第6話 中庭
悲しいことがあってもいちいちショックを長引かせていられない。
このホームでのスケジュールはそんな仕様になっている。怠け者になって好きなだけゴロゴロしていたくても、心の痛みで一日くらいお休みが欲しくても、肉体的に元気ならシスターに必ず叩き起こされる。そしていつものように始まる規則正しいお勉強とお仕事の日々。メソメソするだけムダだって体に叩き込まれるのだ。
お菓子として暮らす毎日で得られる数少ない利点を一つあげるとしたら、これになる。──ブートキャンプ だとか刑務所だとか、外の世界でも似たような機関がありそうでオリジナリティが無いのが難だけど。
自分の正体が、異世界の果てでゴミ同然に捨てられている戦略兵器の一個体だと知らされて眠れなくなっても、そのせいで日中ぼんやりしてシスターに怒られても、夜になって朝が来る。
早起きしなきゃテレジア・オパールたちに洗面台が独占されちゃうし、お掃除しないとジャンヌ・トパーズが食べこぼしたお菓子のくずが目当ての蟻たちに襲撃されてしまう。
動画に残された可愛いユスティナに会いに来た方々に昔の私っぽくニッコリ笑ってあげるのも、頭の中をほどよく空っぽにできて助かった。「あなたの憧れているその子の姉妹は世界の果ての果てのうんと果てで大量廃棄されてるのよ」なんて言い出さないようにこらえることで忍耐だって鍛えられた。
見方を変えればこんな厳しい環境も自分を磨き上げる研鑽の場になるのだ。ああ素敵。
──そんな心持ちで過ごした数日間、できるだけ平静にしていたつもりだった。でもルームメイトの目には「いつも以上に情緒不安定」という風に映っていたらしい。心配そうなジャンヌ・トパーズにおそるおそる声をかけられた。あんた何か嫌なことでもあった? 話くらいなら聞くよ? って。
引っかかる点が無いではなかったけれど、口数が減って元気がない割に仕事の面ではいつになく真面目な私と一緒に生活することに調子を狂わせている彼女の事情が、その顔から伺えた。心配してくれていたことにも心をほぐされる。
なので私はジャンヌ・トパーズの言葉に甘えた。核心には触れず、ただ「頼んでも無いのに、ここに来るより前のことをお客様から教えられた」とだけ伝える。
「えー、やっぱほら最悪じゃない! あのヤブ医者のやつー!」
それだけで彼女は大いに憤慨してくれた。尻尾を逆立ててぷりぷり我がことのように怒る。
「あいつ、前の身体検査の時にわたしに言ったんだよ?『ミスティキャット時代の面影が微塵もない』って。ほっとけっつうの! こんなとこに居るんだから好きなものを好きなように食べることくらい許して欲しいっつうの!」
こんな具合にクッキーを摘まみながら怒ってくれる。
確かに、今のジャンヌ・トパーズの姿からかつてのスリムで敏捷なウィッチガール時代の面影を見るのは難しい。愛らしい顔立ちの他はすっかり別人になった彼女だけれど、ふっくらして触り心地がよさそうな体はかなり蠱惑的だ。彼女自身もそのことを自覚しているから、クリームみたいに白くて滑らかな肌へのお手入れは欠かさない。お菓子としてなら昔より今の方がずっと魅力的だ(私としてはほんの少しでも運動することをお勧めしたいけれど)。
「あー、あたしも前にあのヤブ医者にイヤミ吐かれたよ? 今の君の姿を見ても以前と同量の好意を持続しているファンは貴重だから大切にしろとかなんとか。アイツ言うことが回りくどいんだよねー。ここに来てブスになったのお前くらいだってストレートに言えばいいのにさ」
