第7話 ピーチバレーパラダイス

 燃えるように赤い砂漠に、何万年もかけて川に抉られた大地。そしてそれを突っ切る一本のフリーウェイ。

 私たちの暮らす町はその道沿いに点在する、小さな町の一つ。昔は「スプリングフィールド」といったありふれた名前のごく小さな町だったみたい。でも今はピーチバレーパラダイスって呼ばれている。

 変わった名前? それはそう。だってここを治める妖精の国に因んだ名前だもの。


 バレーにあるけれどピーチはない。

 だからなのかしら、まるで名前に合わせるかのように夜になると輝き出すネオンの中でピンク色が一等目立つ。町を取り囲むフェンスも光までは捕まえられないから、夜にはぼんやり輝くこの町がフリーウェイの果てにも届くのだそう。ユスティナに逢いにきた方のうちどなたかが、以前、そんなことをおっしゃっていた。


 夜には眩いこの町だけど、昼間の姿はそれはもう悲惨の一言。

 崩壊寸前、廃墟になって久しいお家がならび、手入れされていないアスファルトはあちこちひび割れている。砂漠から吹き込まれた赤い砂でどこもかしこもざらつき気味。夜中に遊びに来た人の捨てた紙屑や残飯、ひどい時には吐瀉物や排泄物が散らばっている。残念ながら清潔って言葉からは程遠い。

 町にあるのは真夜中に営業するお店だけ。昼間は人の気配がまるでない。ゴーストタウンの呼び名がこれほどふさわしい町はきっと無い筈。

 手入れが行き届き、衛生的に申し分がないのは私たちの教会くらい。特にホームは清潔の極み。シスターたちの号令で毎日掃除に励む、感心な女の子たちが暮らしているんだもの。

 

 お菓子たちは教会の敷地から無断で出て行ってはいけない決まりがある。だけど無理をしてまで町中に遊びに行こうとする子なんて、ほとんどいない。

 この町には、モールはおろかスーパーマーケットすらない。あるのはバーと品揃えがあんまりよくない雑貨店のみ。

 古くて小さな雑貨店へ買い物やお使いに行くことは、私たちの貴重な気晴らしでもあった。ああ、なんて健気なお菓子たち!

 この自由時間にも、私たちはシスターに許可をもらってメインストリートを歩いている。

 自分たちの稼ぎのうちから支給されるお小遣いを手に、ちょっとした日用品を買いに出たのだ。お買い物は楽しい、たとえ本物のお菓子に化粧品や文房具といった細々として日用品が目的だとしても。

 お菓子好きのジャンヌ・トパーズは、私たちの中では一番頻繁に雑貨屋を訪ねている。私も今回は友達付き合いを優先し、彼女と一緒にメインストリートを歩いていた。コミックブックの新刊が入ってるかもしれないからって、珍しくカタリナ・ターコイズもついてくる。


「……うーん、やっぱり古い給水塔ってになるよねえ」


 ピーチバレーパラダイスをぐるっと取り囲むフェンス外に、カタリナ・ターコイズが褒める給水塔はある。

 錆だらけの古い給水塔は、砂漠の光景にはほどよく調和している。打ち捨てられたゴーストタウンに相応しい背景といった趣だ。でもそれより手前、町を囲むフェンスが視覚的にうるさくて、打ち捨てられたような物寂しさを台無しにしていた。

 ぐるりと囲む黄色い規制線、「子豚は帰れ」「エリア51ww」「かつての隣人たちの記憶をここに留める」といったチラシやポスター。フェンスにはそういったものがびっしり貼り付けられている。中には、私たちの昔の姿を元にしたファンアートだってある。裸にされたり性器に何かを挿入されて蕩けた顔をしている類のイラストが、フェンスのこちら側に向けられている。

 外の世界にお住まいの方々にとって、こうしてピーチバレーパラダイスの住民をからかうのは一種の娯楽でもあるみたい。

 外の世界の役人にも、この町の住人にも、いたずらの現場を押さえられたら最後ただでは済まない。それを承知しているはずなのに、こうして無視し続ける方々が後を絶たない。その程度には楽しいゲームというわけ。


