怒りの軍

 滞陣は、なおも続く。

 その間にジェリーゾらの一党は、間諜として兵とは別の訓練を受けている。

 彼らは、パトリアエバシュトーの混血であることが多かった。そういう者は軍の人足として使役されたりすることが多かった──たとえばラーレ軍の輜重隊にあるスヴェートも混血であり、はじめは輜重を押したり曳いたりする人足として軍に入った──ため、ペトロの目論見の通り、さあらぬ体で敵軍の中に侵入することも自然に為しやすい。


 無論ザハールやサンラットの軍にも斥候や諜報部隊はある。雨の軍やイリヤの軍のようにはゆかぬが、ペトロはそれらに間諜としての働きやそれに必要な修練の教育を担当させ、ジェリーゾら混血の若者の部隊を育てている。

 だが、ザハールらが保有する間諜部隊は、進軍中の敵の動きをひそかに探るというようなことはしていても、敵の中に入って流言を流すとか騒ぎを起こして陣を混乱させるとか、ましてや将のそばにまで接近してそれを屠るとかいうようなことをしたことがない。だから、彼らが教育を施せるのは、ほんとうの基礎になる部分だけである。

 わずか数ヶ月でラーレに接近してそれを屠り、離脱して戻ってくるというようなことができるようになるとは思えない。しかし、それを狙うのが、最も早い。それに、この滞陣は、どのみち長引く。ペトロは、そう踏んでいた。ラーレは依然何かを待っているような様子であるが、動く気配はない。イリヤが率いていると思われる雨の軍も、たとえば逆にこちらの陣に潜入しているようなこともなさそうである。

 今のうちである。開拓も、順調に進んでいる。シトにそう命じたように、耕作をする中で素質のある者を見つけ、畑一枚で一組であったものを統合し、組織を作っていった。交代で調練をすれば、南北混交の軍ができあがる。


 そのようなとき、恐るべき知らせがもたらされた。中央に入れていた間諜は、やはり露見しやすく、見つかれば即座に殺されてしまうから、ペトロはむしろ情報の仕入れやすい周辺部に間諜を入れるようになっていた。その一人が大慌てで駆け戻り、報告をした。

 それを聞いたペトロは、頭の芯が煮えたぎり、背骨が凍るのを感じた。

 アナスターシャの処刑の報せが、この時点ではじめてもたらされたのである。もう、三ヶ月も前のことである。

 ザハールに言うべきかどうか、迷った。言えば、ザハールは激昂し、問答無用で北上を開始してラーレ軍に正面から突き掛かり、それを打ち破ってグロードゥカになだれ込もうとするだろう。

 だが、言わぬまま過ごすというようなことはできないだろう。ペトロが言わぬまでも、いずれ噂というのは伝わってくる。

 まさか、そこまでするとは。サヴェフは、何が何でもザハールを戦いの場に引きずり出したいのだろう。黒い墜星と世にあだ名されていたザハールは、戦後の褒賞に不満を立てて妻子も捨てて叛乱を起こしたということになっている。そのため人質として捕らえていた妻子の処刑は民にとっては当然のことであり、そして精霊の巫女としてかつてウラガーンの旗の下に立って人々を導いたアナスターシャの死の悲しみは、それを捨てたザハールへの怒りに変わる。

 ザハールは、全てのパトリアエの民の敵になった。そう仕立て上げられた。そしてその巨悪をパトリアエは滅ぼし、国は一つになる。

 サヴェフの目論見は、いよいよ最終局面に差し掛かっているらしい。

 実際、十五年も治まらなかった各地での小規模な反乱は、立ち止んでいる。あちこちから地方軍が、在野の有志が続々と中央に入り、許されざる悪を討つために結託している。


 小規模な反乱や治安の乱れなど、今に始まったことではない。このナシーヤ地方においては、数百年の昔から変わらぬことである。しかし、サヴェフは、それを看過しないつもりであるらしい。反乱が起きたところで鎮圧するのは容易いが、サヴェフが重視するのは反乱をする人の心の働きなのであろう。