ジャンヌ・トパーズの尻馬にのって調子を合わせたのは、隣の部屋から遊びに来ていたカタリナ・ターコイズ。私のベッドの上に寝転がって、古すぎて害のないコミックブックをめくっている。ジャンヌ・トパーズのベッドはすぐお菓子のくずだらけになるから落ち着かないって理由で、彼女はいつも私のベッドを占領する。
お勉強の時間が終わり夕食が始まるまで、お菓子たちに与えられるいつもの自由時間。
お客様への二人の悪口を聞いている私はというと、お裁縫に取り組んでいる。マリア・ガーネットの右腕が裂いたワンピースを針と糸で繕っているのだ。
二人の中でお客様の価値が悪化の一途を辿ることに小気味よさを覚える卑しさは、私が99.9%は人間であるからこそのはず。意地悪した相手を責めてくれる友達に恵まれたことも素直に嬉しい。
……ああそれにしても、お裁縫ってどうしてこう思った通りにいかないんだろう。ここ数日、自由時間のほとんどを破れたワンピースの修繕に費やしているけれど、ちっとも捗らない。
しかも今日、換えのワンピースは生憎クリーニング中。私は白のスリップ姿で針を持ち、糸と布に立ち向かうしかない。
「口に入るものも身に纏うものも、あなたがここで生活するのに必要なものは全て心ある方々のご寄付で賄われたものですよ、マルガリタ・アメジスト。それを粗末に扱うなど、感謝の心がたりない証です」
お説教のあと、シスター・ラファエルは破れたそれを自分で修繕するよう命じたのだった。
同じ服ならいっぱいあるのに。ご寄付だってお菓子たちの働きがあればこそ受け取ることのできたもののはずなのに。そもそも、お菓子たちにみっともない繕い跡のある服を着せて人前になんか出さない筈。何から何までやるだけ無駄な作業なのだ。
つまりこの修繕は私への純粋なお仕置きってこと。精神修養とも言い換え可能かしら?
素直にお仕置きを受け入れて分かったことは一つ。
工具を扱うのは嫌いではないけれど、私は針と糸の連合軍とは相性が悪いってこと。
「わ、ひっどーい。縫い目ガタガタじゃん」
手元をのぞき込んだカタリナ・ターコイズが眼鏡越しにニヤニヤ笑うから、私の口調だってむくれたものになってしまう。
「じゃあ変わってくださる? マジカルファッショニスタのパルフェ・クローゼさん」
「無ー理ー、今はもう針とか糸とか見るのも嫌だし」
しょっちゅう皮肉ばっかり呟いてノートの隅に変なイラストを描いている、丸眼鏡にそばかす娘のカタリナ・ターコイズ。ここに来る前の彼女は、自分でデザインした不思議な力を持つドレスを纏って戦うウィッチガールだった。モデルの卵だったとされる変身前の彼女が、背筋をピンと伸ばして颯爽と歩いている所やいつか憧れのデザイナーのコレクションを身につけてランウェイを歩く夢をみる姿も、古い動画には残されている。
でも今は、背中を丸めては何かを企んで笑っているいたずら小悪魔みたいな子になった。かつての面影がほとんど無いところは、私やジャンヌ・トパーズ、そのほかお菓子たちと同じ。
皮肉屋になったカタリナ・ターコイズが私を手伝ってくれるわけがない。最初から期待はしていなかったけれど、こぼれるため息だけはどうしようもなかった。
──何から何まで不条理で不本意なお仕事だったけれど、向き合っている間だけは頭が悲しみに浸るのを防いでくれる。それだけは利点だって言える。気を抜くとすぐ糸がこんがらがってしまうんだもの。ああ素晴らしい。
「ところであんた、最近どうしたの? ここしばらくガレージに顔出してないじゃない?」
ジャンヌ・トパーズが尋ねたから、手元が狂ってしまった。
針先を刺してしまった指の腹に、血の球がぷっくり浮かびあがる。顔をしかめて私は指先を口に含んだ。血の味が舌の上に広がる。その間にもジャンヌ・トパーズったら、クッキーをさくさく齧っている。
「もうお熱はすっかり冷めたってわけ?」
