頬の色
アナスターシャやイリヤのことを、ラーレは語る。かつて、ウラガーンとして王家の軍と戦ったとき、アナスターシャがその旗頭であったこと。ラーレがウラガーンに加わった頃にはイリヤは既に諜報部隊を率いていて、暗い仕事を背負っていたこと。
「彼らには、想う人があった」
と、ラーレはスヴェートとパシハーバルに向かって言う。他にもスヴェート隊の者はいるが、彼女はこの二人にだけ向かって話すようだった。
「アナスターシャは、ウラガーンとして暮らす間に、ザハールを知った。彼女とザハールは、互いに惹かれあった」
それは、戦場での美談として誰でも知っている。娯楽の少ない時代だから、人々はこぞって戦場の英雄譚やそこで咲く恋愛の話題などを語り伝える。当然、スヴェートもパシハーバルもそのことを知っている。
「だが、それは、造られたものだった」
ラーレがどの時点でそれを知ったのか、分からぬ。恬淡としているようでいて人の心の機微に敏感なこの女は、誰かからそのことを聞き知ったか、あるいはサヴェフなどと話すうちに確信するに至ったか。
「人の心の内にすら手を入れて。そうしてでも、わたしたちは造らねばならなかった」
国を。この天と地の狭間にある全ての人が、それを求めていた。
「しかし、その確かなもののために造られた虚構の中にもまた、確かなものはある。どのようないきさつであったにしろ、あの二人は互いを求め、想い合っていたのだ。わたしは、この世にあってそれほど尊いことはないと思っている」
人が、人を想う。己のためではなく、己を知り己の姿をその瞳に映す他者のために生きる。それが最も尊いことであると彼女は言う。
「そして、イリヤという男もまた、ある女を想っていた」
同じ十聖将の一人、ベアトリーシャ。去年の戦いでも効果を発揮した工兵隊の祖として知られるが、あまりその人となりについて語られることはない。
彼らもまた、惹かれ合い、求め合っていた。
「思えば、ウラガーンとは、人として何か大きなものが欠けたような者ばかりが集まっていた。だからこそ、王家の軍を打ち倒す力を持てたのかもしれぬ」
欠けているからこそ、求める。その心の働きが五になり十になり千になり万となったのがウラガーンであると彼女は言う。
「イリヤもベアトリーシャも、ひどく欠けた者だった。ゆえに、いっそう強く互いを求めた」
そして、自分も。ラーレの頬に浮かぶ苦笑には、そういう味が滲んでいる。
「わたしは、思う」
誰も、声を発する者はない。ただじっとラーレの語るところを聴いている。
「人とは、二人あれば互いに殺し合うか愛し合うかしかないのだと」
それなら、殺し合わず、愛し合う方がいい。しかし、人の持つ自然のはたらきとしてそれをする以上、本来、人にはそれを選ぶことはできぬはずである。
「
スヴェートらには、ラーレが何を言っているのか分からない。おそらく、ラーレ自身にもよく分からぬのだろう。話の前後がおおよそ見えない。つくづく、話すのが下手な女である。
だが、それでも、なおラーレは舌を緩やかに回し続ける。
「そのために、個が個として勝手に愛し、勝手に憎むことは許されない。宰相サヴェフが、おそらくわたしなどが加わるずっと前から思い定めていたのは、そのこと。全てのことが、そこに通じている」
王家の軍にどう立ち向かうかというとき、サヴェフは既に国が成ったあとのことを考えていた。人がどのように考え、行動するのか、ずっと思考を巡らせていた。人と人が想い合うというごく自然なことすら、目的のために造り出して。ラーレは、彼女の言葉の通り、確信している。自分がウラガーンに引き入れられたのも、そうなるような必然をサヴェフが作り出したためであると。そしてそれは王家の軍に立ち向かうためではなく、そのあとのことのためであり、今がその時であると。
かつての同志はおおむね歳が近く、ラーレがやや離れて最も歳下であるが、それにしてもたまにグロードゥカに来て目にするたび、はっとするほどサヴェフは老けている。それほど、夜もろくに眠らず、それこそ二十年に渡ってものを考え続けているのだろう。
ラーレには、そうまでして求めるべきものはない。ただ彼女の生には戦いがあり、国家があるのみである。
無論、信じるべき者とも多く出会い、彼女は変わった。彼女が出会った人々は、かつてトゥルケン精霊の軍の将校であった頃には知らなかったことを知っており、人と人が交わることとは、自ら剣を取って戦うこととは何かを彼女に言葉ではないもので教えた。
