と同年齢くらいの少女たちが写ったもの。あの子と一緒にポーズをとった写真もあれば、ピンナップのような一枚に、複数の女の子達が戯れている様を切り取ったスナップなど種類は様々。でもこの女の子達は一体どこの誰なんだろう? お姉様というには数が多すぎる。

 あの子の父親らしい、青い瞳の精悍な男性が映っている写真も数枚みつかる。きっとこの方があの子のお父様だ。

 お父様が写った写真の枚数はとても少ないけれど、どの写真にもあの子は写って弾けるような笑顔を見せている。


 ケースの中をどれだけ掻き回しても、まともな写真は見つからなかった。

 腕に煤がつき始め、部屋にも焦げ臭さが漂い出す。これ以上続けているとシスターに勘付かれるおそれそう。作業を一旦あきらめてケースに蓋をし、棚に戻した。

 踏み台代わりの椅子を戻し、そのままマットレスに横になる。

 チェリーソーダの小瓶を抱いて、目を閉じる。ケースの中身について整理しようとするだけで、身体中の疲れが吸い上げられてしまいそう。焼け焦げた写真の匂いが鼻につき、全ての刺激を遠ざけたくて私は強く目を瞑った。


 

 どんどん、どんどん、と激しくドアが叩かれている。

 その荒っぽい音に起こされたことで、ぎゅっと目を瞑ったまま眠ってしまったことに気づく。

 起きたばかりでぼんやりしている間にも、どんどん、どんどん、とノックは続く。この激しさは、きっとシスター二人のものではない。

 誰、こんな時間に……と、間の抜けたことをつぶやきそうになったその時、ドアの向こうからせくような声が聞こえた。


「マルガリタ・アメジスト! 返事して!」

「⁉」

「そこにいるんでしょ、お願いだから早く!」


 気がつけば私は跳ね起きていた。だってドアを叩いているのはマリア・ガーネット、あの子の声なんだもの。

 抱いたまま眠っていたチェリーソーダの瓶を手に、私はドアまで駆け寄る。頭のすみで、寝入ってしまう前にみた無残なケースの中身がちらついていたけれど、一旦後回し。だってドアの向こうには本物のマリア・ガーネットがいるんだもの。


「マリア・ガーネット? 本当にあなたなの、夢じゃないわよね? でもどうしてあなたそこに──」

「あんたを助けに来たんだってば、早くして!」


 喜びが抑えられない私の早口を、あの子は怒鳴り声で打ち消す。でもすぐに、慌てたようにうちけしてくれた。


「ああ、ごめん。大っきい声出して。ごめん、悪いけどそっちからドアを開けてくれない? 鍵は開いてるから。お願い」


 ごめん、と、悪いけど、を連発するあの子の声はひどく焦っていた。まるで何かに追いかけられているみたいに。いつも堂々としているあの子らしくない。

 鍵は開いているのにドアを開けられないことも含めて気にならない訳ではないし、私はあの子のお願いには逆らえない。逆らうわけがない。

 その上あの子は「助けにきた」って言ってくれた。聞き間違いなんかじゃない。確かにそう言ったもの。踊り出しそうな気持ちでドアを開く。

 そのとたん、強く体を引き寄せられた上にぎゅっと抱きしめられる。正に抱きつぶさんばかりの勢いで。

 激しい動作に面食らったけど、あたたかくて柔らかい体と密着させられて有頂天になりかける。機械油と埃の混ざったガレージの匂いに背中に回されたゴツゴツとした金属の腕の感触は、間違いなくあの子のだけのものだ。

 いつも仏頂面で私が甘えてみせると照れて怒ってガレージから追い出す、そんなあの子が私を抱きしめている。無条件に、熱烈に、ひしっと。

 マリア・ガーネットは私より背が高いから、抱きしめられると自然に胸に顔を埋める形になってしまう。普段なら絶対そんなマネはしないはずなのに、こんな情熱的に振る舞うなんて……! 場所のことも忘れて舞い上がりそうになる私が冷静さを失わずに済んだのは、あの子の心臓の音がいやに早すぎた為。異常な緊張や混乱を表すリズムは私に悦びを与える暇はくれない。


