ラーレとアナスターシャの夜

 それは、パシハーバルがラーレ軍にやってくる数日前のことであった。その日も、雨だった。


 アナスターシャは、軟禁されている館の壁に穿たれた窓から、それを見ていた。この国にとって、雨とはありふれたものである。

 昔、よく夢を見た。それはこの雨を浴びて舞う者であり、歌を歌う者であった。ときにヴィールヒであり夫のザハールであり、弟のヴィローシュカであり、もう記憶の向こう側で霞んでしまっているかつての想い人のニコであったりもした。

 その夢で降る雨は、ときおり、血であった。それが天から降り注ぎ、地を染めるのだ。

 彼女がまだ娘であった頃はそれはただの夢であったが、そのうちにこの大地にはほんとうに血の雨が降った。大精霊が守り、人に与えて棲まわせた地を濡らすものをもたらすのは、やはり龍だった。

 そして、自ら龍となって、導いた。そうして、あらたな国ができた。

 しかし、あらたな国でも、人と人は争い、奪い合った。あたらしい国になることによって浮かばれなくなった者もあり、そういう者は不満を募らせた。


 ある日、ヴィールヒがやって来た。自分と娘を殺しに来たのだと思った。しかしヴィールヒはそれをせず、短い言葉をいくつか起き、去った。何をしに来たのか、分からなかった。その翌朝、アナスターシャはリシアと共に別の場所に移され、それからずっと同じ場所で寝起きしている。

 外出は許されなかった。館の中には使用人が何人かいて、暮らしに困ることはなかった。使用人どもは寡黙だが、ある日、自分が処刑されたという噂をしているのを聴いた。どうやら使用人どもは、自分がアナスターシャであるのを知らぬらしい。

 処刑。誰かが、身代わりになって自分の代わりに。何のためか、分からない。しかし、ヴィールヒは、命の使い道と言った。自分の命の使い道とは何なのだろうと思った。

 ザハールは、激昂するだろう。後も先もなく、この国を滅ぼしに来るだろう。なぜなら、自分とリシアのいないパトリアエになど、ザハールにとっては何の意味もないからだ。そして、ザハールとは、それができうる力を持っている。


 同じ毎日が、一年以上も続いた。

 ザハールとバシュトーの連合軍をラーレ軍が退けたというような噂も耳にした。ザハールは、死んでいない。それを聞いて、ほっとした。だが、そうであるなら、まだ戦いは終わらぬということである。

 左腕が、わけもなく疼く。かつて毒を受けたときザハールに肉を抉り出されて以来、思うように動かぬのだ。だが、それすらも、自分とザハールを見えない何かが繋いでいることの証であるように思えて、嬉しかった。

 左腕の疼きを感じる度、ザハールとシトに会いたいという思いと、ザハールが死ぬかパトリアエが滅ぶかしない限り戦いは終わらぬのだという思いが身体を満たした。それを、リシアが寝静まったあと、自らの秘所に差し入れて鋭い刺激に変えることで抑えようとした。


 そして、また雨の多い季節になった。

 いつもと違う沓音がして、ふと扉に眼を上げた。

 そっと開いたそこから、とても懐かしい顔が覗いた。

「──久しぶりね」

「変わらないのね」

「あなたも」

 ラーレだった。剣も佩かず、平服であった。

「出て」

 ここから。アナスターシャは、訝しい顔をした。

「あなたは、あるべきところにあるべき」

 灰色の瞳を軽く瞬かせ、ラーレは言った。なぜ、パトリアエ軍最強の呼び声も高いラーレが、平服でわざわざ訪ねてきてそのようなことを言うのか。

「わたしをここから逃がすとでも?」

 はじめて会ったときのことを思い出した。まだ十代であったラーレは鋭い刃物のような印象であったが、まるで人形のようで、そして、とても悲しげであった。

 その頃と同じ、気だるげな色の瞳ではあるが、やや警戒の色を見せるアナスターシャに対して眉を下げる様は、ただの美しい女だった。

「――その通り」

 ラーレの言葉に、アナスターシャは、おや、と思った。自分を連れ出すというような内容のことではない。やんわりと力を抜いて立つ姿に、かつてのような鋭さが宿っているのだ。

「わたしは、あなたをここから連れ出す。そして、ザハールのもとへ送り届ける」

「どうして、あなたが?」

「見せなければならぬから。人が、どうあるべきかを」

「誰に」

 言う必要はないということか、ラーレは何も言わなかった。

「わたしは、ザハールと戦った。敵として向かい合えば、恐ろしい相手であった。わたしの敷いた必勝の策すらもすり抜け、彼は命を永らえた。それを、ほんとうに恐ろしいと思った」

「あの人の剣は、いつも正しいことのために振るわれる。そうであるにもかかわらずそれを陥れ、贄にするような歪んだ世に屈することはありません」

「わたしが恐ろしいと思ったのは、彼自身のことではない。彼ともし剣を向け合えば、その首を刎ねるのは難しくない。やるか、やられるかの話になるからだ」

 自分の知らないザハールを、この女は知っている。それが、アナスターシャには悔しかった。ザハールがどのような顔で戦場を駆け、どのようにして剣を振るうのか、ラーレは知っているのだ。なぜか、剣を交えるというのが男女のことのように思えて、腹立たしかった。

