第2話 だから、追う。―S―
知っていたのに、気づかないふりをした。
聡明で繊細な君が、遠くへいってしまうと思ったから。
いつか、いつか。
その丸まった背中に、言ってあげたい。
だから、追う。
ツンと鼻に残る塩素の匂い。空が見える天窓。全身から感じる水の感覚と、キンキンに冴えた頭を溶かそうとしてくれる揺れる音。暗闇から見える月明り。
あの日から、ずっと忘れられないでいる。
温水とはいえずっと浸かってるとさすがに冷えるよなぁと、長めにシャワーを浴びた。勝手知ったる自分の家のプール。派手好きな父が、敷地内の離れと庭を潰し、20m×4コースの温水プールを建てた。もちろん、父の娯楽のためではなく、親の愛情から建てられた、息子へのプレゼントだ。運動嫌いな息子がずっと必死に練習している姿をみて、思わず作ってしまったのだと言う。100%純粋な親心だ。悪気はない。そのくらいわかっている。
それでもそんなことが普通の家庭ではありえないことで、嬉しい反面、自分がひどく弱く甘い存在であるように思えてしょうがなかった。
このプールを恥ずかしくなく使えるようになったのは、いつだったか。
多分、あいつらが遊びに来てからだ。
自分が他の友達と違う、その劣等感で刺々しくなっていた自分を受け入れてくれて、ずっと抱いてきたトラウマを、アッサリと「いいじゃん!」と笑ってくれた親友たち。
一也、秋良、楓。
この3人は家の者にも顔見知りで、プールの使用も、自分の許可なく自由に使えるようにした。自分が塾や予備校に通っている間でも、いつでも練習できるためだ。偶然3人が一緒になると騒ぎになって遊んでしまうが、その笑い声とプールから零れる灯りを見て、何度も安堵した。外出先から帰ってきてみんながいるとわかると、胸の中の凝り固まった何かが、ほぐれるように感じた。
笑い声はしなかったが、プールから見えた光。ああ、誰か練習しているのか、そう思った。あの日も、塾からの帰りで、プールにいる「誰か」に会いたくて、小走りで庭先を抜けた。心躍りながら、プールを覗きこんだ。
あの日から、ずっと。
シャワー室から出ると、美貴が顔を上げた。
「あ、お疲れ様ー」
美貴は驚くことなくロッカー内にある椅子に足を組んで座り、膝の上に雑誌を置いていた。どうやら待っていたらしい。
慌てることなく、一応礼儀として、髪をふいていたタオルを腰に巻いた。
「お前さ、いいんだけど、あいつらも自由に使ってるんだから、あんまりここに勝手に入るなよ」
「一応確認したよー?吉岡さんにも聞いたし、プールも覗いたもん」
吉岡さんとは、住み込みの家政婦さんだ。長くうちに勤めてくれている。
「ふぅん、あそー」
そうですぅと、美貴は立ち上がった。はい、どうぞ、とカゴに入れておいた新しいタオルを渡してくれた。
新しいタオルを受け取り、髪をガシガシと拭く。最近はずっと短髪なので、髪も一瞬で渇く。美貴は雑誌をカバンにもどし、化粧水とかある?とポーチを取り出した。
「あるよ。でもそっちの借りる。絶対保湿よさそう」
「とうぜっーん!」
美貴がポーチから化粧水と乳液を出し、へへへんっと自信満々に笑った。
このカラッとした太陽のような笑顔が、自分が彼女を好きになったキッカケだろう。未だにこっそり癒されていることは秘密だが、明るく笑う美貴に「サンキュ」と言い、化粧水を受け取った。
鏡の前に移動し、顔のスキンケアをしている後ろで、美貴の鼻歌が。ザンザンザンザンザンっと、何やら激しめの曲だが、どこかで聞いたことがある。CMソングだったかな、と予想した。
美貴と付き合うようになったのは、実は最近だ。出会いは中学生の頃、通っていた塾で隣同士になったときだった。第一印象は、ほっそりとした長い手足と、小顔なのに顔いっぱいに笑う、愛想のいい女の子、だった。
それから何度もデートを重ね、家にも遊びに来て、毎日連絡を取り合って、これで付き合っていないなんて嘘だろう、と一也に怒られたほど仲良く関係を築いていったが、実際に「付き合おう」と言って「いいよ」とOKをもらったのは、高校2年になってからだ。
スキンケアを終え、美貴、と美貴を呼びながら振り向く。美貴はコートを羽織り、終わったー?と、目じりを下げた。
「終わった。これありがと」
スキンケア道具を渡し、美貴の下がった目じりを見る。
こんなに真っ直ぐに美貴を見れるようになって、本当によかった、と心底そう思う。思春期の自分のバカ野郎、と、過去の自分に思わず叱責する。
化粧水や乳液を受け取るため手を伸ばした美貴の細い二の腕をつかみ、グッと自分の方に寄せた。美貴はバランスを崩し、うわっと小さく声を漏らした。そのまま自分の胸に落ちてくる美貴を抱き寄せ、ぎゅうっと力を込めた。
ああ、本当によかった。
小さいが確かなこんな幸せを、ゆっくりと噛みしめる。
「………なんだなんだ、また浮気か?」
「違います」
「欲求の不満というやつですか?」
「人のことなんだと思ってんだよ…」
だってぇと胸の中で非難を込めた声で訴えてくる美貴。そうですよね、当然ですね、と心の中ではその非難の声に納得していた。
「聡ちゃんの女たらしエピソードは山ほどあるからなぁ」
「………」
「ね?」
顔を上げ、ニンマリと笑う美貴。さっきまで癒されていた美貴の笑顔が、今度は少しだけ恐ろしく見えた。
「返す言葉もございません…」
でしょうね、と鼻息を吐く美貴の顔には呆れた様子が伺えた。過去、何かあるたび、こうやって誤魔化してきた。それがバレだ時、一也や秋良に迷惑をかけ、フォローしてもらった。
今でこそ美貴一筋だが。
「俺は一生お前に頭が上がらないんだろうな」
高校2年の冬。何かを覚悟した夜だった。
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