激戦、そして静寂
この天地の間に、二人。そういう感覚に、ザハールは陥っている。そして、その二人の背後には、それぞれ別の天地が続いていて、今自分たちが存在する場所は、人の至ることのない、まだ名前のない天地なのだと思った。
自であり、他であり、個であり、全であり、生であり、死。それが、自分。そして、自分に向かって疾駆してくるものもまた、同じもの。
まるで、鏡を覗き込むような。
交錯する。霧雨の一滴すら、静止して見えた。それなのに、激しく鉄が鳴り、馬は鼻息を荒げた。
馬首を返し、もう一度。
ラーレの片方の剣が伸びてくるが、それに応じればもう一方に生命を絶たれる。だから、涙の剣の長さを利用し、刹那、早く仕掛けるしかない。
二本の剣で、巧みに受け流される。どう受け流されるのか身体が知っているから、姿勢が崩れることはない。
また、すれ違った。
三度目。ふと、雨に濡れた土が匂った。
大精霊の翼が、激しく開いた。姿勢を低く、相手の馬の腹を下から突き上げるように。ラーレは、敵将の首を跳ね飛ばすとき、このようにする。
ほとんど目に止めることができぬほどの凄まじい斬撃。それを、馬の背と我が背をぴったり付けるほど身を逸らせて避けた。
剣が風を斬る音などない。風すら、斬られたことに気付かぬほどの鋭さ。
しかし、かわした。
そう思ったとき、兜と鎧の間、血が脈を打つ首筋から、わずかに血が噴き出した。痛みはない。もうあと少し身を逸らせるのが遅ければ、跳ね飛ばされていた。
もう一度、同じ構え。
これほどの武と対峙したことは、未だかつて無い。間違いなく、この天地で最も高められた武が、ここにある。そう思うと、なぜか口許が綻んだ。そして、その武を振るうのが、ふつうなら子の隣に横たわって歌を歌っているであろう、静かな眼の小柄な女であることが、悲しかった。
その歪んだ美しさが、迫ってくる。
それは、やはり、自分の姿だった。
朝も夜も、光も影も、黒も白も、同じなのだ。
大精霊の翼が、国家を守護する鉄壁の盾が、暴れる風となって生命を奪いにくる。
もう一度、下からすくい上げるような斬撃。剣筋を隠そうともしない。どの方向から斬撃が来るか分かったとしても、これに応じることのできる人間などいないのだ。だから、隠す必要もない。
雨と泥と生と死の中で、鉄が、また鳴った。刃を地に向けるようにして涙の剣を差し出し、決して止められぬ斬撃を止めた。そのまま、水が流れるようにして弾く。
ラーレの剣のうちの片方がその細い指から剥がれ、宙を求めて飛んだ。それを残し、戦いの女神が駆け去っていった。
天地は、あるべき姿に戻った。雨は静止することなく墜ち、馬蹄が入り乱れて響き、人の叫喚がある。
騎馬隊同士の、ぶつかり合い。この龍の首の原野のあちこちで、断末魔が上がる。雨を避ける木の陰を求めて飛ぶ鳥がこの戦場を見下ろしたとしても、バシュトー軍とラーレ軍のどちらが優勢なのか見定めることは叶わぬであろう。両軍はただ互いに互いの死を求め、武器を付け合っている。
漆黒の軍装の一騎が、槍を振り回し、思うさまに白銀の軍装の騎馬を赤く染めている。しかし、わずかな隙を縫って剣を脇下に差し入れられ、槍を取り落としたところを
白銀の軍装の者が、ほとんど馬を疾駆させたまま、通り過ぎた軌跡を証すようにバシュトー軍を屠っている。しかし、それも馬の脚を斬られて落馬したところを無数の蹄にかけられ、虫のように踏み潰された。
そのような光景が、何百、何千と繰り広げられた。やがて両軍は互いに離れ、蛇行する白と黒の龍になり、互いの尾を噛み合う。
バシュトー軍から千ほどが別れ、ラーレ軍の歩兵隊に突きかかってゆく。それに向かって猛烈な射撃が浴びせられるが、重い鎧兜を用いず、黒く染めた革鎧しか身に付けぬ軽騎兵を捉えることができない。
刀身の長い、独特の反りをもった
次の一隊に向かおうとしたとき、白銀の騎馬隊からも一隊が別れて発し、軽騎兵の横あいに突きかかる。軽騎兵は扇の開くようにして応じるが、次々と馬から落ちていく。
ラーレ軍の騎馬隊が、連弩を用いている。かつての創世の戦いでウラガーン軍が用いた、小型連発式の弩である。威力はそれほど出ず射程も短く、矢のひとつが致命傷になることは少ないが、何発も受ければもちろん人は死ぬし、そうでなくても騎兵を馬から落とすには十分である。
そういう光景を、ザハールは目を透かして見ている。
「いい」
と、首の傷に手当てを施そうとする者を拒み、なお戦場を凝視する。
あらゆる者が血を流し、死を晒し、決して奪ってはならぬものを奪い合っている。それは、この天地の間の世界の姿そのものであった。
しかし、ザハールは、信じている。世は、必ず動くと。人は、必ず変わると。
