未だ知らぬ明日

「スヴェート!」

 と、弾むように呼ばれるのにも、慣れてきた。はじめリシアは己が目にした惨劇と、己の知らぬ母の一面を見た不安から心を閉ざしかけていたかのようであったが、この頃は明るく振る舞うようになっている。

 スヴェートが彼女らが軟禁される館に入ってから、しばらく経っている。あれから、ラーレからは何も言ってこない。このまま精霊の巫女とその娘の世話役として世から忘れ去られてしまうのは耐え難いが、かといってどうすることもできない。

 マーリとリャビクを連れ、この館を飛び出すのは造作もない。だが、それをすれば、己のすべきことをほんとうに投げ出したことになると思い、毎日館の掃除をしたり飯を作ったりして過ごしている。

 つとめて堅実にそれらをこなすうち、リシアとは会話をするようになっていた。


「わたしの父上は、悪人ではありません。今に、疑いは晴れると信じています」

 とか、

「とても優しく、強い人です。わたしの父があの人でよかったと、心から思います」

 とか言うのには閉口した。なにせ、ザハールというのは今となっては国家の敵なのだ。これより一年以上前の戦い以来なりを潜めているが、またいつ戦いを仕掛けてくるか分からず、下手をすれば国家パトリアエの存亡に関わるようなことにならぬとも限らぬのだ。

「スヴェートの父様は、どんなお方?」

 ――このように無垢な者を置き去り、己のために戦いを起こすなど。

 リシアが澄んだ眼を向ければ向けるほど、スヴェートは唾棄したいような思いに駆られる。

 ――やはり、その辺の賊と変わらぬではないか。結局、己のことしか考えていない。

 リシアは、信じている。未だ、父が叛いたというのが何かの間違いであると。そして、その疑いは晴れ、戻ってくると。

 ――ザハールは、知らぬのだ。ここに、我が娘と妻があり、帰還と潔白の証明を信じていると。

 ザハールは、その妻と子が処刑されたものと思っている。だから、激昂して戦いを仕掛けてきた。生きていることは、パトリアエ国内でも極秘なのだ。

 彼女らがザハールのもとにゆけば、ザハールは戦いをやめてしまうかもしれぬ。どうやら、パトリアエにとってそれは都合が悪いらしい、とマーリなどは訳知り顔で分析をするが、スヴェートにとってはどうでもよいことである。

 ――大事なのは、この乱れに乱れた世の中で、人として失ってはならぬものを、持ち続けることだ。


「ねえ、どんなお方?」

 スヴェートの思考を、リシアの声が破った。

「さあな。どんな人間だったんだろうな」

「あなた、父様を知らないの?」

「俺の父は俺が幼い頃、死んだ。別の者が、俺を育てた」

「そう――」

 リシアの、母によく似た不思議な色が悲しげに揺れた。扉が開き、風が入ってきたらしい。

「リシア、ここでしたか」

 アナスターシャである。灯りを手にして、扉の隙間から様子を窺っている。

「アナスターシャ様。申し訳ございません」

「いいのです、スヴェート。あなたがリシアの話し相手になってくれて、ほんとうに嬉しいのです」

 スヴェートは、アナスターシャに対しては慇懃に接する。そうさせるような何かを、この精霊の巫女は持っている。そう言えば聞こえがよいが、スヴェートはどうもアナスターシャがようである。

 たとえば、ラーレ。たとえば、あの雨の軍の男。そして、戦場で一度だけまみえたザハール。あの時代を知っている者特有の何かを、アナスターシャも持っているように思えるのだ。それは、それぞれ異なる形で異なる色を持ち、異なる温度がある。しかし、根本のところにある、何かスヴェートの知らぬものが渦を巻いているように思え、どうしても一歩引いてしまう。

