十五歳の夏 三
子供の頃から、足が痛かった。
「遊びすぎよ ! 」
その痛みを訴えても、絹枝に一喝された。
「足が痛とうなるまで、遊びゃあがって ! 」
今日は遊びに行ってないと言っても、当然無視されたが、中学生になっても痛いと言う。絹枝にはそれが不思議でならない。思い当たることは何もない。足をくじいたとかもないのに、痛いとは…。
「変な子で」
と、庄治も言う。庄治には、足のことより、時たま、娃子が体をぶるぶるっと震わせることの方が不思議と言うより、気味が悪いのだ。何の前触れもなく、突如として体を震わす。
この、娃子が体を震わすのは、チック症の一種である。幼い頃、絹枝が恐かった。まるで、夜叉のような形相で娃子を睨み付けるのだ。それこそ、体が震えるほど恐かった。さらに、怒鳴られ、果ては殴られ蹴られる。
詰まるところ、絹枝自身がそうであったように、幼い頃のことは何も覚えてない。だから、幼い娃子に何をしても覚えてない、ないから、何をしても構わない。
だが、娃子は覚えている。体が記憶している。その記憶が、今もって体の震えとなって表れるのだ。前触れなどはない。突如として、銭湯で湯に浸かっている時に震えたこともある。
庄治だけでなく、娃子のこのクセに気づいた人もいると思うが、やはり、普通でない子は、色々おかしい。きっと、これからも、もっとおかしくなることだろう。
それでいいのだ。
これは娃子が持って生まれた業。前世の悪行因縁。因果応報。
こっちはそれを高見の見物してればいい。また、歩き方がおかしい時もある。全くもって、救いようのない子である。
庄治でさえ思う。娃子は因果な娘である。オヤに捨てられ、絹枝に火傷させられた。すべては絹枝が蒔いた種だ。勝手に娃子を連れ帰り、とんでもない目に合わせたのだ。
娃子はそのことでいじめられて来た。絹枝は手術してやるんだ息巻いていたが、結果は片方の頬を引き
それは庄治だけではない。誰もが思ったことである。大阪の病院まで行ったのだから、少しはきれいになって帰るものと、皆、そう思っていた。片方の頬は何とかなっているものの、それとて、単に、皮膚を張り付けただけではないか。その継ぎ目ははっきりとわかる。さらに、もう片方は引き攣れている。それはまたやり直すらしいが、どっちにしても大したことはない。まあ、下瞼の引っ張りは無くなったが、それにしても…。
----何じゃ、この程度か。
皆、例え、一部分でも美容整形のように、劇的に変わって帰るものと思っていた。誰も形成手術という言葉すら知らない時代だった。
だが、これでは、この有様では茶飲み話にもならない。庄治も娃子の手術のことは散々自慢していた。絹枝だけではなく庄治もイイオヤぶりたいし、ぶっていた。
当てが外れ、面白くない庄治は、またもやらかしてしまう。
例によって飲みすぎ、酔っ払いの
結果として、この夜が庄治の酔態の最終日となったのだが、娃子は布団の中で知らん顔していた。絹枝は起きて様子を見に行ったが、何か、バカらしくなりそのままに放って置いた。夜はともかく、朝になれば近所の人の笑いものになっていた。
さすがに、この時は庄治も青菜に塩状態だった。
これまでは、絹枝の延々繰り出される文句が腹立たしくてならなかった。そこで言い放った。
「
この堪えろが方言か標準語か知らないが、これはすごい言葉である。
堪えてやれと言えば、許してやれと言う意味だが「あんたが堪えんさい」と言えば、我慢、辛抱しろと言う意味である。
娃子がまだ幼い頃、年末になると庄治たちは餅の
その間、娃子はその家の二階で中学生くらいの男の子と過ごしていた。彼は病弱でほとんど布団の中にいた。さすがに、その時、彼とどの様な話をしていたかまでは覚えてないが、大人たちの話はすごかった。
彼はその元締めの男の息子であるが、男の妻の子ではない。何と、妻が入院中に妻のイモウトとの間にできた子である。退院した妻は、あまりのことに茫然自失…。
だが、周囲の女たちは妻に言った。
「堪えんさい。あんたが堪えたら、ええんじゃけん」
女、それも、若くないこの国の女が、一人で生きて行ける時代ではなかった。妻はイモウトの産んだ子を引き取り籍に入れた。
だが、このチチである男。ちょっと見には飄々とした感じだが、実際は違う。何より、一度として餅を搗いたことがない。労働は人にやらせ、かなりの金額をピンハネしていたと思う。
娃子はこの男が好きになれなかった。子供とは、案外よく見ているものである。
この餅の賃搗きは娃子が小学校二、三年生くらいまで続いた。
だから、娃子は「堪えろ」と言う言葉が嫌いである。堪えろとは、ある人に犠牲を強いる言葉なのだ。それを庄治が簡単に使う。
だが、さすがに、この時は違った。その必死さは滑稽でしかない。口数少なく、いかにも反省してます態で絹枝にまとわり付く。
極め付きは、絹枝の残したインスタントラーメンの汁で飯を食べる。これが庄治の