指を咥えたまま首を左右に振った。そんなわけないじゃない。
確かにあの日から今日まで、私はガレージに立ち入らなかった。それどころか近寄ってすらいない。
でもそれはただ単に、悲しくて凹んで不機嫌な状態でマリア・ガーネットに会いたくなかっただけだ。うっかりあの子の顔を見てしまえば、世界で一番可哀そうな女の子でございますって態度であの子に甘えてしまいそうだったから。
自分がそんな風になってしまうのは嫌だ。私より可哀そうな女の子なんてこの世界だけでもゴマンといる筈なのに、この程度のショックで同情を誘って慰めてもらおうだなんて厚かましいにも程がある。
煩わしくても面倒でも、涙を浮かべている女の子を無視できずついつい手を差し伸べてしまう。マリア・ガーネットはそんな子だ。ショーではヒールの女王様だけど、本質はリングで演じるキャラクターとは正反対な子なのだ。ガレージであの子に付きまとっていた日々の観察で私はそう確信していた。
あの子はきっと、側で私がしくしく泣いていたら、柔らかい左手で涙をぬぐって慰めてくれる。不機嫌そうな様子を見せながら、泣き止むまでは手の届く範囲内にいてくれる。そんな様子だって簡単に想像できてしまう。
あの子に慰めてもらう、そのイメージはうっとりするくらい甘い。本当のことを言うと、眠る前に涙を拭ってくれる場面を想像することはある。このイメージを実現するのだって簡単だ。私の技術とあの子の気質をうまく噛み合わせたらいいだけだもの。
でもそれを実行したが最後、私はあの子の中で「秘密を共有した仲」から「泣き虫で甘えたなお菓子の一人」へと激しくランクダウンしてしまう。それは嫌。
私はあの子の仲で特別な存在であり続けたい。
だから、ショックが収まって以前の調子を取り戻せるまでは、大人しく日常業務をこなそうと努めている。ああ、なんていい子で努力家なんだろう、私って!
あの日から今日まで、マリア・ガーネットのウィッチガールバトルショーの出番はない。だからあの子はずっと、このピーチバレーパラダイス教会の敷地内にいる。
概ねいつものようにガレージで体を休めているみたいで、食事を載せたお盆を持ったシスター・ガブリエルが出入りする所は確認していた。運が良ければ、比較的涼しい朝晩にトレーニングをしている姿や、シスターたちに頼まれた雑用をこなしている姿を見かけることもある。
あの子の姿が目に入ると、私はしばらく窓のそばに陣取っていた。目を凝らして、右腕の調子が良さそうなことにほっとする。
にもかかわらず、私の視線の気配を察したマリア・ガーネットがこちらを見上げると、窓辺からさっと離れていた。タイミングがずれると、わざとらしくそっぽを向く。
感じ悪いけど、仕方なかった。だって、一度でも目が合うと慰めてもらいたくなって、涙が噴き出してしまいそうなんだから。
「──だから、今、私は私にガレージに行くことを禁じているの。私はあの子の同情を買いたいんじゃなくて、あの子の中で一番好きな子になりたいんだもの」
絡まった後をほぐしながら二人に説明したけれど、表情を見るにどうやらあまり伝わらなかったみたい。カタリナ・ターコイズに至っては興味も無さそうに雑にまとめてしまう。
「ああ〜、押して押して押しまくってから急に引くと相手が勝手にコロって落ちてくれるってアレね。さっすが策士のマルガリタ・アメジスト。腹黒〜い」
「──誰が何ですって? もう一度聞かせてくれない?」
「は? あんた自分が策士で腹黒いっつう自覚ないわけ? こっちがびっくりするんだけど」
