第5話 お気に入りのマスカラ。―S―

 真っ赤な口紅が似合う女になりたいの、と恋人が言った。

 あんまりいい反応を見せない僕に、彼女は言った。


「                     」


 あんなねっちょりとした紅色より、そそられる女性の一部は。

 10年前に出会った、あの初恋から、ずっと。



 げ。

 席について、手に持っているトレイの上にラーメンが乗っているのに気が付いた。どうしてラーメンなんて胃もたれがするものを選んでしまったのだろう。今朝の練習は一也が考案した摩訶不思議なハチャメチャメニューで、結局、無駄に疲れて食欲を失っていしまったのだ。更に、夕練は秋良のメニューだ。こんな胃に重たいものを食べて、吐かないでいられるか自信がない。

 考え事をしながら食券を買ったのがよくなかった。

 さっきのHRで言われた担任の言葉を何度も反芻し、頭の真ん中で自問自答する。今日はずっとその繰り返しだ。

「ボーっとしてどうしたの?」

 レンゲを醤油のスープの中で遊ばせながら、やっぱり消えない担任の言葉を掘り下げていた。そんな奇妙な自分の姿を見て、秋良が声をかけてきた。

 秋良はトレイにカレーライスを乗せながら、自分の向かいに座る。

「学食のラーメンが不味いのはご存知じゃないの?」

「や、知ってるし…」

「わかってるよ」

 あはは、と声を出して笑う秋良。

「………」

 そう、ラーメンの味のせいで頭を抱えているわけではない。

 しかし秋良が来てくれたことで、頭が少しクリアになった。ずっと重い靄がこびり付いていたが、それがスッと消えた。気心が知れた幼馴染というのは、何よりも代えがたい宝だなぁと改めて思った。

「総ちゃんが考え事してるときの癖、わかるのって俺だけかもね」

「自分でもわかんねぇよ」

「わからないままでいいよ。だから言わない」

 秋良はスプーンをカレーのルーに刺し、お皿の中を優しくかきまぜた。カレーの甘辛いいい匂いが鼻をくすぐる。

「お前、余裕ね、カレーなんて。なに、もしかして今日の練習キツくないの?」

「キツいかどうかはわからないけど、距離は泳ぐよ」

「うげ」

 既に吐きそう。秋良の「泳ぐ」は、いつもの練習量の倍を意味している。今から今日の練習が憂鬱になった。

 吐いてもいいから少しでも腹にいれなければと、ハシを割った。無意識に選んだとはいえ、味噌ラーメンよりアッサリ醤油で幸いだ。

 目の前に座る秋良も黙々とカレーライスを口に運んでいる。

「あ」

 そういえば。

「楓は?」

 いつも一緒に昼飯を食べていた二人。部活もクラスも一緒なので、必然的に、共に行動をとる秋良と楓。一人で食堂に来るなんて珍しいなと、持ってきていたコップの水を一口飲み、喧嘩?と聞いてみた。

 秋良は呆れた顔でこちらを見た。

「ただ、眼科行っただけだよ」

 すぐそういうこと言うのバカっぽいよ、と、再びカレーを食べ始めた。

 普段はそこまでムキにならない秋良が、感情をむき出しにするのは珍しい。みんなでリレーを組んで全国大会を決めた瞬間も、ポカンとした表情でタイム掲示板を見ていた。

 昔からそうだった。

 みんなで一緒に分けて食べなさい、と違う種類のドーナツをもらったとき、全身で喜びドーナツに群がるのは一也と楓で、秋良はみんながドーナツを選び終わってから残ったものを静かに食べていた。

 同じような場面でいつも彼は一歩下がって、みんなより後から余ったものを選ぶ。しかしそれに不満や文句を言ったりしない。

 何にも熱くならずずっと波がなく、静かに落ち着いている。

 女だらけの家で育ったからそうなるのかなと自分の中で折り合いをつけてからは、秋良に対して変な疑問を抱かなくはなかったが。

 そんな秋良が感情を見せる。

 たった一人の人間にだけ。

「眼科ってどしたの?今朝は平気そうだったけど?」

「まつ毛が目に入って真っ赤だったから、ムリヤリ行かせた」

 むす、とカレーを食べ続ける秋良。こちらを向きもしない。あーおかしい。

「楓のまつ毛なっがいよなぁマスカラいらず!」

「それ、楓に言ったら刺されるよ」

「ちくんなよ?」

「知りません」

 喜怒哀楽の少ない子なのよね、と言ったのは春歌ねぇだったか立夏だったか。どちらにしても、随分と表情は豊かになったと思う。

 出会った頃の寂しそうで何かに怯えたあの坊やは、今はいない。

「秋良こそ、ニンジン残したら楓に言うぞ」

「うるさいな、後から食べるんだよ」

「ムリヤリ飲み込むんだろ、子供かっ!」

「自分だってパクチー食べれないくせに」

「パクチーよりニンジンの方が出番多いもんねー」

「………どっちが子供だよ」

 いつもの呆れ顔とため息。目を伏せ、まだ残るカレーに視線を落とす。お皿に残っているのは、オレンジ色のあの野菜。さぁ、どうやって食べるのやら。

 眉根を寄せて、不機嫌全開の秋良のその顔に、思わず笑う。

「笑うなよ」

 恥ずかしそうに目だけを自分の方へ向け、やや上目遣いで睨み付ける。

 本当に可愛らしい弟だ。

 あ、もし一也が立夏と結婚したら一也は本当に秋良の兄貴になるのか。それは少し羨ましい。

 と、そんな呑気なことを考えながら、さっき担任に渡された用紙の文字を再び思い出していた。


 進路説明会。


「加賀、用紙を出してないのお前だけだぞ。もう決まってるんだからさっさと出しなさい」


 決まってるのか。

 この道しかないのか。

 

 いつまでもずっと、同じままではいられないから。


 楓の伏せられた長いまつ毛は、あの時から変わらないのに。

 



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