第3話
それは貴重品であるゴムの音のようだった。
棒に巻きつけ、それを噛んだ時の音は綱のしなる音と似ており、丈夫そうだと思っていつかは試したいと思っていたのだが、もしかしたらその音なのではないか。
私だったらそう思う。
暗闇の中をあてもなくさ迷い、重たい身体を引きずって歩き回る事を出来る人など到底いない。だから気絶から起き上がるのは困難で、起きた時には頭痛がある。しかし彼は寝るのと大差がないように目を開け、ハゲ頭を珍しげに見つめる子どもかそれに等しい人の目をして辺りを見渡し、ここがオッサンの家だと気づいた。
寝室ならばベッドがあるはずだが、空中を散歩するように空振るばかりで何も当たらず、代わりといって下には糞溜めを置かれており、離れようと身体を動かすと両手首が締めつけられる。
彼は見上げた。
梁に巻かれた縄が手首まで延びて、蛇が獲物に食らいついたように離れない程締めつけているのは当たり前だが、片方だけ緩くて抜けてしまいそうなのは不器用である証拠なのだろう。
片方の手だけに体重が掛かり肩を痛める上に、脱臼やうっ血、懐死の可能性はあるものの、オッサンの娘が回復の魔法を使えるのならば矛盾はない。
彼はそう踏んで、仁王立ちする肝を一層昂らせた。
しかし、宙吊りにされて身動きが取れない彼は、それだけが問題だ。
ちょうどそれを考えていた頃、寝室からこちらにやって来ていた娘が通り、呼び掛けた。
「おーい」
返事はない。
愛想よく笑顔を振り撒き男に媚びてくれるもんだと、彼の生きる日々は凄惨に語るが、それをまるで否定するかのような振る舞いをしている。
とどのつまり、無視だ。
昨日の出来事をようやく理解が出来たのか、知った事で得るその人が持つ感情と重なった情報は、娘の中で改編され、解りやすい形へと加工されて量産されているに違いない。
無限に続く迷路や階段は例えに使えない、全く別の感情。
そんな気がする。
彼はもう一度、体を大きく揺さぶり、抜けてしまった手を振った。
「おーい」
流石に無視を通せなくなったのか、我慢が出来ない娘はテーブルに向かっていたのを止め、彼の元へ引き返してきたが、機嫌が悪そうに腰に両手をあてて微笑んでいた。
何があったのか、どこに不満があるのか理解していない彼を前にし、立ったままで喋りもせず、目で訴えているばかり。
行動を起こさない。
焦れったい彼はあまりにも面倒に思ったのか、口を開く。
「悪いことしたか?」
もちろん、娘はそれに頷くはずである。
空回りもせず、全くの虚無でもないような空にも似た、犯行手前の事件を悪だと言えるかどうかも曖昧なものではあった。しかし、それを認めれば再犯だってあり得る話なのだ。
娘は言う。
「犯そうとしていたアナタには話しません」
当然の反応だが、彼にはそれが障る。
欲望のままと言えば綺麗だが、女は道具みたいなものだと考えていると言えば汚い、そんな彼に。
娘は正しく当たり前の感性で間違いは無いはずだが、彼のちょっとした、些細な価値観の違いのせいで危ない目に遭い、棒が近くになければオッサンの見ていないところで泣いていただろう。
彼はそれを理解せず、再び言い放った。
「勘違いだろ、そんなの」
確かに未然ならば通用しなくもない言い訳だが、現に、裸で寝そべっていたであろう彼に普通の態度を取って話し合っているのだから、服を着させられたのは事実だ。
だから言い訳としては最低で、失恋から立ち直れない男が沼にハマる様しか想像のしようがない。
月光が真夏の夜の夢を彷彿とさせるなら、後者は一体、どこから美しさを学び、どこで描こうと思い立つのだろうか。
勝手な主観で人を振り回す彼に、現実を突きつけようと言葉を漏らす。
「お父さんから言われたのよ。『話すな』って」
経験が語るならば、それは確信と言える。
いくら鬼と言えども、生きてきた事を否定するなんて中々、出来ない話なのだ。
まるで親に諭された時のように、反論する事が出来ないまま反抗的になり、胃が騒ぎだして痛くなる。
人ならばそう感じるはずだが、人ではなかった。
船での騒動があったからこそ、彼の生き様は見れるもので、どんな角度から見ても横暴な、一目合えば野生へと帰る醜い男。
その酷い男は犬歯を光らせ、奇怪な声を上げて笑うのだった。
「ケヘヘ、ぬいひひ。オッサンは娘にそんな事教えてんのかよ。バカだなあ、まったくよ」
そうやって言い、自分の都合がいいように考えを改めようとしているところを邪魔する、ドアを叩く音がこんこん、となるのだが、娘は顔を強張らせ、ドアの近くまで行って、ぎこちなく開ける。
そのぎこちのない動きには、馬鹿をしようとする彼にもすぐに解った。
斧を投げてきたオッサンは、自分の家だからといってノックをせず、堂々と、我が物顔で入っていくのをその場の二人は見ていたのだから。