「ごめん、ごめん……遅くなって……、あたしのせいで怖い思いをさせてごめんね、マルガリタ・アメジスト」


 心臓の音が聞こえるくらいあの子に強く抱きしめられている。降って湧いた幸運を素直に受け入れていつものように甘えるチャンスなのに、訳の分からないこの状況が私の衝動を強く諌める。

 今、ひどく怯えているのは不埒なことを考える余裕がある私なんかじゃない。私を掻き抱いているこの子の方。助けに来たとは言うものの、助けが要りそうなのはマリア・ガーネット自身だ。いつも堂々としているしなやかで美しい体が、可愛そうなくらい震えていた。

 戸惑っている間に抱擁が解かれ、マリア・ガーネットは私の手首を掴んだ。そのまま脇目も振らずに階段を駆け上がろうとする。


「早くいくよ、でないとあれが──!」

「ちょ、ちょっと待って……!」


 私は慌てた。この状況に対する問いかけは後回しにしたっていいけれど、残念ながらそうもいかないのだ。棺を暴いて盗りあげた元ウィッチガール達の遺品。あれを持ちださなくては。

 

「ごめんなさい、忘れ物があるの。そこで待ってて!」

「ダメだ!」


 意外なほど強く、マリア・ガーネットは私の手を握る。その赤い目はここにはない何かを見てすっかりすくみ上っている。


「早くしないと、あれが来ちゃう……! そうしたらあんたも飲み込まれて、もう二度と──」


 あれ、とこの子はまた口にした。

 教会が支配するこのエリアでマリア・ガーネットが常に敵対心をあらわにしているのは、神父様や手下の宣教師だ。あれ、だなんて雑な呼び方にふさわしい存在は彼らしかいない筈。でも、あの子の視線が地下室に向けられている以上そうじゃない。

 あれってなに? まさか地下室の怪物? 

 ──なんにせよ、混乱している彼女を鎮めないことにはどうにもならない。

 私はマリア・ガーネットの首の後ろに両腕を回すと、爪先立ちになった。そうして顔を寄せ、唇を触れ合わせる。角度を変えて今度は強く吸う。

 我を失っているために防御力が普段より弱まっていたせいか、舌を入れられても唾液を飲まれてもこの子は私にされるがままになる。

 夢中になりかけたタイミングで、私の体がやや乱暴に突き放された。あの子が左手で私のことを自分から引き剥がしたのだ。どうやら不意打ちが効いたみたいだ。


「落ち着いた?」

「……やめてよ、こんな時に……っ」


 私の顔から背けられる赤い瞳には、焦りや悔しさ、恥ずかしさが浮かんでいる。いつものあの子らしい表情。

 マリア・ガーネットは左手で髪をぐしゃぐしゃかき回した後、階段の上に腰を下ろした。


「……悪いけど、あたしあの中がちょっとムリで……。忘れ物があるなら早く取ってきて」


 あの中、とは地下室のことをさすみたい。ドアを視界に入れないためか、膝の上に顔を伏せる。そしてマリア・ガーネットは何かを呟きだす。よく聞き取れない大きさの声でぷつぷつと。──なんだろう、お祈りかしら。

 マリア・ガーネットは両手を強く握り合わせたまま、苦しげに何かの文句をつぶやき続ける。

 そんな状態のこの子を放置する気になんてなれるわけがない。急いでドアをあけ、忘れ物を取りに戻る。あの子ががくれたチェリーソーダが入れられた紙袋の中へ全て無造作に投げ込み、脱ぎ捨てたワンピースも運ぶ。