 絵描きや写真家がするように、カタリナ・ターコイズは指で作った四角い枠を作る。その中に給水塔を収めた彼女は満足そうににんまり笑った。

 あの給水塔は、この町がピーチバレーパラダイスって名前になる前からあるらしい。おそらく今は給水塔としては機能していない。


「あのてっぺんにはマントをたなびかせたヒーローでも座らせたくなるよねえ。――あんたの女王様なんてうってつけなんだけど」

「どうしてマリア・ガーネットをあんなところに座らせるのよ? 意味が分からない。錆の臭いがあの子にうつりでもしたらどうしてくれるのよ?」

「もしもの話にマジになるなって。──つうかさ、意味わかんないっていう方がどうかしてるよ。給水塔だよ? そこにはこう、スーパーパワーを秘めたダークヒーローみたいなのを座らせたくなるじゃん? なるよね、ジャンヌ・トパーズ?」

「どうだっていいよ、そんなことぉ。――ねえ、着いたらアイスクリームでも食べようよ。暑くてやってらんない」

 

 砂漠の町の暑さに根を上げるジャンヌ・トパーズ。

 給水塔とヒーローから醸し出される妙について熱心に語っては、私たちに理解させようとするカタリナ・ターコイズ。

 そんな二人と一緒に雑貨屋目指しててくてく歩く。目指すお店はメインストリートの果てにあるのだ。

 ──それにしても、カタリナ・ターコイズの美意識ってば本当に理解不能。どうしてあんなさびた鉄の塊とマリア・ガーネットが似合うなんて言い出すのかしら? あの子はスタイルが抜群だから、シックなドレスが一番似合う筈。それも、黒くてタイトでシンプルなのが一番似合うはず。でもマリア・ガーネットは着飾ることには純粋に興味がないみたい。この前も古いファッション誌をガレージに持ちこんだのに(ファッションはお菓子たちにとって大切な教養だから教科書たる雑誌には不自由しないのだ)、お愛想のようにパラパラめくるとすぐに私へ返したのだった。


「いいよ、あたしはこういうの。服なんて着られれば十分じゃん」

 

 ああもう、勿体ない。

 名高いコレクションにランウェイだって歩けそうなスタイルの持ち主なのに、どうしてその自覚が無いのかしら。歯痒いったらない。

 私がデザイナーならあの右腕を活かしたドレスをデザインして、うんと格好良くドレスアップしてあげるのに。──ああでも残念なことに、お洋服のデザインについては勉強が足りないし、そもそもお裁縫の技術を身につけることでもう根を上げている。


「カタリナ・ターコイズ、今だけ私、昔のあなたになりたい」

「……まーたあんたは前後の流れをぶった切って妙なことを言いだすぅ! なんなの、不思議ちゃんにでもなろうってつもりなの? 安心しなって、あんたもう十分不思議だから。つうか不思議なの通り越して奇怪だから」


 静まり返った町に私たちのお喋りは響いた。

 フェンスからはがれたチラシが一枚、吹き飛ばされて路上を滑る。



「よく来たね、嬢ちゃん達。ジョージナは元気かい?」


 雑貨屋の主はずいぶんなおじい様。名前を存じ上げないので、私たちはミスターと呼んでいる。

 ミスターは、この町がピーチバレーパラダイスって呼ばれていなかった頃からここでお住まいの方。仰々しいけれど先住者って言葉がしっくりくる立場の方だ。

 そして、なんといっても気骨の方でもある。

 外の世界の偉い方々が民間人退去命令を出しても跳ね除けて、無関係な人間にはなるべくここにいて欲しくない神父様から少々手荒い説得にだって全力であらがう。頑なにこの町に居座って、それまでと変わらずにお店の営業を続けているのだから。


「わしがいなくなった後、ホームのお嬢ちゃんたちにアイスとソーダを売ってやるんだ? お前ら人殺しの子豚供がわしの仕事を継ぐっていうのか? やれやれ、そいつはありがたい。お礼にこいつをご馳走しよう」


 ──そう仰るなら、ミスターは神父様の使者たちに向け、鉛の弾を数発ほどお振る舞いになりました。バンバンバン! 戦場帰りのミスターによる心尽しのおもてなしがよっぽど嬉しかったのか、使者たちは二度と神父様の元に帰りませんでしたとさ──。

 そんなことが何度か繰り返された末に、ついには原材料のわからないソーセージを挟んだホットドッグが売りだされる事態に発展したんだってお菓子たちは噂している。真偽は不明。