「私があなたの言うような抜け目のない子だったら、大人しくお仕置きを受けてなんかいないし、あの子に合わないなんて苦行を強いたりしていないわ。大体、そうやって気をひいてみせるテクニックを好きな子に実践するなんて、私の中ではまず有り得ない行いだもの」
「でもさあ、押し倒して押した後に急に引くと向こうから勝手に落ちてくれるあの技、今のあんたってば結果的にそれをやっちゃってない?」
「……」
「わたし、分かっててやってると思ってたんだけど」
ジャンヌ・トパーズに冷静に返されて、私は言葉を失った。
言われてみれば確かに、今の私は自分の都合だけでマリア・ガーネットと距離を置いている。あんなに拒まれ邪険にされてもお構いなしにガレージに出入りしていたのに、右腕を整備して、そしてあの子の秘密を少し共有したその翌日からあからさまに無視している。
まるで私、古典的な技術で気をひく安っぽい悪女みたいじゃない。
手元が狂ってまた指の腹をついてしまったけれど、痛みに気を取られているような場合じゃなかった。
「やだ! それじゃあ私って、使い古された手練手管で人の心をもてあそぶような子だってあの子に誤解されてるの⁉」
「ちょ……やめて、針もったままこっちに来んな! 危ない! 怖い!」
同じベッドの上にいるカタリナ・トパーズに詰め寄った所で、はかばかしい答えを得られない。それどころか大いに迷惑がられてしまう。
でもそれどころじゃない。あの子に誤解されているのかもっていう恐怖が膨れ上がって、感情を堰き止めていたダムを壊した。我慢していた涙が目から一気に零れ落ちる。それはもう滝みたいに。
「どうしよう……っ、マリア・ガーネットにどうしようもない尻軽で悪女だって勘違いされてたら……! もしそうなら、私、生きていけない……。やだもう、死にたい」
「あーもう、落ち着きなって! あんた本当に最近テンションの乱高下激しくてついていけないんだけど」
「ホルモンバランスでも乱れてるんじゃないの?」
お菓子として生きるため、ここにくる際に多少の改造を施されている私たちにしか通じないタチの悪い冗談でジャンヌ・トパーズは私をからかう。それから何気なさそうに視線を窓の外へ向けた。
隣の部屋から、アグネス・ルビーとバルバラ・サファイアの二人──テレジア・オパールの
寝そべっていたベッドから半身を起こして、うるさそうに窓の外を覗いたジャンヌ・トパーズは、すぐに頭の両脇から猫耳を飛び出させた。げっ! ってお行儀悪くうめきながら。
そんな態度を見せられては好奇心が刺激されて当然。私も窓辺に近寄る。
「あんた今外見ちゃダメ!」
ジャンヌ・トパーズは慌ててそう言ったけど、手遅れだった。私はしっかり、窓の下での光景を見てしまった。
教会の裏手には、私たちの住むホームと神父様がお暮しになるお屋敷に囲まれた中庭がある(マリア・ガーネットのガレージは、ホームと神父様のお家の間にある)。
通路を兼ねたスペースだけど、その昔、シスター・ラファエルがこしらえたっていう花壇もある。お陰でそれなりの見栄えがするちいさなお庭だ。
今日の花壇の世話係はテレジア・オパールで、真鍮の如雨露を持って立っていた。
毛先がくるくるとカールしたブロンドを幼稚なツインテールにしているテレジア・オパールは、ホームの外壁に背中を密着させるように立っている。位置としては私が覗き込んだ窓の真下。この位置から彼女の表情は窺えない。
でも、テレジア・オパールの正面に立っている、あの子の表情はしっかり確認できた。
テレジア・オパールが逃げられないように鉄の右手を壁に突いて腕の中に閉じ込める、つなぎの袖をウェストで結んだいつものスタイルのマリア・ガーネットのその顔は。
「何々、何これ? どういう状況? 壁ドンとかちょっと古くない?」