その証拠に、ラーレ軍の方で鐘が鳴り、にわかに離脱を始めた。ザハール軍もまた何が起きたのだと運動を緩め、密集して次なる動きに備えようとし始めた。
次の攻めは、無い。
つい先ほどまであれだけ激しく行われていた戦いが、止んだ。ラーレ軍が退き、バシュトー軍が停止し、原野にそれらの残した屍が無数に転がっているのが見えた。
何人死んだのか。今、それを数えることはできない。見上げると、灰色であった空の色が濃くなっている。雲の向こうにある陽が、傾きはじめているのだ。
静まり返った戦場には、何の音もない。ただ、ときおりソーリから吹いてくる風が鳴くだけだ。
ザハールは口の端を笑ませ、兜の緒を強く結び直した。首の傷の痛みはない。
距離を取って離れた白銀の軍から、一騎がゆっくりと進み出てくる。その傍らにはそれが何者であるのかを示す旗が立っていて、それもやがてあるところで止まり、ほんとうに一騎になった。
それに向かって弓を引く者はいない。今から何が起きるのか、誰もが知っているのだ。それを妨げることは、誰にもできない。そういう時代であった。
しかし、何を恐れたのか、誰かが手にしていた弓を引き、矢を放った。本人も無意識であったかもしれない。
一騎進み出てくる者は全くその調子を変えることなく、自らの身体すれすれを飛ぶ矢を無視した。
ザハールも、同じようにする。愛馬は先ほどまでの凄まじい疾駆など無かったかのように、落ち着いている。
途中まで旗を持つ者が付いてきて、止まった。両軍の間の空間に二つの旗が立ち、二人だけが互いに距離を縮めてゆく。
二度と覚めぬ眠りほども長く、ほんの一度瞬きをするほどに短く。そういう時間が、あった。それはふつうの時間とは違い、後ろへ後ろへと流れ去ってゆくようなものではなかった。ただそこにあり、静止するような類のものであった。
再び、天地の間は、静かになった。
色も、匂いも。何もかもが静止した、生と死の狭間のほんのひとときにのみ存在する世界。その世界の中で息をし、歩き、言葉を発することができるのは、二人しかいない。いや、あるいは、この世にあるすべてのいのちが、産まれ落ちたそのときから死ぬまでの間、ずっとここにいるのかもしれない。
霧のような雨の滴が、はっきりとしたものになった。ようやく、その姿をあらわしたらしい。ラーレは、それを何となく見上げている。この世界は、彼女にとっては、珍しくもなんともない平凡なものなのであろう。
それは、ザハールもまた。
馬が吐く息が五〇九年二月の空に溶けているのが見える。体の熱が騰がっている。昂っているのだ。
「長かった」
思わず、口にしていた。
「まだ、終わらぬ」
「いや、終えるのだ」
「──そうか」
なぜ、自らの軍を全て退げたのか、問おうと思ってやめた。この原野に幾つの屍を積んでも、人が求めるものは決して得られぬということが誰にでも分かるからだ。その無意味を重ねるより、こうして、互いに向き合っている方がいい。
ラーレは、片方の手にしか剣を握っていない。先ほどの一騎打ちのとき、ザハールが弾き飛ばした。それが、二人の間の地に突き立っている。
雨。なお強くなる。
二人が墜ちる同じ滴に眼をやったとき、にわかにこの天地の間に気が満ちた。
嘶き。同時に、馬腹を蹴った。
青毛の馬と葦毛の馬が、どちらも頭を下げ、突進の姿勢を取る。その上には、やはりそれぞれの馬と同じ色の装いの二人。
涙の剣を、低く構えた。
ラーレは、片方の剣しか握っていないが、双つを握るときと同じように構えている。
閃光。天で、雷が光を放った。それと同時に、二頭の馬が激しく身体をぶつけ合った。
どちらかがどちらかを討ったのか、あるいは互いに仕損じたのか、それを見守る人の目には、判然としない。馬同士があまりに激しくぶつかり合ったものだから、二人の将はそれぞれ馬の背から吹き飛ばされ、泥の上に転がっている。
兵らが固唾を飲んだとき、ほとんど同時に、二人は起き上がり、ゆっくりと立ち上がった。
馬を求めようとはしない。
互いの足を地に付けて、戦おうというつもりらしい。
ザハールが、口を開いた。
「拾え」
先ほどの打ち合いで吹き飛んだラーレの剣を、である。
「片方の翼だけでは、羽ばたけまい」
ラーレは、黙っている。ザハールがいちど剣を鞘に納めて気構えを解き、さらに促す。そうしてはじめて、自らも同じように剣を納め、歩きはじめた。不意打ちはせぬという意思表示である。
地に逆さまに突き立った彼女の片翼に、手をやる。そして、それを引き抜く。さきほど納めたもう一方の翼を再び雨に曝し、そこでザハールがゆっくりと、また涙の剣を抜いた。
二人の間の距離は、十歩。もうすぐ、互いの剣が互いのいのちに届く。
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