裁判の判決ニュースで、被告には悔悛の情があるとして、執行猶予が付いたりするが、実際のところはどうなのだろうかと思ってしまう。本当のところは罪を軽くしたい一心で、悔いてますアピールではないのか。服役して模範囚となるのも、一日も早くシャバに出たいからである。人の反省など、そんなものである。
特に、庄治はすぐ反省する。その時は、それこそ涙を流して反省しているが、すぐ忘れる。
「あんたぁ、もう、外酒、飲みんさんな。家で飲ますけん。外じゃ、飲みんさんな」
と、その後、絹枝から諭され、それからは無様なことはしなくなったが、隠れて飲んでいた。晩酌は大瓶ビール1本だったが、娃子と絹枝が銭湯へ行けば、その間にビールを飲む。ある夜、娃子が忘れ物を取りに帰れば、庄治がビールを飲んでいた。そう、外で飲めなくなった分、家で飲まずにはいられない庄治だった。
世は高度経済成長期に差し掛かり、ガス栓が引かれ、
絹枝はこれらの家電にあまり興味がなかった。確かに便利なものだと思うが、なければないで済む。今までないままに暮らしてきたのだから、焦って買うことはない。しかし、さすがに近所のどの家にもテレビ、冷蔵庫、洗濯機が揃いだせば、やはり、買わないわけにはいかない。
まずは、テレビ。昨日見た番組の話について行けない。仕事仲間からも、どうしてテレビくらい買えないのだろうと不思議がられていた。また、冷蔵庫とは便利なもので、食べ物が腐らないし、夏は冷たいものが食べられると言う。だから、これも買った。だが、冷蔵庫の機能はビールを冷やすだけでなく、庄治の八つ当たりの道具にもなった。
気に入らないことがあると、冷蔵庫のドアを思い切りバンと閉める。その反動でドアが開く。その開いたドアを閉めるのは絹枝か娃子である。また、テレビのチャンネルをダダダダダっと回す。時には、チャンネルをこぶしで叩いて回す。そんなことをしたら、テレビが壊れると言ってもお構いなし。
「うるさい!!」
これが、庄治の男としての威厳だった。これまでは、男は家では人殺し以外、何をやっても許されて来た。それが戦争に負けてから、やたら、女がうるさいくなった。
戦後、強くなったものは、女と靴下。だから、加減して来てやったではないか。男の暴力が悪いのではない、男に暴力を振るわせる女が悪いのだ。
少しくらいのことにガタガタ言わず、男を立て、機嫌を損なわないようにするのが女ではないか。女とはそう言うものであるのに、それが戦争からこっち、世の中がおかしくなってきた。
女の方から亭主に別れを切り出すなど、もっての外であるのに、絹枝までが、そんな風潮にのせられ、離婚をほのめかすのだ。
「今は、離婚は恥じゃないわ」
昔は恥だった。離婚した女は出戻りと言われ、バカにされたものだ。だが、時代は変わった。酒ばかり飲み、ろくに仕事もしないような男など、別れた方がせいせいする。庄治と別れた方が、金も貯まる。
「好きにせえや」
と、庄治は言うが、好きにさせたことはない。いや、庄治は離婚はないと思っている。何と言っても、世間はまだ後家をバカにする。例え、別れたにしても、毎朝顔を合わせるのだ。その時は散々、
いやいや、いざとなれば、庄治にはとっておきの秘儀がある。泣けばいいのだ。男がさめざめと泣けば、世間の女たちは同情する。だから、女はバカで男がいなくては生きて行けないのだ。
事実、それは絹枝もわかっている。
「あのまま、一人でおったら、殺されとったかもしれん」
と、娃子にも言っていた。戦後の混乱期に金を持った女が一人でいることの心細さから、オジが持ってきた縁談に飛びついた。確かに、庄治は用心棒の役目を果たした。だが、それにしても、酒と暴力付きの高い用心棒代を、これから先も払い続けることだろう。だが、いくら高くても、命には代えられない。
そんな庄治より、役に立たないのが、娃子である。金ばかりかかるくせに、ろくでもないことばかり仕出かしてくれる。困ったものだ…。
そして、秋になり、再度娃子の手術となるのだが、院長は感心しきりだった。
「いやあ、オカアサン。こんなに早く来られるとは…」
手術をするには当然金が要る。前の手術から数か月で、もう、手術費用を貯めたのだ。院長としては、もう、今年は来ないだろうと思っていた。
だが、この形成手術、あまり、間隔が短くてもいけない。何しろ、手術中は血止めなどしない。流れっぱなし。なので、やりすぎれば今度は貧血を起こす。また、輸血をてまでやるような手術ではない。手術内容にもよるが、年に二回くらいがベストである。
だが、娃子は憂鬱だった。前回と違って、今回は片方だけとはいえ、その手順がわかっている。また、顔に何本もの注射を打たれるのである。これはもう、拷問でしかない。特に、手術日の待たされている時間の気分の悪いこと。いよいよ、手術が始まれば、覚悟していたとは言え、痛みは辛い。
だが、またしても、移植跡は、引き攣れてしまった。
「引き攣る
医者はこともなげに言ったが、考えてみればおかしな話である。片方はうまくいったのに、片方が引き攣る質とは…。
「ああ、引き攣る質」
絹枝はそれで納得していた。
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