私の傍から顔をのぞかせたカタリナ・ターコイズが、小声で面白がっている。
それが聞こえたわけではないと信じたいけれど、マリア・ガーネットがその顔を少し上向けた。あの子だけがもつ赤い瞳が私を捕らえる。白目の面積の方が多いから、怖いとか目つきが悪いとかって言われがちだけど、私の大好きな格好いい目。
目が合った。
ああいう挑発的な目つきがとびきり似合うのよね、あの子。
──なんて、思わず胸が高鳴ったと同時に心臓がキリリっと痛んだ。
マリア・ガーネットは、壁に縫いとめられたように身動きしないテレジア・オパールの顎を左手で持ち上げる。そして瞼を閉じ、軽く唇を触れ合わせたのだから。
流れるような一連の仕草が目に焼きつく。
キャアアア! と、隣の部屋の子たちが精いっぱい押し殺した金切り声をあげた。私の側でも、ジャンヌ・トパーズは「うわわ」っと声をあげ、カタリナ・ターコイズはニヤニヤしながら「おお~う」と歓声をあげる。
私はとても、声なんて出せない。
一秒にも満たないほんの一瞬で、胸の中の柔らかい部分が抉り取られてしまったのだから。
そんな私と同じくらい、言葉を失って硬直している子がいる。窓の下のテレジア・オパールだ。いつも憎たらしい態度の取り方を忘れてしまったのか、ただ棒立ちになっている。そんな彼女前髪を、マリア・ガーネットは左手で払った。ショーで女王様として振る舞っている時にみせる艶やかで攻撃的な笑みを残すと、ガレージの方へ去ってゆく。
体の向きを変える瞬間、私に向かって怒ったような眼差しをくれてから。
硬直のとけないテレジア・オパールの手から、水の入った如雨露がおちた。ごとん、とその音はよく響く。
あんまりな光景に頭が真っ白になって、ベッドの上にぱたんと倒れる。呆然とした状態でそのまま数分。そうしている間に、さっき起きた出来事を少しずつ整理してゆく。
あの子は、私が見ているのを確認した上であんなマネをした。私になにかを伝えたい、だからテレジア・オパールなんかにキスしてあげた。それは最後にあの子が見せた眼差しから明らか。
──それが飲み込めてくると、だんだん腹が立ってくる。
気が付けば、修繕中のワンピースを放り捨て、スリップ姿のままで部屋を飛び出していた。ジャンヌ・トパーズが「服! 服を着なってば!」って叫んでいたけれど聞いていられない。
この勢いに今まで我慢していたエネルギーを上乗せして、ガレージに突撃する。カーテンを勢いよく捲って、ソファの上にいるあの子に向けて怒鳴った。
「だったら直接、私のところまで伝えにくればいいと思うの!」
マリア・ガーネットはソファに横たわってバイブルをめくっている。私の方を見ることすらしない。その横顔がたまらなく綺麗。
そっけない言葉が返ってくるのもいつもなら惚れ惚れするところだけど、今日は憎らしい。
「さっきの『だったら』が何に係ってるのか分からないんだけど?」
「『私に言いたいことがあるんでしょ?』に係っているのよ、省略したの! あなたは私に何かを伝えたくてああいうことをやったんでしょう? 違わないわよねっ?」
「違うよ、うぬぼれ屋。前からあの子、陰口をたたくくせに人のことをじろじろ眺めるのが鬱陶しかったんだよね。だからああして止めさせただけ。そしてそれをあんたがたまたま見ていただけ」
ぱらりとマリア・ガーネットはバイブルのページをめくる。
確かにテレジア・オパールはずっとマリア・ガーネットのことを気にしていた。そのくせ全く素直じゃなかった。私だってあの子のそんな所が面倒でいつもイライラさせられた。だからって、
「……酷い」
「あの子の気持ちを弄んだのが? あたしがそういうヤツだって分かったから? だったら遠慮せず軽蔑しな。構わないから」
