第十三章 白銀の光
龍の牙、大精霊の翼
矢は、雨よりも濃い。地を揺らして蛇行する龍のような騎馬隊を嘲笑いながら降っている。その死の雨を潜りながら、ザハールは己の生がまさにここにあるということを感じている。後方では、少なからぬ兵が矢に打たれて死んでいっている。
彼らの死に、意味はあるのか。
死に、意味を見出すことは、できるのか。
否。
ザハールは、思う。自らが置き去りにしてゆく死には、意味はない。その死を得た人の生にこそ、意味があるのだ。だから、自分たちはここにいる。
ラーレは、騎射をよくする。昔よりも、その技はさらに冴えているらしい。散開、集合を繰り返して的を与えぬように運動するザハールらに執拗に応じ、自らもまたその位置を変えている。
漆黒の騎馬隊は、ザハール。白銀の騎馬隊は、ラーレ。それぞれの将の意思に完全に同化し、運動をしている。
位置を変えずひたすら射撃を続けていたラーレ軍の歩兵が割れた。後方で、目まぐるしく動きながら騎射をしていた騎馬隊が、前面に出てくる。
ザハール軍には、歩兵はきわめて少ない。輜重隊などはもちろん
もう、補給をする必要はない。再び兵糧を口にするつもりもない。そういう決死の覚悟が、彼らの行動にも現れている。
ザハールは、バシュトーに加わってからは、細かな軍規でもって兵を縛ったり、緻密な用兵のための合図を徹底させたりはしていない。
彼の率いる軍の唯一の規律は、
「怯懦なるは、死。己の力の使い道を、見誤るな」
というものである。
雨ばかりを見上げて過ごすナシーヤ人ならともかく、遊牧を本来の姿とするバシュトー人には、細やかな軍規などよりもその方がよほど良いようであった。実際、この戦いにおいても、ザハールの率いる全てのバシュトー人が剽悍な叫びを上げながら、騎馬戦を得意とする彼ら特有の湾曲した長剣を構えている。
両軍の距離が、縮まった。わざわざザハールらが龍の首から原野に躍り出てから射撃をしたものだから、ラーレ軍からの射撃の効果は薄い。それでも、ザハール軍は数百が削られている。直属の漆黒の騎馬隊の損害は、皆無。
執拗に、執拗としか言いようのないほど絶え間なく、ラーレからの射撃がザハールを狙ってくる。その全てをザハールは弾き飛ばしているが、距離が縮まれば縮まるほど矢は鋭く、重くなり、ひとつ弾くだけで掌がもぎ取れそうになった。
そのラーレからの射撃が、止んだ。いや、止んだのではない。ザハールの周囲の者を狙い始めた。
すぐ隣を駆けていた副官が、ザハールの視界から消えた。横目で見ると、首のない彼の身体を乗せた馬が、少しずつ脚を緩めていた。凄まじい威力の矢である。
近付けば近付くほど、ラーレの矢は正確になっている。とても、人が避けられるようなものではない。
また、別の者が眉間に矢を受け、泥に落ちた。
かつて、創世の戦いの頃、ザハールはラーレに問うたことかある。
「お前は、射撃をよくするという」
「いかにも。ザハール殿」
「ザハール、でよい」
まだ、二人は若かった。ラーレは、十代であったろう。
「どれほどの技を持つのか、一人の武人として、とても興味がある。ぜひ、見せてはくれぬか」
「それには及びません」
ラーレは、即座に言った。
「止まった的を射ったところで、どうなるものでもありません」
ザハールには、その意味が分かった。実際の戦いにおいては相手は動いているから、演武のようにして今ここで的を据えて弓の腕前を見せたところで、何の意味もないということである。
こいつは本物だ、とザハールは思った。そうすると、さらに見てみたくなった。強いて乞うと、ラーレは面倒になったのか、応じた。
百歩離れた距離に、人に見立てた鎧を据え置く。それを、狙う。両軍の兵が、珍しがって見物に集まっている。
彼女が弓を引き絞った瞬間、ザハールは訝しがった。
──どこを、狙っている?
その射線は据え置いた鎧からわずかに外れていて、このまま撃てばかすりもせず空に吸い込まれてしまうだろう。
引き絞ってから放つまで、息ひとつ。速い。鋭い弦鳴りを立てて、矢が放たれた。
明け方に鳥の鳴くような声を上げて矢は飛んだが、やはり的にしていた鎧には
──外した?