娘は、普段しないオッサンの行動に驚いたのだ。
そして開いたドアに目をやればそれは事実で、オッサンは十三もない少年の肩を借り、引きずられながら家に帰ってきた、ボロボロの噂の人。
砂漠で水が足りなくなっただとか食料が底をつきそうになったのではなく、この不愉快な世界が生み出した、ある意味不条理とも呼べる存在があったからだろう。
砂漠で襲って来たあれは一般的にはモンスターと呼ばれ、派生はもちろん、構造や大きさなんて計りしれないほどのもので、これをどうやって調べるのか、皆目、見当もつかない。
判っている事と言えば、大雑把ながらの毒の有無に船での移動が可能になった頃から現れた突然変異した生物くらいで、食べれるかどうかは未だに開発が遅れている。
説明の中で出てきた突然変異した生物だが、それは島ごとに違っていて、把握するには全部の島を回らなければならないくらい確認の危険な存在なのだ。
それに当たったとなれば、アリたちに後れを取らないオッサンの状態は頷ける。
「お父さん!」
デコを大きく出した、育ちの悪さが目立つようなボサボサな髪型はトゲトゲしく、石で切ったように野性的な少年から、机から軽い物が落ちる程度の印象を受ける崩れかたをして、床に死んだように伏せる。
娘はその死体に近い者に膝を折って体を寄せ、重たい体を転がし、そして仰向けになったところで顎を上げ、デコの出た少年に指示を出した。
「タオルか何か、薄手の物を数枚、持ってきて」
タオルに首を乗せるのだろう。
デコを出した少年は彼の前を通り、顔を見るように一瞥するとベッドの部屋まで行き、帰りも同様の事をして娘のもとへと向かっていった。
娘に言っても駄目だったが、少年は興味を示していたから、という考えが彼に浮かんだはずだ。
しかし、声が掛けれなかった。
娘の近くに寄れている少年を見て嫉妬してしまったからである。
彼はそうやって娘にも少年にも助けられず、ただただ時間が過ぎるのを待つばかり。
そうしているとオッサンが声を出した。
「うう……。サンドワームにやられた………」
突然変異した生物ではあまり聞かない名前だが、そう簡単に出てくるものだろうか。
突然変異というのはレアケースであり、そのレアケースは確率にすると、とても低い遭遇率になるのは明らかで、それと出くわしたともなれば幸運だと言ってもいいかもしれない。
サンドワームはどのようなものだろうか。
彼はそうは思わないだろうが、オッサンがそれにやられたとなれば利用しない手はない。
「お……」
言いかけていた言葉を詰まらして黙った。そして、自分から縄を切ることにした。
彼は誰かに助けられるでもなく、自分で考えるでもない方法があることを思い出したのだ。
まずは体を前後に揺らし、切ったときに糞溜に落ちないよう注意を払う。
次に縄を切るのだが、方法はまさにこれだった。
緩く結ばれてしまっている手を縄から抜き、胸元に隠しておいたナイフを取り出して切り始める。
その間にも娘は彼に使った魔法をオッサンに掛け、一生懸命に治そうと努めており、縄はその頑張りと比例するように頑丈で、中々、切れない。
ようやく切れそうだと思ったところで彼は手を止め、娘を見る。
魔法をまだ掛けていた。
彼はそれを見るや否や体を大きく揺らし、前に出たときだけ体重を全てかけるとぷつり、と切れ、糞溜の端をなんとかかわして着地した。
キツく絞まっていた右の手を動かせるかどうか確認するが、血が全く通っていなかったせいで動かない。
「うわ、動かせねえし、痛くねえ」
手首に動く手を持たせ、ぶらぶらと力が入らない事を楽しんでいるようだった。
それは解放の喜びとも言える。
彼はその喜びを抑えると歩き出し、娘の方へと向かった。
「ええっと、娘?」
彼は娘の名前を訊いていなかったせいで、こういった場面で弱る。
「シャルドネ。私はシャルドネっていうの。アナタの名前は?」
彼の名前は一夜を過ぎても知られていなかった。
初対面ならば挨拶で名前を知るものだが、忙しかったり襲ったりした結果、こうも奇妙な間を置かれてしまったのが結論だ。
彼は髭の生えていない顎を撫で、髪を掻いて言う。
「ボルグだ。カッコイイだろ」
自信満々にそう言うものの、シャルドネはそう思っていない。
デコ助だって、何を言っているのか、と冷ややかな視線を送っているのだから、二人とも一致しているのだろう。
彼は気にせず、その雰囲気で言葉を飛ばした。
「オッサンの敵を討ち、してやるよ」
タイミングが悪かった。
こんなときに言っても感動しないのは当然のこと、拍手も歓喜も聞こえない、井戸の底を見ているような沈黙。
「あと、装備を返してくれないか」
破って入ろうとする大胆さは名前に負けていない。
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