 急いで戻ると、マリア・ガーネットは階段に座ったままガタガタ震えていた。左手で右腕の付け根の辺りに手を当てて強く下を向いている。どう見ても尋常じゃない。勘のいいシスター・ラファエルの目をごまかすために灯りはあえてつけたままドアを閉め、鍵穴に刺さったままの鍵束をぬく。施錠されたことを確認してから私は振り向き、あの子へ優しく声をかけた。


「待たせてごめんなさい。もう大丈夫だから、さあ行きましょう」

 

 痛む箇所をさするように、あの子は左手を右肩に添えている。私はその手に自分の手を重ねる。そのままそっと引っ張る形で、私は彼女を立ちあがらせた。あとは階段を駆け上るだけ。



 ピーチバレーパラダイス全体を輝かせる猥雑なネオン。夜のお店から聞こえる音楽に嬌声。

 それらに囲まれている私たちの教会は静かで暗くて、一見おごそかに見えないこともない。けばけばしい外観のお店に引けを取らない如何わしい行為が繰り広げられているというのに。


 誰にも気づかれないようにホームの外にでた私たち二人、まだ調子の悪そうなマリア・ガーネットに変わって私が指揮を取る。

 ここの敷地ではそこが一番暗くて人目につかなさそうなのは、あの子の住まいでもあるガレージだ。ひとまずそこに身を潜めるのが良さそう。

 私は手を引いて駆け出す。時々振り向いて、大人しく私にされるがままになっているマリア・ガーネットの様子を確認する。いつも堂々としているのに今のこの子はまるで操り人形みたいだ。ふらふらで危なっかしい。

 なんとかガレージの手前までたどり着いた途端、マリア・ガーネットは壁に手をつく。そしてそのままずるずるとしゃがみこんだ。膝をつき左手を口にあてる。

 その背中へとっさに手をあてた。お仕事柄、こういう時の対処には慣れているのだ。

 マリア・ガーネットは、そのまま地べたに吐いた。私は背中をさする。大丈夫大丈夫よと囁きながら、身体の中身を吐きつくさんとして痙攣する背中を何度もさすった。

 吐いて吐いて、もう吐けるものは胃袋しかないというころになる。ようやく落ち着いたマリア・ガーネットが、はあはあと荒く息をする。私を見上げる、心細そうな顔がネオンに照らされた。

 小さな子みたいな表情を見せたのはほんの一瞬で、あの子はすぐ苦笑する。


「……ごめん、変なとこ見せちゃった……」


 恥ずかしい所を見せてしまって決まりが悪い。そんな表情はいつものこの子のものだ。それがとてもたまらなくて、私はしなやかな身体を抱きしめる。

 いつものマリア・ガーネットが戻ってきた!

 安堵と喜びからもう一度キスをしようとしたら、グイっと乱暴に左手で遠ざけられた。


「今はやめときな、ゲロの味がするよ」

「構わないわよ。吐瀉物より酷いものを口に入れてキスしたことがるもの」

「……あんたはよくても、あたしはゲロ味のキスなんかしたくないんだ!」


 怒ったようなこの口ぶりこそ、マリア・ガーネットが普段の自分を取り戻した何よりの証拠だ。私の体からも緊張と心配が一気に解け、ついだらしなくにやけてしまう。

 あの子はつまり、吐瀉物の味じゃなければもう一度キスするのはやぶさかではないって言ったのだ。そんなことを聞かされて嬉しくならないわけがない。全身がふにゃふにゃになってしまうし、胸からはまた光がこぼれる。

 ニヤニヤ笑いの私を怒ったように睨みつけはしたものの、マリア・ガーネットは何も言わない。そのままガレージの出入り口付近にある水道で何度も口をゆすいだ。口の中をすっきりさせてから、すたすたと自分一人ガレージに入ってしまう。私も恥ずかしがっているあの子の背中に続いた。

 