 でも、似たような小競り合いが繰り返された末に、神父様から営業許可を勝ち取ってくださったという歴史なおそらく真実。だって、そのお陰で私たちはお菓子やちょっとした小物を買うという、ささやかな楽しみを満喫できるんだもの(だから品ぞろえが古いとか何年も前に賞味期限が切れているスナックがあるとか、恩知らずなことを言っちゃいけないのだ)。

 ミスターはその昔、前世紀の中ごろに起きた本物の戦争から生還した英雄だっていう。でも、戦場でどのような活躍をされたのか決して明かそうとはなさらない。私たちにとってはどこまでも頼もしくて優しくて、私たちには親切でお店を訪ねるとニコニコ笑いながら話しかけて下さる、チャーミングなおじい様。それがミスター。

 ただし、お歳がお歳でもある。動作や言動のおぼつかなさを完全に無視するのは難しい。ここしばらくのミスターは、ジョージナという女の子について私たちに聞かせてくださった。


「また出たね、ジョージナ」

「ジョージナなんて子はホームにいないって言ったら、ミスター傷つくよね」


 ジャンヌ・トパーズは袋いっぱいのお菓子、カタリナ・ターコイズはコミックブック、私はチョコバーと瓶入りの炭酸水の代金をそれぞれ支払い、そのあとアイスを注文する。ディッシャーでアイスを掬いながら大声でジョージナについて語るミスターに聞こえないよう、ジャンヌ・トパーズとカタリナ・ターコイズがひそひそとやり取りしあう。


「ジョージナは可愛い子でな、いつも兄さんと一緒にわしの店に来とったが……はて、あの兄さんの名前はなんと言ったか……」

「マイクだよね? 大学に行ったっきり戻ってこなかったマイク」

「それだ! 冴えてるねえ、嬢ちゃんや。マイクだよ、あの薄情な兄貴の名前はマイク!」


 このお店の一番の常連でもあるジャンヌ・トパーズの呼水に、ミスターは大きく頷く。

 マイクなる方にしかめっつらをしてみせたものの、ミスターの顔はすぐに柔らかなものへ戻る。


「ジョージナはいつも、チェリーソーダを注文しとった。礼儀正しい兄妹でなあ、ああいう子供がいるならこの町も安泰だとわしもスーザンもよく話あっとった。だというのに……。現実はこの有様だよ、スーザンも近所のやつらも子豚供に食われた上に、あの子の兄貴は帰ってこない」


 ぐず、と鼻をすするミスター。この思い出を語る時のミスターはいつも涙ぐむ。無理もない。スーザンとはミスターの奥さんのことでだもの。

 その昔、この町で当時の住民のほとんどが殺されるという、とても痛ましくて悲惨な事件が起きた。その事件がきっかけで、ありふれたスモールタウンだったこの町は妖精たちの支配するピーチバレーパラダイスって名前の奇妙な町に変わったのだ。

 スーザンもその事件の犠牲者の一人。ミスターの口からとめどなく零れ落ちる昔語りから、私たちはそう推測していた。ミスターだけは、その日たまたま戦友会に参加するために砂漠の外の大都会にいて難を逃れたらしい。


「ジョージナはな、ホームのお嬢ちゃんによう可愛がられとったぞ。あんた方と同じホームのお嬢ちゃんにな。──いやいや、今でもあの子はホームにいるぞ? わしは今朝もあの子を見た上に挨拶もした。やっぱり礼儀正しい娘だよ、ジョージナは」


 お話を続けながらミスターは、コーンの上に乗せたアイスを私たちへ順にお渡しになる。私にストロベリー、ジャンヌ・トパーズにチョコミント、カタリナ・ターコイズにクッキークリーム。


「マイクはまだ大学から帰ってこんのか? そこいらの若造と同じように、あれも都会に出ちまって帰ってこんのか? ――なんとまあ、あの兄貴がこんなごみ溜めなんぞに可愛いジョージナを置き去りにするとは」


 問わず語りを続けるミスターにお礼を伝えて、私たちはテラスに出た。そのあと、各々に手渡されたアイスを交換した。

 私がチョコミント、ジャンヌトパーズにはクッキークリーム、カタリナ・ターコイズにストロベリー。


「いや、マイクはそんな恥知らずな兄貴じゃあない。あれは今時めずらしいまっとうな男だった。きっと帰ってきてジョージナを助け出してくれる。わしは信じとる。人質を奪還するには綿密な作戦と入念な下準備が必要だからな。時間がかかってしまうのも無理はない。しかしいくらなんでも遅すぎる。──お嬢ちゃんらもマイクに手紙を書きなさい。早く帰って来いとな。便箋ならほれ、そこにあるぞ」