「あなたの父の話ですね」

 会話が、漏れ聞こえていたらしい。

「申し訳ありません。夜も更けているというのに、他愛もない話を」

「ううん、母様。わたしがスヴェートに頼んで、お話をしてもらっていたの」

 それを聞いてアナスターシャは、くすくすと笑い声を立てた。まるで、自分にも覚えがあるとでも言いたげに。

「スヴェート」

 アナスターシャは室内に身を滑らせ、若い二人に向かって自らも腰を下ろした。

「あなたの父の話を、聞きたいと思いますか」

「――いいえ。私には、もとより知らぬ人です。聞いたところで、そういう者がいたのだ、ということを知るのみです」

「そうですか。では、あなたにスヴェートと名を与えた人のことも?」

「亡き父や母がこの名を与えたのでは、ないのですか」

 アナスターシャは、スヴェートが誰が自分に名を与えたのかを知らぬのだと知り、あえて何も言うまいと薄く笑って立ち上がった。

「きっと、今のあなたには、どうでもよいことなのでしょう。だけど、いつか、あなたはそれを知る。自分が、誰にとっての光であるのかを」

「アナスターシャ様」

 寝室に向かおうとしているのか、スヴェートらがいる部屋から立ち去ろうとしたアナスターシャを、呼び止めた。なぜ呼び止めたのかは、分からない。

「あなたは、黒い墜星ザハールを、正しき者とほんとうに信じますか」

 アナスターシャは秋の木の実のように目を丸くし、やがてそれを細めて笑み、答えた。

「わたしが信じなければ、あの人はほんとうに悪人になってしまう」

「ザハールは、攻め寄せて来るでしょう。あなたを取り戻しに。そのために、この国土の全てが焼けても、あなたはそれを正しいことと思えますか」

 何がスヴェートをそうさせるのだろう。もしかすると、アナスターシャが持つ、あの時代を知る者が醸す特有の何かがそうさせるのかもしれぬ。

「正しいとか悪いとか、そういうことでは片付かぬものです。善のために悪を行う。そういうことも、あるのです」

 では、己一人のためにザハールがパトリアエに押しかけてきて報復を行っても、それを喜ぶということか。そうは問わないが、深く寄った眉間の皺がそれを語っている。

「あの人のもとには、サンラットがいる。ペトロもいる。そしてそれに続く、無数の人が。それは、この国を滅ぼすのには十分すぎる力となるでしょう」

 スヴェートは、呆れる思いだった。今ここで自分のように無力な者を恫喝して、何になると言うのか。

「宰相サヴェフは、とても賢明です。おおよそ、人のものとは思えぬほどの智慧をもって、国を影に陽に創ってきました。王ヴィールヒは、人の世のあれこれをいやがるようなところがあります。しかし、細めた目で、人の心の深いところを見抜くことができます」

 だから、と不思議な色の髪を揺らした。四十が近い歳であるとは思えぬほどみずみずしいそれを目にするのが憚られるような気がして、スヴェートは眼を逸らした。

「わたしの夫が怒り狂い、ほんとうに総力を結集して攻め寄せて来ればどうなるのか、彼らには分かるはずです。きっと、小さな戦いはあっても、この国とバシュトーがそのままぶつかり合うようなことは、避けるはずです」

 ほんとうに、そう思っているのか。だとしたら、とんでもないお人よしである。

 ラーレは、言った。ヴィールヒは、自分が屠ると。自分は、そのために存在すると。

 アナスターシャの処刑は、ヴィールヒをあえて攻めさせるためである。そうして彼を悪であると確定させ、正義の行使としてそれを葬る。

 だが、それ自体が何のためであるのか、スヴェートには分からない。マーリなどは一定の見解を持っているらしいが、難しい話を詰め込んでされると、飽きてしまうのだ。

「わたしも、眠ります。また明日、スヴェート」

 リシアは、今自分の母が言ったことも真実であると思っているらしい。思うからこそ、このようにして明るく笑い、スヴェートに明日を約束できるのだ。

 ――明日など、誰にも分からぬではないか。

 拠るべき処もない無頼であった者が集まり、国を倒してあらたに創った。そうかと思えば、創業の功臣が謀られて叛くよう仕向けられ、その妻子は殺されたと偽って誰にも知られず生かされている。それを、誰が言い当てることができたであろう。

 少なくとも、スヴェートには分からなかった。

 ラスノーの街をうろついていた頃、仲間と共にザンチノのもとを離れて中央を目指すことも、軍に入ることも、戦いでそのときの仲間のほとんどを失うことも。そして今、兵ですらなくなり、こうして館の雑務をしていることも。

 だから、彼は知らない。

 明日、何が起きるのか。

 そしてその先に続く己が、どうなってゆくのか。

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