 埃を被った窓からネオンの照り返しが入る。お陰でガレージの中は結構明るい。

 ようやく落ち着いたらしいマリア・ガーネットがカーテンを引いた。先に座っていた私のとなりに、どさっと腰をおろす。

 ワイン箱をひっくり返したサイドボードの上にあるのは、あの子がよく捲っている古いバイブルに灰皿。それに私のが差し入れた炭酸水のボトルと、チョコバーの包み紙。


「ねえ、マリア・ガーネットはチョコ好きだった?」


 当たり前のように私の隣にいても、この子が何も言わない。手持無沙汰な間に耐えられず、つい尋ねてしまう。

 ああそれにしてもなんて詰まらない質問かしら。失点を取り返したくて、つい早口になってしまう。


「恥ずかしい話だけど、私、あなたに何をあげたらいいのか分からなくて。あなたのことをずーっとみていたつもりだったけど、どんなお菓子が好きかとか全然知らなかったの。情けないわよね。だからとりあえずチョコにしたんだけど他に何か好きなお菓子があるなら……」

 

 私の声が耳に入っているのかいないのか、マリア・ガーネットはソファの上で膝を抱える。そしてまた、ぐしゃぐしゃと左手で髪をかき回している。

 

「吐いたことは気にしなくていいのよ? 教会にお参りに来る方達のご乱行なんてあんなものじゃないもの。それに私、介抱って結構好きなのよ」

「──そうじゃなくて」


 膝の上で一旦伏せた顔を私へ向けた。すがるような目つきだった。


「あたし、変じゃなかった?」

「変──というか、いつものあなたらしくはなかったけれど」


 正直に答える。適当に答えをはぐらかすことは、この子のプライドを傷つけそうだったから。


「私が地下室にいてはいけないから、あなたの中でそれはとてもよくないことだから、ああやって助けに来てくれたのよね?」

「……」


 マリア・ガーネットは膝の上にまた顔を伏せる。ものすごく落ち込んでるみたい。


「……カッコ悪……」

 

 そうつぶやいて膝を抱えたままころんとソファの上に寝転がり、両腕で目の辺りを隠す。その状態で私に尋ねた。


「……あんた、あの中で何か見た?」


 何か、とは何を指すのだろう? この子が恐れる「あれ」だろうか。それともあの、十二個のケースだろうか。

 判断が難しく、私は見たままを素直に伝える。


「廃品と、十二個のケースが並んだ棚だけを見たわ。それだけよ。ただの物置だった」


 そう、とマリア・ガーネットは小さな声で応える。そして息を吐く。


「……冷静になれば分かるんだよ。あそこに今はもう何もない。単なる地下室でしかないって。でも、ダメなんだ。近寄ると、怖くて……。あそこに入れられたものはみんな二度と戻ってこられない気がして……。そんなの、妄想でしかないってわかってるのに……」


 無言になったマリア・ガーネットの口から、またぷつぷつと呟きが漏れる。あぶくのような呟き。

 主がどうとか羊がどうとか、バイブルの中身を連想させる単語が混ざっていることから察するに、神様のことを語った言葉の一節なのかもしれない。

 サイドボードの上のバイブルを手に取って、あの子に手渡した。これが元気になる源ではないかと思ったのだ。

 でも違った、マリア・ガーネットは私の腕をつかむ。右腕で優しく。


 頼りなげな赤い瞳が私に縋る。


 そのまま私は力をぬいて、マリア・ガーネットに抱き寄せられる。再び彼女のインナーに顔を密着させる格好になる。よくしなる鞭みたいな体だけど、この子の体臭は優しくて甘い。それこそお菓子みたいに。

 マリア・ガーネットはそのまま両腕で私を抱きしめる。私の肩と首に顎をうずめるようにする。思いのほか体が密着して、私は丸二日お風呂に入ってないことが今更気になりだす。