バイブルから視線を移して、マリア・ガーネットは笑う。ショーの時に、対戦相手の子を挑発する時によくやる、意地悪で冷たいぞくっとする笑い。
「もうここへ来ないでね。――あんたの気まぐれに付き合わされるのはまっぴらだから」
マリア・ガーネットは再び読書に戻ろうとしたけれど、私はバイブルを取り上げる。
「ちょっ……!」
マリア・ガーネットは多分、意地悪をされた私は泣きながらガレージの外へ出て行くとでも予想していたのだろう。予想外な私の行動を前に、悪ぶった演技を続けられなくなる。ちょっといい気味。
私は構わずにバイブルをワイン箱サイドボードにたたきつけ、勢いよくソファに腰を下ろす。両手でマリア・ガーネットの頬を挟み逃げられないようにすると、あの子が我に帰る前に唇を奪う。
一人だけつむっていた瞼を持ち上げると、マリア・ガーネットは大きく目を見開いていた。唇を離した途端、いくつかの傷跡の残る頬がかあっと赤くなる。
──なによ、テレジア・オパール相手には艶っぽく目を閉じてあげた癖に。あんなに余裕綽々だったくせに。
どうして私相手には不意打ちではじめてのキスを奪われた子みたいな顔をするのよ。
まだ腹立ちがおさまらなくて、私は下から睨み上げる。
「マリア・ガーネット、あなたっておバカさんね。テレジア・オパールの気持ちを弄んだ程度のことでどうして私があなたを軽蔑しなくちゃならないの? 談話室を散らかしたくせに掃除しないし、自分達だけ洗面台を独占し続ける子ような子、少しくらい恥ずかしい目に遭わせた程度のことで軽蔑なんかしないわよ」
ついでにテレジア・オパールへの不満や本音をぶちまけてしまった。まあいいか。
「あなたに言いたいのはね、私に言いたいことがあるならあんなことしないで! 直接言いに来てってことなの! 私に文句があるからって、どうしていちいちテレジア・オパールを喜ばせるような手間暇をかけるのよ? おかしいじゃない? そもそもどうして私より先にあんな子なんかにキスしてあげるの? 順番が違う!」
本当の気持ちをしばらく封印していた分、驚くくらい強い声が出てしまった。こんなに怒鳴ったのは私の記憶には残されていない。
呼吸を落ち着かせる私の目の前で、マリア・ガーネットは呆気にとられたように目を丸くする。それから左手で自分の口元を隠し、ぶつぶつ呟く。
「……え、何? あんたが怒ってる理由ってあたしがあんたより先にあの子にキスしたからってだけ? あたしが平気であの子を傷つけて弄ぶようなヤツだったからってことじゃなく?」
「そうよ。私はショーで可愛いウィッチガールを格好良く痛ぶってみせるあなたのことが好きなのよ? 誰かにちょっと意地悪している現場をみた程度のことで嫌いになったりするもんですか。──大体あの子、絶対喜んでるもの。絶対眠る前にはそういう妄想で頭の中をいっぱいにしているもの。その癖にあなたの悪口ばっかり言ってたようなあんな子に、みすみすサービスをしてあげるとか意味が全然わからない。ああいうことはまず私にして頂戴!」
「……」
口元を隠していた手をそのまま上へスライドさせて、マリア・ガーネットは頭を抱えた。
この時になってようやく、私は気がつく。怒りのあまり醜い本心を吐き出しすぎたかも? いけない。呆れさせちゃった? シスター・ラファエルも本音を吐きつくしてもいいことなんか起きないってお勉強の時間に仰っていたのに。──それはそうとしてこの子、うつむいた時の首筋や耳元がやっぱり奇麗。
おろおろしながらも見るべき所はちゃんと見ている私の前で、頭を抱えていたマリア・ガーネットは呆れたように呟いた。
「……変なヤツ……」
ああ、やっぱりやらかしちゃってた……!