 テラスの私たちにミスターは延々と話しかける。残念だけど、いつまでもお相手するわけにはいかない。

 私たちは、お菓子特有の笑顔を浮かべてから立ち去った。愛すべきミスターに、本当はそんな笑顔で接したくないのだけれど。


「なんなんだろうね、ジョージナって」

「この町にいた人間の女の子なんでしょ、不幸な犠牲者の一人じゃない?」


 こういった妙な話に食いつきやすいカタリナ・ターコイズは、わくわくした様子を隠さない。それに引き換え、眉間に軽く皺を寄せたジャンヌ・トパーズの嫌そうな表情。アイスクリームがまずくなると言わんばかりだ。

 私はその後に続く。


「そう考えるのが妥当よね。他の可能性を考えるのが難しいくらい」


 やめようよぉ〜殺された小さい子の話なんて〜……と、根を上げるジャンヌ・トパーズとは反対に、カタリナ・ターコイズはレンズの向こうの目をキラキラさせる。


「でもミスター、今朝もジョージナに会ってたって言ってたじゃん? それはなんなわけ?」

「目に映る光景と昔の記憶が溶け合った、ミスターだけが感知できる唯一無二の世界をご覧になっていたのじゃないかしら? そうだという前提で話を進めるけれど、仕方がないわね。おいくつかは存じ上げないけれどかなりご高齢の筈でしょう?」

「えーやだ、そんなありきたりな真相。……ねえ、ひょっとして幽霊だったりしない?」

「まさか。彷徨える死者の魂なんてフィクションにだけ存在するものよ。少なくとも現在、幽霊の存在は立証されていない。そのはずよ?」

「元ウィッチガールがそういうこと言う?」

「ウィッチガールの存在は周知されて久しいわ。でも幽霊ついては文明圏でも意見が分かれるそうよ。絶対的な観測方法がないのがその理由」

「……そういう小難しいこと、あんたのお客様が教えてくれんの?」

「あら、忘れたの? 私たちの教会が救おうとしているのは、哀れな子供に学びの大切さを教えるような慈愛に満ちた方などではないわ。動画に出ていたウィッチガールに縋らずにいられない弱くて寂しい方々よ」

「言えてる! 確かにその通りだったわ……!」

 

 カタリナ・ターコイズはいたずらな小鬼のように笑う。そしてそれ以上、お客様が私に知識を与えていることについては追求してこない。その間、ジャンヌ・トパーズは私たちの話には無関心で、アイスを堪能している。二人のそれぞれ異なる性質は、お友達としては好ましい。

  結局、私たちには見えない礼儀正しくて愛らしい小さい女の子の姿をミスターだけが見ているのだと結論づけて、荒れた歩道を歩いてホームに帰る。

 のんびり歩いても、夕食やその後に控える本日のお仕事には差し支えない。その筈だった。


「あなた達、今まで何をしていたの!」


 のんびりした足取りでホームに帰ってきた私たちを出迎えたのは、血相を変えたシスター・ガブリエルだ。ただいまの挨拶すらさせない声に、ジャンヌ・トパーズの猫耳が立ち上がる。

 予想だにしていない展開に目を丸くしていると、追い討ちのように泣き叫ぶ声が二階から降ってくる。


 ──嫌ああ! 痛い痛い! こっちへ来ないで! 

 ──あっちへ行って! あっちへ行ってったらぁ!


 ジャンヌ・トパーズは顔を顰めて猫耳を抑える。抱きかかえていたお菓子の袋を落としたことすら気づいてなさそう。彼女がそうなるのも無理もないくらい、聞かされる方が不安になるような金切り声がホーム全体に響いている。

 尋常じゃない空気に私たちは顔を見合わせた。帰って早々の異常事態についていけないけれど、他にも驚かされたことがある。

 シスター・ガブリエルの目つき、それがいつものものとは全く異なっていた。

 普段の彼女の目元は、柔和で優しく、その分頼り甲斐の感じられなさを感じさせる儚さがある。いかにも尼僧姿がよく似合う可憐な乙女が、頑張って先生役を務めているといった風。私たちが不作法な真似をしたって、せいぜい怖い顔をつくって叱るぐらいのことしかできない方なのだ。