 行為としての反乱を鎮圧したところで、それをする人の心の中までは変えられぬ。人から奪わぬ国を目指したところで、人は必ず不満を募らせる。

 人には、奪うべき対象が必要なのだ。

 それに名を与えて、敵と言う。

 ザハールという最も高名で人気のある英雄を墜としめ、そのために精霊の巫女たるアナスターシャを葬ることで、全ての民に共通の敵を与えた。

 たとえば、中央と辺境部の格差。それが生む富める者と飢える者。そしてそれが凝り固まって生じる怒りと悲しみと憎しみ。国を最も苛むものから国を救うのは、巨悪として国を脅かす敵である。

 それをサヴェフは作り、ペトロはそのことか許すことができない。


 ザハールも、ラーレも死ぬ必要はない。死ぬべきではない。かつての戦いで死ぬべくして死んだ者など、一人もいない。たとえ、それが国の安寧のためであっても、人ひとりの生命をそのために使うことは、あってはならないのだ。ましてや、それが己ではない他者ならば。

 ペトロの知る者のうち、かつての戦いの中で死んだ者は誰も、自らその生命を燃焼させた。当人がそう思っていただけで、誰かによってそうなるよう仕向けられたと言うこともできる。

 それを阻むため、今、ペトロはジェリーゾを間諜、いや、に仕立て上げようとしていた。

 その矛盾。もはや、それについて何を言っても始まるまい。このままパトリアエの礎として歴史に名を残す罪人として処断されるか、勝って奪われぬために奪うという負の連環を断ち切るかのどちらかである。


 実際、ジェリーゾはよくやっている。剣の扱いについては申し分ない。あとは、心の中から外に向かって溢れ出ている、この乱れた世をどうにかしてやろうという気概を静かに抑え込めればいい。

 ラーレの軍がなぜ一斉に攻めて来ぬのか、この時点になって分かった。アナスターシャの死の報せがザハールのもとに届くのを待っていたのだ。

 どのみち、今のバシュトー軍の情報網というのは弱い。なにしろ、アナスターシャの死すら、世の噂としてしか伝わって来ぬのだ。ここで、ひとつの国家と対等に渡り合えるほどの間諜組織を作っておくことが必要である。そのことを、大局的な視点とは別の部分で見ていた。


 ──そのときまで、この軍があれば、だ。

 ペトロは、自分が頭の中で考えた理想にしか縋るところがないことを自覚している。このままいけばザハールは激昂して軍を発し、パトリアエに正面から突撃し、そして待ち構えていたラーレに討ち取られて死ぬだろう。

 ジェリーゾをひそかにラーレの軍の中央にまで入れ、一剣でもってそれを屠るような無謀は、もはや為し得ない。それも、分かっている。間に合わぬのだ。だから、後々のことを考え、それこそ彼の思うようにまだこれから先もザハールとサンラットの軍がこの地上に存在し続けたその先の可能性のためであると認識し直すことにした。


 ノーミル暦五〇六年三月、黒い龍の旗が動く。それは疾風の、あるいは墜星のようであった。

 天を裂き地に牙を突き立て、身体をのたうたせながら咆哮した。それは、怒りであった。悲しみでもあった。

 理不尽。奪われてはならぬものを、奪われた。どれだけ望もうとも、取り戻すことは叶わぬ。それならば、ただ腰の剣を振るい、血を撒き散らし、ラーレの首を飛ばし、その向こうにいるサヴェフを、王として座すヴィールヒを、理不尽と戦うため産まれた龍の全てを殺しつくす以外にない。

 その妻アナスターシャの処刑の報せを耳にしたザハールは、制止するサンラットを振り切るようにして自軍を発した。結局サンラットも捨て置くわけにはゆかず、三万近い軍が北上を開始した。

 せっかく拓いた畑も、囲いの中の家畜も、若き日に立てた志も、何もかもを置き去りにするようにして。

 無論、ペトロも従軍した。シトも、一隊を率いる将として軍装に包まれている。だが、ジェリーゾたちは、依然変わらず間諜としての訓練を続けるよう命じられていた。

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