ショックを受ける私の前で、マリア・ガーネットは左手をさらに上へスライドさせて額から前髪をかき上げた。
現れた顔は、意外にも柔らかく微笑んでいる。
「何泣きそうな顔になってんの? さっきまで友達のことをムチャクチャ言ってたくせに」
テレジア・オパールはぜんぜん友達なんかじゃないし、と言いたかったけど、できなかった。マリア・ガーネットはあたしの頬を軽くつまんで引っ張ったのだから。
「あんた本当に変なヤツだね。顔だけ見れば天使みたいなのに、助平だし、理屈屋だし、根性腐ってるし」
顔だけ見れば天使みたいって評価だけありがたく頂戴することに決め、ありがとうと伝えた。頬を摘ままれているから「あひはと」なんて、しまりない言葉になっちゃったけど。
私の頬から手を離して、マリア・ガーネットは右腕を差し出した。
数日前までのびりびりした気配は収まって、ずいぶん大人しくなっている。
「触ってみる?」
この子がいうので、私は鋼鉄の右腕にふれる。金属らしい冷たさの後に、じんわりとした熱が伝わる。温かくてて心地がいい。外殻の中で正しい場所におさまった使い魔のアスカロンがくつろいでいる証拠だ。
手首をかえして、マリア・ガーネットは右腕で私の頬にふれる。金属なのにその感触が柔らかく感じられる。
「あんたのお陰で、やっと右手で誰かに触れられるようになった。こんな風にさ。そのお礼をちゃんと言いたかったんだ」
マリア・ガーネットの右手に、私は自分の手を添える。ずっとこうしてもらいたいような気持になる。
「お礼なら、あの時カーテンを引きながら伝えてくれたじゃない。『ありがとう』って」
「あんな適当なのじゃなくて、もっとちゃんと感謝してるんだってことを伝えたかった。なのにあんた、急に無視するし。ガレージにも来なくなるし――」
私の胸が罪悪感でいっぱいになる。こちらの都合で、マリア・ガーネットに辛い思いをさせてしまっていたと知らされたんだもの。
さっきまで怒っていた私なのに、今は申し訳なさにとらわれる。さっきまで堰き止められていた涙をまた流してしまう。ああまたカタリナ・ターコイズに笑われる。
「ごめんなさい。マリア・ガーネット……」
「いいよ、マルガリタ・アメジスト。あたしもバカみたいなことをして、あんたもあの子も傷つけた。本当にバカだった」
鉄の右手でそっと、私の涙をぬぐう。
テレジア・オパールのことなんてこのタイミングで考えなくたっていいのに。
ちょっと憎らしくなったけど、そうせずにはいられない子なのだ。マリア・ガーネットは。
「ごめんね、マルガリタ・アメジスト。それから、ありがとう」
私の胸がぽおっと輝く。
それからマリア・ガーネットは私がスリップ一枚だと気が付いたらしい。さっきまでの柔らかい、優しい表情をすてて怪訝そうな顔になる。
「……あんた服は?」
「シスター・ラファエルの言いつけで、あなたにこの前破かれたところを繕っているの。その最中で飛び出したから」
「ちょっと待ってな!」
ムードもなにもない性急さで立ち上がると、ガレージの片隅に置いてある古いチェストをかき分ける。そこにマリア・ガーネットのワードローブが整理されているらしい。
膝をついた状態でほんの少し硬直してから、マリア・ガーネットは小さく口にした。
「……ああもう、仕方ない!」
私にはなんだかわからない一言を吐いて、一着の衣類を取り出す。男物っぽい、黒くて薄手のコートだ。誰のものだろう? わからないけれど私の体にそれをかけてくれる。
「ほら、これ着て戻りな!」
「……別に、この格好でいいじゃない。今ここにいるのはどうせシスターとお菓子の子だけよ?」
「バカ、いいからそれ着てあんたの部屋に戻りな! もう夕方だ、気の早い客が来たっておかしくないし、神父の手下だってウロウロし始める」
丈の合って無い男のもののコートをぶかぶかさせて外に出る方がスリップ姿よりよっぽど恥ずかしいと思うんだけれど。でも、マリア・ガーネットは私にそれを無理やり羽織らせてガレージの外へ出した。
「それは今度返してくれればいいから。クリーニングだとかそういう気はつかわなくていいからね! いい? なるべく早く帰ること! わかった?」
気圧されるくらい真面目な顔で、一生懸命に念を押す。
そんなに今の私を人の目に晒したくないのかしら? 自分だって日中ほとんど半裸みたいな恰好ですごしてるのに、変な子。ちょっとおかしくて私は笑顔でホームへ駆け出した。
西の地平線には真っ赤なお日様が沈むところ。あともう少しで今日もお菓子としてのお仕事が始まる。
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