 そんな彼女が目を吊り上げて、私たちを詰っている。

 異常事態に私たちは顔を見合わせた。

 二階で今何が起きているのかも把握できていないのに、シスター・ガブリエルの剣幕に気を呑まれてしまう。いつもの新米の先生みたいな姿をどこへやら、今の彼女はストレスが引き金になってヒステリーをおこしている疲れたママみたい。

 呆気に取られたあまり、余計なことにふと気づいてしまう。──ああこの方、こんな顔ができるんだ。

 次第に心にも余裕が生まれ、様々な情報を整理できるようになる。声から判断するに、二階でギャアギャアと泣きわめいているのはアグネス・ルビー。テレジア・オパールのサイドキックのうち一人だ。


「あの、何かありました?」

 

 とりあえず尋ねた。何を答えるにも更なる情報が必要だもの。


「私たち、買い物に行っていただけですけれど? 許可もちゃんと頂きました。お忘れですか、シスター・ガブリエル?」

「ええ、覚えています。でも……」


 シスター・ガブリエルはため息を一つ吐き、私の前に何かを突き出す。黒い布地の塊。男物のコートだと判断する。昨日、スリップだけの格好でガレージを訪れた私にマリア・ガーネットが羽織らせたあのコートだ。

 胸と袖口に十字を象ったエンブレムが縫い付けられた、薄手のトレンチコート(袖口のカッティングがかなり独特で、口さがないカタリナ・ターコイズは「厨二だ! 厨二コートだ!」って大興奮していた)。

 下着の上にぶかぶかの男物のコートを着て帰ってきた私の姿を前にした二人に、「痴女が帰ってきた!」だなんて大笑いされたことは不本意だけど、あの子との楽しい思い出があるあのコートだ。

 クリーニングなんかは考えなくていい、あの子は言っていた。でも私は、明後日あたりにやってくる予定の洗濯業者に頼んできれいにしてもらうつもりでいた。綺麗にした上でお礼を添えて、マリア・ガーネットに返す。そのつもりでクローゼットにかけていたのだ。

 どうしてそれが今、シスター・ガブリエルの手の中にあるのだろう?


「あなたがなぜこのコートを持っているんです、マルガリタ・アメジスト? 答えなさい」


 場をうんと拗らせてもいいのなら、私だって同じことを訊ねたい。どうしてあなたが今そのコートをお持ちなんですか、シスター・ガブリエル? 

 でも、二階にいるアグネス・ルビーの狂乱とこのコートのつながりにピンとくるものはあった。

 このコートと二階の大騒ぎには因果関係がある。なら、あの子が私のクローゼットを勝手に開いたと考えるのが自然。

 アグネス・ルビー……というよりも、彼女の女王様であるテレジア・オパールには、これまで何度も私物を荒らされていた。今回もきっとそう。彼女たちは私のクローゼットを勝手に荒らした結果、なぜか一人だけああなったのだ。つまり勝手に恥知らずな真似をしておいて、勝手におかしくなっただけのこと。くだらない!

 ともかく、問題のコートは今、シスター・ガブリエルの手の中にある。ということは彼女も私のプライバシーを侵しているってことになる。やだ最悪!

 確かにシスター・ガブリエルは私たちお菓子の保護者でもある。女の子たちを監督し、ホームの家政を取り仕切るという立場から、お菓子の私的空間に立ち入る権利を有している。でも、実行されるのは正直とても不愉快だ。

 一旦そう感じてしまうと、反抗的な態度を取らざるを得なくなる。


「マリア・ガーネットから借りました。その理由をお話ししても構いませんけども、まず二階の大騒ぎをなんとかするべきではありません?」


 私物を荒らされた腹立ちが声に出てしまう。

 生意気な私の答えに、シスター・ガブリエルは応じない。二階の方を見てただ小さくと呟いただけだ。あの子ったら……と。あなたが今話をしているのは私だ。私の方を向いて話してほしい。

 むっとしたその間に、足音が聞こえる。二階から誰かが駆け下りてきたのだ。思わずそちらを見上げて息を呑む。

 アグネス・ルビーを抱きかかえて階段を駆け降りるのは、マリア・ガーネットだった。あっという間にあの子は私たちのそばまで駆け寄る。形だけみればまるで、お姫様を拐う小粋な盗賊のよう。──手足を縛られた上、口にタオルをつっこまれたアグネス・ルビーは、お姫様からは程遠いありさまだったけれど。

