第3話 1番目の男の子。―I―

 一人だけ、何も知らなかった。


 きっとみんなそれぞれの思いやりから、僕には何も。

 何も、なんにも。


 それでもいいやって思えるほど、薄情じゃない。

 それでもいっかって思えるほど、物分かりはよくないよ。


 仲間はずれ、そんな悲しい言葉は言わせないよ。


 

 合鍵。なんて甘美な響き。

 漸く希望の品をもらって、それが嬉しくて、毎日でも使いたくてしょうがなかった。今日も寄りたいなぁ、会えるかなぁ、練習中もそんなことばかり考えていた。それはもうしょうがない、健康的な普通の男子高生なんて、頭の中は淡いピンク色で占められているものだ。が、そんなこと楓には言えないけど。

 クタクタな身体に鞭打って、ふぅと息を吐きながら、持ち上げた右肘を曲げ、左手で曲げた箇所をぐいっと引いた。今日はプルの練習がきつかったので、腕に乳酸がたまりパンパンだった。

「朝練は朝練で鬼だったけど、夕練は夕練できちぃなぁ」

 隣のロッカーで荷物をカバンに入れている聡史郎に声をかけた。聡史郎もまた疲れ顔のまま、ふぅと大きな息を吐く。

「楓と秋良の組み合わせは同じ日にするのやめてー」

「ホントそう、このシステムマジきびぃ」

 我が水泳部は全道でもトップクラスの実績を誇る名門校で、部員数も多い。元々あちこちのスイミングクラブの選手クラスにいた者が集まった、なかなかの粒ぞろいだ。その中でも、楓、秋良、聡史郎と共に自分たちがいたスイミングクラブは全国区でレベルが高くて有名だった。名門校と言われる我が校の中でも、みんなそれぞれの種目でレギュラー争いを勝ち取っていた。

 我が校の水泳部は授業前の朝練と、授業後の夕練を行っていた。そしてメニューもまた、朝と夜の分を自分たちで作っていた。水泳部に専属のコーチはもちろんいるが、自分たちでメニューを作ることで理論的に水泳を学び考える力を養うよう、このルールが定着した。

 スイミングクラブにいたときのように、この練習は何の意味があるのか、どうすれば効果的に速くなるのか、全てコーチに丸投げではなく、自分で考えることが、今後の水泳人生には必要なのだという。

 聡史郎のように、高校卒業と同時に水泳を辞めると決めている者もいるけれど、何事も理論的に考える癖をつけることは社会人になってから強く求められるからいいのだと、聡史郎は言っていた。

 難しいことはわからないが、そんなわけで、水泳部のメニューはレギュラーの部員が順番に作っていく。その為、練習の辛さには差がある。もちろんメニュー作成者には狙いがあるわけなので、どの練習も楽にできるというわけではないが。

「わかりやすーくキツイのが楓で、地味ぃにキツイのが秋良ね」

「やめてほしいよねぇシーズンオフなのに」

 聡史郎と項垂れながら愚痴をこぼす。もちろん、楓や秋良には聞こえないよう、小声で。荷物を入れ終えた聡史郎は立ち上がり、肩にカバンを背負った。

「そういや、今日も行くの?」

 やや耳の近くで小さく言う聡史郎。チラリと秋良を一瞥した。

「まぁ一応寄ってみる、かな?」

「連絡しねぇの?」

「ラインとか好きじゃないんだってー」

「今時ラインしないとか、らしいっちゃーらしいな」

 聡史郎が肩を揺らして笑う。一応、口に手をあて見えにくくしてはいる。

「兄弟って似てるのな」

 ホントだねぇと返し、また、秋良を盗み見た。

「中身も外見も、ね」

「秋良を女装したらまんま、立夏ねぇだしな」

 うんうん、と頷く。よく見ると立夏の方がまつ毛が長かったり、女性らしい丸みはあるのだが、二人を並べたら、同じ系統の美形兄弟と言ったところだろう。立夏は美形でどちらかと言えば男顔だ。凛々しく涼しい目元が印象的の、整った美貌。一見クールで表情が乏しいのだが、時々見せる笑みが、本当に可愛らしい。

 あのギャップに幾多の男たちが狂い、彼女に挑んだことだろう。

 自分も長い長い長い片思いの末、漸く、合鍵という武器を持つことを許された。心を通わせたかと思えば遠くなり、遠くなったと思ったら、近くにきたり。周囲には「魔性の女」と呼ばれていた。

 一時期、立夏に本気な男が何人もいて、お前は何番目の男だろうな、と聡史郎に揶揄されたものだ。

 一番目だし!と言ってやれないところが痛い。

 それでも帰りの遅い彼女のために、シチューでも作って待ってようかなと、疲れていても、そんなことを考えてしまう。

「あ」

 そんなことを考えていると、スマホが鳴った。

 ごめん、と聡史郎に手刀を切って謝り、部室の扉を開けた。

 外はキィンの耳が痛むほど冷たく、空にはキラリといくつかの星が見えていた。寒い夜ほど、星がよく見える。

「―――あ、もしもし、俺。うん、ごめん、丁度終わったよー。え、今日は来るな?なんでなんで?………え?秋良が?」

 秋良の地獄耳が恐ろしいことと、自分のメールは滅多に返信しないくせに、弟からの密告メールは秒速で読み反応するのかと思うと、一応、自称「1番目の男」としては、悔しい。

「疲れてないからー!お願い、入れてください!行きたい!!」

 

 自分の叫び声が流星のごとく、彼女の気持ちに届くといい。

 好きとか嫌いとか、そういう単純な気持ちじゃなくて。

 

 いつか、一番目の男の子から、一番目の男になりたいと思う。

 



 

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