カタルシス
美依
第1話 旅の声。―A―
君を想うことが、僕の全てだったと思う。
気持ちを叶えることは願わないから、ただそっと。
そっと、聴かせて。
自分の人生の指針は、6歳の頃から変わらない。
きっとあの日、君に出会ってから、いかなる分岐点も迷うことなく選択されていた。それが何も報われない落とし穴への道だとしても、君に出会わないという選択はないから、僕の視線はただの一度も、間違ったことはない。
「―――秋良っ」
急に視界がガラリと揺れ、頭に衝撃を受けた。すぐに誰かに頭を叩かれたのだとわかり、身体を後ろにひねった。
「あー…総ちゃんか」
「おっすおっす」
自分の頭を叩いた犯人は、同じ水泳部の先輩で幼馴染である加賀聡史郎だった。聡史郎が横に並ぶ。
総史郎は学年が一つ年上の先輩だが、小さい頃からずっと同じスイミングスクールで一緒だったので、先輩という意識はあまりない。今更、敬語などでも話せない。
聡史郎はさみぃなぁと言いながら、質の良さそうなマフラーに顔を沈めた。お金持ちで優等生な聡史郎からは、普通の男子高校生とは異質な空気感を身にまとっていた。彼の持ち物に高価なものが多いこともあるが、彼自身の環境から身に付いた所作や振る舞いが、彼が一般的な高校生よりも一つ上質な人間であるかのように見せている。と言っても、聡史郎自身に自覚はなく、本人はいたって普通の感覚を好み、自分が他の人間と違うという隔たりを嫌う。
我が校は公立校では道内一の進学校だが、某私立の男子校に比べれば、進学先の大学のレベルも落ちる。聡史郎も中学校まではその某私立男子校に通っていたが、わざわざそのエスカレーターを降り、高校からこの公立校を受験した。理由は一つ。秋良たちと一緒に泳ぎたいから、という聡史郎の母が聞いたら怒り心頭で発狂するであろう、まさかの理由だった。
変わり者のお坊ちゃまではあるが、自分を持っていて頑固者だ。彼が一度言い出したらきかないことを家族が一番よく知っている。家族にもろくな相談をしないまま、彼はこの高校を受験したのだろう。
だから絶対に受かれよ、と無理難題を自分たちに言い放ったのはすごく昔のようだ。
「今日はメニュー担当、楓?」
ピチャピチャ。二人の歩く会話の隅に、水が跳ねる音がした。
校門から続くアスファルトの道はロードヒーティングで、冬でも凍らず雪も積もらない。しかしさすがにこの季節は、地面が水でぐちゃぐちゃしている。いつもは自転車で登校し、この道は自転車を押して歩いているところだが、怪我には十分注意しろと部長に言われ、昨日から、水泳部は自転車登校を禁止されている。
白い息を吐きながら、聡史郎は、あー多分そう、と目を細めた。
「やだね、朝から楓メニュー。吐くかも、俺」
「今は泳ぎこみ時期だからしょうがないっしょ」
あまりにも嫌そうな顔をする聡史郎に、呆れながら言う。
「俺でも吐くほど泳がすよ」
うげぇえと大袈裟に声をあげる聡史郎。バタフライを専門にしている聡史郎が体力強化メニューを苦手にしていてどうするのか。ここに楓がいなくてよかったと思った。
「でも朝からってキツくない?午前中の授業が気持ち悪くてさぁ…まぁ夕練がキツくても夕飯食えなくて辛いけど」
まだブツブツ不満を零す聡史郎に、俺はダッシュ練よりいいけど、と告げる。苦しいの質が違うのだ。ずっと一定のタイムを維持し泳ぎ続ける練習の方が、自分には合っている。だからどちらかというと、夏の大会前のダッシュ練の方が憂鬱だ。あぁこれも楓に聞かれたら怒られるだろうな、と一人で少し笑った。
部室までの道のりを聡史郎と並んで歩いていくと、足元がシャッシャッと音がした。雪が氷と水の間でシャーベット状になっている。校門前の道は多くの生徒が通るのでロードヒーティングだったが、温室プールに隣接している水泳部への細道には、そこまでの設備はない。あまりにも雪が積もった日は、部員で雪かきをするのだ。
転ばないようにしないとな、と思った矢先。力を入れた右足が、スルッと地面から逃げた。ふわぁっと身体が宙に浮いた。あ、ヤバっ、転ぶ。つんのめりかえりそうな体勢になり、慌てて踏ん張った。
同時に、グイッと肩をつかまれ持ち上げられた。
振り返ると、そこには一也が目を丸くして立っていた。
「セーフっ」
一也は目じりのシワいっぱいにくしゃっとした笑顔を向けた。
「これで怪我したら部長に怒られちゃうもんねぇー!」
朝から明るい彼の表情に、聡史郎もつられて笑う。
「一也ぁナイスキャッチ」
「驚かそうと思って静かに近づいてった甲斐あったねー!」
道理で気づかなかったわけだ。何をしようとしているんだ。
「おっはー」
改めて、一也は背中に力をいれて自分を立たせてくれた。今日も寒いねぇーと朗らかな笑顔から白い歯が見える。
松木一也。聡史郎と同じ年で、またも同じスイミングスクール出身で、幼馴染だ。
一也はとにかく優しい。平和を愛する穏やかな男だ。優柔不断という弱点があり、なかなか自分の希望を主張してはこないが、あらゆるグループの潤滑油を務めてきたことだろう。とにかく彼の周りには揉め事がない。ノリもよく笑いの沸点が低いのか、いつも笑ってくれる。若干、人見知り気味な自分が、今こうして聡史郎や楓と一緒にこの関係を続けてこられたのも、一也のおかげだろう。
そして、何よりもいつも一生懸命だ。成績こそ聡史郎や自分よりはるかに劣る一也だが、持前のガッツと根性で、死にそうになりながら、この高校に見事合格した。模擬試験の結果を知っている者からすると、奇跡としか言いようがない。
自分を立たせ安心した一也は、よかったなぁ怪我しなくてーとやっぱり優しい。それに続き、聡史郎も、朝からいい働きしますねぇと絡む。一見、話が合わなそうなこの二人だが、実は馬が合う。
高校受験のときなど、合格確実だった聡史郎は、受験勉強の時間の殆どを一也と共に過ごした。自分の勉強をしながら、一也の家庭教師をしていたのだ。「秋良と楓は多分大丈夫だけど、一番危ないのはお前だ」と、一也に猛勉強させ、偏差値を15以上あげさせた。
その後も、自分のワガママに付き合わせた責任はとるよ、と、一也が落ちこぼれないように、今でも一也の勉強をみているらしい。
二人は共に肩を並べながら歩きだし、部室に向かう。
その背中を見ながら、ふと、思う。
―――10年、か。
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