 マリア・ガーネットは一瞬私を見た。でも、今あの子の神経は、精神状態がみるからに危ういアグネス・ルビーに注がれている。真摯な表情からそれがわかった。


「ルーシー、今すぐドクターを呼んで! 早く!」

「でも、いいのあなた――」

 

 ルーシーと呼ばれたシスター・ガブリエルは、何故か言い淀んだ。

 何をためらっているのだろう、あなたがこの場を仕切らなきゃいけない立場のくせに(それに「ルーシー」って?)。


「いいから! あたしはとりあえずこの子を客間に寝かせてくる。コートをマルガリタ・アメジストに渡した理由もあとで説明するから、早くして! この子が危ないんだよ?」


 念を押すように言って、暴れるアグネス・ルビーを抱えたあの子は廊下を駆け足で移動し、一階の隅にある客間へ運ぶ。

 錯乱した女の子を二階から一階へ運べるくらいの力の持ち主、シスター・ラファエルの姿が見当たらない以上、今現在のホームではマリア・ガーネットしかいない。人命救助のためにきびきびと動くあの子の姿は凛々しくて、思わず見惚れるほどだった。

 それに比べて、この方はどうだろう。

 

「……全くもう! あの子ったら……!」


 本来この場を仕切らねばならないシスター・ガブリエルはというと、階段の方へするすると歩いてゆく。おそらく二階の院長室へ行くおつもりなのだ。だって、このホームには電話はそこにしかない。許可されていない種類の情報や知識に触れてはならないお菓子たちは、当然携帯電話などの端末の所持を禁じられている。でも、シスターまでそうだったなんて。

 驚いている場合じゃない。お説教の途中だったことも忘れたようなシスター・ガブリエルの背中へ向けて問いかける。


「もう部屋へ戻っても構いませんか、シスター・ガブリエル?」

「ええ、とにかく今はお勤めの準備をなさい!」


 シスター・ラファエルがご不在の時に限って……、そう小声で呟きながら、シスター・ガブリエルは滑るような足取りで階段を上り廊下を歩いてゆく。私たちのことなんて頭からすっかり消えてしまったかのよう。──この出来事で強く印象付けられたことが一つ、シスター・ガブリエルは致命的に管理職に向いていない。

 いつのまにか、ホームは静まり返っている。

 客間からはタオルを噛ませられていたアグネス・ルビーの呻き声、院長室からは電話越しに何事かを伝えているシスター・ガブリエルの声。

 嵐が去った後のようなホームで響くそれらの声が、沈黙と事態の異常さを強く印象付けた。


「……なんなんだろうね、結局」

「さあ? 確実なのはあたしらが真相を教えてもらうのは早く見積もって一ヶ月後ってことくらいだよ」


 ジャンヌ・トパーズは首を傾げ、カタリナ・ターコイズは皮肉を口にする。そして、私に向けて意味ありげにニヤリとわらってみせた。

 

「さっきのやりとりからするとさあ、あんたも部外者じゃなさそうじゃん? 教えなよ、あの厨二コートのことだけでいいからさあ」

「構わないわ。──でも、ちょっと待って頂戴」


 カタリナ・ターコイズにそう返した私は、階段の上を睨みつける。

 二階の壁の向こう、私たちの位置からは死角になるあたりから見知った顔が二つ、こちらを覗いていたのだ。私の動きを察知して素早く壁の影に隠れたみたいだけど、もう遅い。

 どう考えても、この件に私に落ち度なんて一つもない。くってかかるなんて小者みたいな振る舞いに出る必要もない。理はこちらにある。だから私は、名前を呼ぶ前に少しだけ間をあげることにする。

 隠れている所を睨むだけで恥知らずな二人は姿を現した。案の定、テレジア・オパールとバルバラ・サファイアの二人だ。

 他人の私物を無断で荒らしたことに後ろめたさを感じているのだろう、バルバラ・サファイアの表情は不機嫌そうだけど目線がおどおどして落ち着きがない。所詮この子はサイドキックだ、まず私が謝罪を求めるべきは彼女の女王様の方。──嵐が去った後に恐々と顔を出すなんてみっともない真似を晒した癖に階段の上で私を見下ろすテレジア・オパール、まずこの子を叩かなきゃ。