「あの、マリア・ガーネット。私、臭いでしょう?」

「……臭くてもいい。ごめん、ちょっとこうさせて」


 ぎゅうっと、彼女はただただ私を抱きしめた。

 幼い子がぬいぐるみのくまちゃんを抱くような、稚さと切実さがたまった抱き方だった。その上儚げでか弱い声で甘えられたら抵抗なんてできるわけない。嘘でもいいから、あんたは臭くない、とってもフローラルぐらいのことは言ってほしい……なんて言葉は飲み込んでしまう。


「ケースの中は見た?」


 ぎゅっと私にしがみつきながらマリア・ガーネットは尋ねる。正直に応えるべきかどうか、少し迷った末に頷いた。


「──ごめんなさい。無断で」

「……ううん、今日だけは構わない。……古い話がしたくなった所だから、寧ろちょうどいい……」


 私の体を抱く腕に、マリア・ガーネットは力を込める。呼気が私の首筋を擽る。唇が肌に触れるか触れないかの所にあるのを意識しないわけにはいけないけれど、それよりも頼りない様子が気になる。


「──話、聞いて欲しいんだけど、いい?」


 密着したままマリア・ガーネットは尋ねた。この状況で断る理由なんてない。私はうなずく。


 マリアガーネットは私を抱いたまま寝返りをうった。鉄の右腕が上に来るように。その腕で私のもつれた髪を撫でる。ならばと、私もマリア・ガーネットの刈り上げられた頭を撫でる。気持ちいい。


「小さいころ、遊園地に行ったことがあるんだ。たったの一回だけ」


 遊園地、と聞いたとたん私の頭にあのケースの中身が蘇る。破られた写真と満面の笑顔の女の子。

 それを振り払って、私は続きを促す。


「それで……?」

「うち……父さんが仕事でめったに家にいなくって……、母さんも家で仕事してたから遠くへ旅行するなんて難しくって。でも、兄さんがこの町を出ることになったからってことで、一度だけ記念にってことになったんだよ」

 

 私の髪を撫でながら、マリア・ガーネットはぽろぽろと語る。


「本当の行き先は、あのみんな知ってる有名な所だったんだけど……道が遠くて、あたしがまず車の長距離移動になれなくて、飽きちゃって、まだなの、まだなのって繰り返して……。なんか車の中がとんでもない空気になったんだよね……。父さんなんて無理して休暇を取って帰ってくれたのに……」


 金属の指先で優しく髪を撫でられるのは初めてだけど、今まで私に触れたどんな手よりも心がやすらぐ。今日のアスカロンは特にいい子らしい。


「そしたら兄さんが地図を見て……この近くに古くて小さいけど遊園地があるからそっちに行こうって気づいてくれて……。そのままハイウェイを降りて……みんなでモーテルに留まって……」


 ぽろぽろ、ぽろぽろ。

 マリア・ガーネットの話は、本当にぬいぐるみに話しかける小さな女の子のそれみたいだ。ねえ、くまちゃん。ちょっと聞いて、今日こんなことがあったの……。

 私は抱き心地のいいクマちゃんになりきる。一緒に毎晩ねていいるから、汗やよだれでちょっと臭うけど、でもとっても抱き心地のいいお気に入りのくまちゃん。


「次の日に起きて……行ったんだよ、遊園地に。ローラーコースターに初めて乗って、兄さんがゲームでスノードームを取って……。いい大人なのに母さんがメリーゴーランドになんかのってはしゃいで、父さんも笑って……運転ですごく疲れてたはずなのに……」


 髪を撫でるマリア・ガーネットの手付きが次第に緩慢になる。気分が安らいで眠気に襲われたのか。

 私を抱きすくめる両腕からも自然に力が抜けていく。

 

 くまちゃんになった私は、しばらくしてマリア・ガーネットの呼吸を確認する。 

 くう、くう、と可愛い寝息を耳を傾けながら、私も大きく欠伸をした。


 うっかり忘れそうだったけど、今日はほどよく労働した日だったのだ。

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