「わたしが恐ろしいと思ったのは」

 ラーレには、そのような女心は分からぬらしい。

「彼と共にバシュトー一国が立ち上がり、それに続いてその民までも全て兵となり、さらに大軍師ペトロまでもがパトリアエよりも彼を選んだことだ」

 黒い墜星ザハールの曳く尾。戦場を先頭で駆ける彼の後ろには、何千、何万という人が続いているのだ。それらとパトリアエがぶつかり合えば、文字通り国と国の存亡をかけた戦いになるということだ。

「またこの大地に血が流れ、人が人を殺め、奪うのかと。そう思うと、恐ろしかった。ザハールは、わたしにそれを実感させた」

「あなたは、何のためにそれを恐れるの?あなた自身のため?」

 この物言いだ、とラーレは思った。この物言いとこの声の色。これが、ウラガーンの頃何万という人を惹き付けた。精霊の巫女に人は続いたのではない。彼女個人に、人は続いたのだ。そのようなことがあるとラーレは知らなかった。ただ命じられるままに剣を取り、命じられるままに横になって脚を開くことしかしてこなかったのだ。そのラーレは、アナスターシャを知ったとき、畏れた。そして今、ザハールに対して同じ畏れを抱いている。

 人があるべき姿を求め、一斉に流れてゆく。それは、果たして人にあるべき姿をもたらすのだろうか。そういう思いが、ずっとある。考えても答えなど分かるはずもなく、下らぬことだ、といつも思考を閉じてしまう。

 だが、自分の目で見たものは違う。それは間違いなく存在する確かなものである。自分が握る剣も、それをどう振るってきたかも、確かなものとしてラーレの中にある。それが強くなればなるほど、ラーレはそれを置き去りにして駆け去ってしまおうとする自分がいるのに気付く。

 しかし、アナスターシャの瞳は、それを逃そうとはしない。

「あなたと話していても、あなたが一体なんのために恐れるのか、まるで分からない。あなたには、恐れるべきものなど何もないと言いたげに見える」

 そんなことはない、と言いそうになり、やめた。その代わりに、静かに、とても静かに言葉を吐いた。

「光のため」

「光――」

 アナスターシャは、リシアが眠っているであろう部屋の方にちらりと目をやった。やはり、人とは、誰かの光なのだ。

「アナスターシャ」

 ラーレの言葉が、強くなる。

「来い。わたしと共に。あなたを、南へと連れてゆく。あなたはザハールと共にあらねばならない。その子シトとも。あなたたちは、共にあらねばならない」

「なぜ、あなたが――」

「あなたもまた、人の光だからだ」

 そのままラーレはアナスターシャの手を強く引き、隣の部屋の扉を開き、その物音で薄目を開けたリシアの前に立った。

「眠っているところ悪いが、身支度をしろ。お前の母と共に、ここを出る」

「出て、どこへ――?」

 リシアが半分眠った眼をこすった。不思議と、警戒心は持たなかったらしい。ラーレが女だからか、それともラーレの持つ別のものがそうさせるのか。


 夜の闇の中、誰にも見られることなく、三人は館を出た。

 そして、石畳の街路をゆき、西門のあたりに停められていた馬車に。

「あなた達は、南へゆけ。そして、ザハールのもとへ」

「あなたは、わたし達を助けてくれるのですか?」

 リシアの穢れない瞳が、ラーレを射った。ラーレはそれを避けるようにして眼を背け、アナスターシャに向かって言った。

「わたしは、戦う。わたしの光のため。ザハールが正しきことのために剣を振るうなら、わたしはわたしの光のために戦う。ザハールに、伝えろ。小細工はせぬ。真正面から来いと。互いに剣を向け合い、どちらが生き、どちらが死ぬかを決めようと。わたしは、国家のために尽くす。あなたも、あなたが尽くすべきもののために尽くせと」

「――伝えます」

 アナスターシャは、思った。ラーレは、ほんとうに戦う気なのだと。

 ザハールを動揺させたり怒り狂わせたりしてその力を殺ぐことをせず、この国で最高の戦士である黒い墜星ザハールとして向かって来させ、その上で勝つつもりなのだと。そのために、自分は解放されるのだと。それが、国家のため。単身、ひそかにやって来たのは、おそらくサヴェフにすらこのことを秘匿するため。黒い墜星を謀って殺した国ではなく、正々堂々と向かわせることでザハールをほんとうに叛乱者にして、それに勝利することで正義を示す。

 はっきり言って、狂っている。歪んでいるとかそういうことではない。この女は、人ではない。そして、人であろうとしている。悲しみ。悔い。それが、ありありと滲み出ている。そして、希望。それを感じた。

 これまで、我が夫の勝利を疑ったことなどなかった。だが、このときはじめて、我が夫がこの女の剣にかけられる姿を想像した。


 ラーレとアナスターシャの夜は、このような具合であった。

 しかし、アナスターシャのその直感的な恐怖は、杞憂に終わる。

 先に書いたとおり、ラーレが去ったあと、若い一団がやってきて、馬車を護衛して街を出た。そして次の夜には黒い影の一団に襲われ、その身柄を捕らえられてしまった。

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