 私の意志に反応したのか、テレジア・オパールは腰に手を当てて胸を逸らす。虚勢を張りながらキャンディボイスで食ってかかった。

 

「知らなかっただろうから教えてあげる! いいこと? アグネス・ルビーはね、あんたたちとは違って、ここに来る前の記憶がすこしだけど残ってるの! あんたがあんなコートを持っていたせいで、その時の記憶が蘇って――!」


 私に指を突き付けて、何かを糾弾し始めるテレジア・オパール。でも彼女になんかいちいち構っていられない。一段とばしで階段を駆け上がる。

 私の気迫にひるんだようだけど、テレジア・オパールは逃げようとはしなかった。腐ってもサイドキック二人を従える女王様ってことだろう。上等上等。

 でもこのホームに女王様は二人も要らない。

 階段のてっぺんに着いてテレジア・オパールとの距離をつめる。あの子が一瞬怯んだ隙に右手を思いっきりふりあげた。その勢いで、恥知らずな女王様の頬をひっぱたく。手加減はしない。

 全力は込めたのに残念、非力な私の平手打ちでテレジア・オパールを這いつくばらせることはできなかった。よろめきはしたものの踏みとどまり、勢いをつけて腕を振る。


「っいわね!」

 

 私の左顔面がはじけるように痛んだ。テレジア・オパールが平手を打ち返したのだ。──幼稚なツインテールに見合った華奢な体格の持ち主のくせに、無駄に気が強いんだから。

 でもそれは私だって同じだ。元ウィッチガールなんだから、私の見た目だって天使みたいに可憐だけど、嫌いな子への容赦のなさだって審判の日に喇叭を吹く天使に負けてないつもりだ。

 大きく揺れたテレジア・オパールの長い髪の端を、私は掴む。そのまま手にぐるぐると数回巻き付け、力一杯引っ張りながら階段を数段下った。このままテレジア・オパールを階段から引きずり下ろしてやるのだ。でもその前に言うべきことは言わなきゃ。

 

「あなた前から私の私物を荒らしていたわよね? どうしたらそんな恥知らずな真似に出られることが哀れでたまらないから今まで黙ってあげていたけれど、だからって調子に乗りすぎよ?」

「……放しな、さい、よ……ッ!」

「聞きなさい、テレジア・オパール。この際だから言わせていただくけれど、私の私物にはもう二度と許可なく触れないで! それと、あなた達がちらかした共有スペースのゴミはあなた達自身で片付ける! 朝の洗面台は自分だけど独占しない! いい⁉」

「……っ!」


 テレジア・オパールは、返事をせずに手すりに縋り付く。階段から転げ落ちないように必死なのだ。髪を全力で引っ張られて激痛に襲われているのは真っ赤な顔から想像はつく。でも私の前で涙を見せようとはしない。


「言いがかりは……っやめてくれない……っ⁉」


 その上、しらを切る気らしい。さすが謀略にたける誇り高い女王様。ならば私にも手がある。


「ジャンヌ・トパーズ、部屋から鋏を取ってきて!」

「えっ、は、ちょ何⁉」

「この高慢ちき女王様の髪を切り刻むのよ! このお礼にまともな美意識があれば当分人前に出せないようなヘアスタイルにして差し上げたいの、だから早く!」


 はああっ? とジャンヌ・トパーズが階下で叫んでいる。でも私は本気だ。

 それを察したのは、痛みに耐えているテレジア・オパールの方が早い。引きずり落とされないように、彼女の腰をつかんで支えているバルバラ・サファイアへ向けて苦しげな声で


「ば、バルバラ……っ刃物を……隠してきて……っ!」

「そんな、今手を離したら階段まっさかさまだよ……⁉」

「いいから……! こいつ、やるって言ったらやるわよ……! 頭おかしいんだから……ッ!」


 テレジア・オパールの中では私はそういうイメージで固定されていたみたい。女王様に強敵だと見做されていたのなら光栄の至り。本気で対応しなければ失礼にあたる。


「ジャンヌ・トパーズ、鋏を! 早く!」

「や、やめなって。シャレにならないったら! こんなことバレたら地下室に入れられるよ!」


 ああもう! 焦ったさのあまり、舌打ちしそうになってしまう。

 シスター・ラファエルのお小言の〆は必ず「言いつけをまもらないと地下室に入れますよ!」だった。このホームには昼間でも薄暗い地下室があり、どういうわけかお菓子たちはこれを皆すごく怖がっている。怖がりな女の子になってしまったジャンヌ・トパーズは、とりわけ地下室を恐れる子なのだ。