人を想ったこともある。子も設けた。だが、その全てが、流れる星のようにして彼女を通り過ぎて行った。彼女が立ち止まったまま見上げるのは死したルスランでありベアトリーシャでありサンスでありジーンであり、自らの剣で殺めた幾千の敵であった。
敵。目を血走らせ、あれがラーレだ、討て、などと声を枯らして指差す者も、敵。その声に応じて槍を付けようと群がり集まってくるのも、敵。まるで水を掬うような柔らかさで自分の剣にかかり、命を散らせるのもまた、敵。そしてその全てが、人。
それは、誰かの光。
「人が、人から奪ってはならぬものとは、何なのだろうな」
ラーレのその静かな吐息と共にこぼれる言葉を聴いたパシハーバルの頭の中には、これまで受けたあらゆる教育によって根付いたさまざまなものが去来した。土地。財産。生命。安寧。誇り。志。
「わたしは、そのために戦う。そのためなら、人を殺めることができる」
たしかに、土地とそれがもたらす実りのために人と人は奪い合う。己が利のために、人と人は殺し合う。自らの生命を守るため、それを苛むものに立ち向かう。揺るぎない安寧のためなら、いのちの質量など数えるに値しない。誇りを傷つけられれば、それは死よりも辛いことである。志を立てることで、人は人から何かを奪っても平気でいられる。
そういうことを言っているのかとパシハーバルは思った。思った瞬間、人とは何と汚らしい生き物なのだと思った。そうすると、この場にいることで自分までも汚されてしまうような気がして、耐えられなくなった。それが、言葉にあらわれた。
「恐れ入りますが、私はここで失礼致します」
おそらく、自分の眉は吊り上がっているのだろう。スヴェートが、びっくりしたような顔で覗き込んでいる。
「何を言っているんだ、パシハーバル」
──阿呆面。
正直、この無知で下品な賊あがりの指揮官のもとになぜ自分がいるのか分からない。このような汚らわしい生き物どもと同じ場にいるくらいなら、首を刎ねられた方がましだと思った。そう思うと、トゥルケン候の前で無礼を働くことを恐れる気持ちはなくなった。
「私は、中央軍に戻ります。あなたの言葉を聞いて失望しました、ラーレ候。この無礼の責めは、中央軍に戻ってから我が首でもって償います。だが、それをするのは私の意思であり、間違ってもいまここであなたに斬られることはしない。ゆえに、このまま私をお帰しください。今回の任務のことが悟られてはならぬことなのであれば、それは決して口外はせぬと大精霊に誓います」
そのまま、パシハーバルはラーレの前を去った。
「申し訳ありません。出会ったばかりで、俺もどう接してよいものか」
スヴェートが、肩を落とす。ラーレは力なく口の端を持ち上げ、
「よい。思うようにさせる。咎め立てをせぬよう、わたしから中央軍には言っておく」
と言った。そしてまた星を見上げるような眼になり、続けた。
「わたしは、光のため。人が抱く光のためにこそ、戦う。それを守ることができるのは、ただひとつ、国であると思うから、国に尽くす。宰相サヴェフがわたしの思い及ばぬところにまで思考を巡らせ、それをするなら、わたしはわたしの光を守るためそれを助ける」
「そのために、ザハールを討つ?」
それなのに、その妻と子を逃がそうとした。国境を越えた先である者に引き渡すということは、バシュトーにその身柄を送るということである。矛盾している。その表情を見て取ったのか、ラーレはさらに言葉を継いだ。
「そうだ。彼女は、ザハールの光だからだ。それを奪うことは、何者にもできない」
「では、ザハールを討てば、あなたはアナスターシャの光を奪うことになる」
それについては、ラーレは答えない。答えることができないのか、答えたくないのか。
しばらく、火が揺れる音だけが室内に満ちていた。
やがて、ぽつりとマーリが口を開いた。
「それを、なぜ、我々――いや、スヴェートに?」
ラーレは眉を少し下げ、剣を手に石床に敷いた莚から尻を上げた。
話は終わりということである。
パシハーバルは、去った。もし、彼がこの話を最後まで聴いていれば、彼は去ることはなかったのかもしれない。そうすれば、このあとの彼の人格形成もまた別のものになっていたのかもしれない。ありきたりなことを言えば、歴史にもしもは無い。だから、それを言っても仕様のないことである。
ただ史記には、退室するときにスヴェートがちらりと横目で見たラーレの頬の色が、とても悲しそうであったと記されている。
ラーレは、語った。そのことを描いた続きに、彼女のことを、もう少し書く。これより数日前のことである。
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