ザハールがそう思った瞬間、その細めた目に恐るべきものが映った。
鎧の背後、さらに五十歩ほど。そこに生えている木──人々は、白く小さな花を付けることからそれを星屑の花と呼んでいる──の、風に頼りなく揺れる一枝にだけ咲いた花びらが、いきなり散った。
それを見て、ラーレは灰色の目をわずかに細めた。満足しているらしい。
「あれを、狙ったのか──」
百五十歩離れた距離の、風に揺れる木の枝。その一つにだけ咲く、白い小さな花たち。まだ咲き始めの季節だから、ほかの枝に花はない。今散った掌ほどの大きさのその一群れに矢が中って散ったのなら、狙ったと考えざるを得ない。
ラーレはザハールの驚嘆の呟きには答えず、そっと弓を下げ、一礼して去っていった。
もう二十年近く前のことを、思い出した。その間も、当時よりもさらなる冴えを見せる矢が、次々と直属の漆黒の騎馬隊の者を屠っている。
副官の一人として仕えている者も死んだ。創世の戦いの頃からの古参も、死んだ。これまでの戦いでも損害を出すことのきわめて少なかった漆黒の騎馬隊が、この天地の間で最強の兵が、凄まじい唸りを上げて飛んでくる矢をどうすることもできず、次々と死んでいっている。
ザハールの左右にあった者は、完全に消えた。十人以上の精鋭が、死んだ。バシュトー軍二万の総数に比べれば、どうということのない数である。しかし、それによって、ザハールの周囲は、空洞になった。
──そこを、狙う。
ザハールには、ラーレの行動が手に取るようにして分かる。
また、矢。それがどこから放たれるのか、認めることができた。ザハールが指示を与えずとも、漆黒の毛並みの愛馬は、そちらに馬首を向けた。
いる。旗が霧雨に翻る、まさにその場所に。
まるで、月と陽のように。光と影のように。花と鳥のように。風と雨のように。生と、死のように。対にあるようでいて、共にあるように。長く、互いに求め合うように。
芦毛の馬が、進み出てくる。雨に濡れて、やや黄味がかっている。
白銀の軍装。馬の大きさの割に、小柄である。それが、ついに、はっきりと姿を現した。
風。吹き付けているのではない。自ら跨る黒馬が、脚を速めたのだ。遠く向かい合う芦毛の馬もひとつ嘶き、鏡に映すようにした。
霧雨を、胸の奥深くに吸い込んだ。そして、それを声にして発した。
「我が名は、ザハール」
背後で、旗が翻る音がする。この旗を持つ者を狙って倒すことはなかったのだ、と思うと、小気味良いとすら感じる。
「黒い墜星、ザハール」
人は、自分をそう呼ぶ。しかし、今、この場においては、人にどう呼ばれるかということにはさして意味はない。
「長い戦いを、終えるため。人を、光へと導くため。今こそ龍となり、古きを、悪しきを打ち砕かん」
なにが善で、なにが悪なのか。そのようなことは、もはや問題ではない。それらを超えたところに、自分たちはいる。それは、分かっている。
多くの者が、死んだ。ジーン。ベアトリーシャ。サンス。ルスラン。敵方であった丞相ニコ。そしてサンラット。ペトロ。彼らの血の一滴が枯れ果てるその瞬間まで彼らの生はあり、それを思うと、彼らのことを
死には、何の意味もない。質量もない。死とは、ただ終わりなのだ。しかし、彼らの星を見上げ、物語を紡ぐ人には、生がある。
アナスターシャ。リシア。今、どうしているだろうか。アナスターシャは、今も自分の勝利を信じ、軟禁先でじっとそのときを待っているのだろうか。リシアは復活の巫女などといって担ぎ上げられているらしいが、危ない目には合っていないだろうか。
彼女らには、生がある。それを思う、己にも。
生なのだ。人の全てとは、生なのだ。ゆえに、戦う。戦うこととは、歪みである。ならば、これで最後にしなければならない。そのためになら、己は龍とならねばならない。それを阻むものを、暴れる風で打ち壊し、激しき雨で押し流すのだ。
ザハールの名乗りに、応えるものはない。ただ、馬上、立ち上がって、双つの剣を抜き放った。
それは、大精霊が翼を広げるのに似ていた。大精霊を見たことなどあるはずもないが、間違いなくこれがそうなのだろうと思った。
その剣が、すっと下がる。そうすると、獲物を見定めたときの猛禽のような印象を受けた。それは低く滑るように飛び、あっと言う間にいのちを終わらせる。
自分を、狙っている。漆黒の兜と鎧の隙間の、いのちの脈を。
大きく弧を描き、向かってくる。
戦いの女神。まさしく、そうだった。敵として向かい合ってはじめて、その美しさを知った。
──いざ。
心の中で、呼びかけた。ラーレも、同じように答えたような気がした。
灰色の光が、すぐそこに二つ。
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