 たかだか倉庫なのに、なぜ怖がるのか、私には理解できない。


「地下室なんてあなたの分までいくらでも入ってあげる、だから早く――!」

「何を騒いでいるんです?」


 静かに、でも、鋭い雷が落とされた。

 聞き慣れたアルトの声。揺らがず厳しい、迫力をたたえた声。それが階下から私を撃った。

 振り向くと、ホームの出入り口に尼僧服の女性が立っている。すさまじいオーラを放つシスター・ラファエル、その人だ。気圧されたジャンヌ・トパーズとカタリナ・ターコイズはそそくさと壁に詰め寄る。

 目線の位置は階段の上にいる私の方が高い。にもかかわらず、鋭い眼光とがっしりした体格から放たれる圧は凄まじく、私はつい怯みあがった。

 本日のお勉強の時間のあと、シスター・ラファエルは教会で神父様とお話のご予定だった。でもここにいらっしゃるのは、シスター・ガブリエルの報告を受けてからことだろう。まったく迅速であらせられること。


「マルガリタ・アメジスト、今すぐテレジア・オパールを解放なさい」

「でもシスター……」

「聞こえませんでしたか? 早くしなさい」


 シスター・ラファエルはこのホームの、もしかしたらこのピーチバレーパラダイス教会全体のボスだ。正直言って怖い。敵に回したくない。

 仕方なく、テレジア・オパールのくだらない金色ツインテールをほどいて解放した。今まで全力で踏ん張っていたテレジア・オパールはその場にへなへな崩れ落ちる。

 何本かむしり取った金色の長い髪を手から振り払っている間に、シスター・ラファエルはのしのしと階段を上る。大きな褐色の手が私の右手を掴んだ。


「さてマルガリタ・アメジスト、あなたはさっきこう言いましたね? いくらでも地下室に入る、と」

「お耳に障りがないようで安心いたしました、シスター・ラファエル」


 生意気な口を叩いたせいか、彼女は私の手首を握る手に力を込めた。痛い。骨が折れそう。


「進んで罰を受けようというあなたの気概には感心させられました。では、お望みどおりにいたしましょう。――マルガリタ・アメジスト、今日から三日間地下室でお過ごしなさい」


 ひぇっ、と小さく悲鳴をあげたのはカタリナ・ターコイズ。皮肉屋のあの子でも地下室は怖いみたい。

 でも私は地下室なんて怖くはない。あんなのは所詮薄暗い物置でしかない。

 シスター・ラファエルの方がずっと怖い。それよりもずっと三日間マリア・ガーネットに会えなくなることが辛い。

 階段を降りるシスター・ラファエルに、私は大人しく従った。下手に逆らって手首の骨を折られたくないもの。でも言わなきゃならないことはちゃんと言う。


「シスター・ラファエル、私はテレジア・オパールにこれまでさまざまな嫌がらせを受けました。なのに私にだけ処分が下されるのは納得できません」

「おだまりなさい、マルガリタ・アメジスト。最近のあなたの振る舞いは目に余ります」


 引きずられるようにして一階から地下へと続く階段を下ってゆく。その幅は狭くて人一人通るのがやっとなほど。湿った埃のにおいがする。

 突き当たりにあるドアの付近は確かに薄暗く、小さな子供なら怖がっても不思議ではなさそうな陰気さに満ちていた。でもやっぱり、小さな子でもないのにこんな所を怖がるのは私に言わせれば、ちょっと異常だ。

 

 ──怖くはない、怖くはないけれど。

 三日間をここで過ごすとなると話は別だ。シャワーは浴びさせてもらえるのかしら? それにお手洗いは?


 私の右手には炭酸水とチョコバーが入った紙袋がある。

 ガレージはいつも暑い。だからマリア・ガーネットのために冷たい飲み物を買ってきたのに、あの騒ぎで渡しそびれてしまった。おそらく温くなっている。

 食事抜きまで命じられたら、これを食べて凌ぐしかない。熱で緩んだチョコバーとぬるい炭酸水、これで三日耐えられるかしら? 

 二層服の内側から鍵束を取り出したシスター・ラファエルが地下室のドアを開けている間、うんざりしつつも私はざっくり試算した。

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