第六章 時継の光
閑話休題、筆者は語る
ノーミル暦五〇六年の春はやたらと雨が多かったと史記は言う。今でこそ雨の国と言われるこの地方であるが、ノーミル暦が浅い頃はまだそうでもなかった。それがパトリアエ王国暦に改められる頃になると格段に雨が増えたと言うから、のちの世の者が地にある人の叫びに天が応じたとかこの時代が呼んだ龍が雨をもたらしたとかいうように語るのも自然なことと言えよう。
雨ならば、当然、夜や曇天と同じく、天に陽はない。光がないからこそ、人は光を求める。
史記はそう言ってスヴェートに有利なように語るが、筆者は必ずしもそうではないと考える。そもそも、ルスランとサンラットの妹ライラの子である混血のスヴェートが天の誘いに応じて中央に赴き、いきなり将となるようなことは普通に考えて有り得ない。
いかにスヴェートが人に珍しがられる異相を持っていたとしても、混血は混血である。その幕僚どもも十代の若さでいきなり才能を発揮し尽くしていたともどうしても思えない。
無理があってはならない。もしこの長大な物語が史記の原典の単なる要約なのであれば、他にもっと素晴らしい専門書はいくらでもある。そう思い、筆者はここまで筆を進めてきた。
これで何度目かは分からぬが、あえてまた言う。この物語は、文字の中だけの存在となった彼らに再び血を通わせ、魂を与える作業なのだと。その大それた作業をする以上、彼らには人間でいてもらわねばならない。
人間とは、考える。そしてその思考とは異なることをする。その矛盾に苦しみもする。そして、いつも己を取り巻く周囲が闇であると感じ、それゆえに光を求める。
古今東西の歴史において、時代がそれを押し上げるようにして出現する者がある。それはときに、その一個の存在が持つ力や才能や努力などとは別に、周囲の人間の求めによって歴史という土壌の上に幹を生やす。
筆者には、スヴェートとはそういう類の人物であったように思える。スヴェートという特異な人物にのみ主眼を置いて描くことも考えた。だが、それをしてしまえば、なぜ彼がこの時代にあってウラガーン史記に名を残すようになったのかが見えて来ぬ。彼を見すぎては、彼は見えて来ぬのだ。
そう言うと、彼を描きたいがためにこの長大な物語を編んでいるような誤解を与えるが、それは断じて違う。できるだけ、この史記に名を連ねる者はその姿を描ききるようにしている。惜しくも死んでしまった者も多くいる。生きてその者を思う者が、その死を受けて変質せぬわけはないのだ。
ヴィールヒの言う通り、死には質量はない。しかし、それは死という一個の事象のことを指して言うことであって、生きる者にとっては死とはたいへんな質量と重力と引力のあるものであることは疑いようはない。誰もがヴィールヒのように、自身が生命体であることを諦めきったようには世を捉えられぬのだ。
そしてこの項から、質量のある死を知らぬ者が、死の質量を強く意識する者と同じ時間を過ごし、その中で得て、学んで、知って、自ら考え行動し、己をまた変質させてゆく様をも描くことになる。
先に触れたスヴェート然り、ザハールの子シト然り、ペトロに従って間諜になろうとしているジェリーゾ然り。彼らなくして、この史記のはじまりの一節は進まぬし終わらぬのだ。
彼らは、あの戦いの日々を全く知らぬ。この時点でのその生のほとんどを、パトリアエで過ごしてきた。
前項で描いた通り、ザハールは怒り狂った。ペトロは己の抱える矛盾に悩みながらも、為すべきことを定めた。しかし、その本質の部分を若い世代の者が共有することはない。彼らは、あの戦いを知る世代とは異なるものを見ている。
そして、それらは異質なものでもなければ相容れぬものでもない。
混じり合うのだ。ごく自然に。たとえば同じ水の温度の違いが流れを呼ぶように。あるいは、雨が地に墜ちて土が湿るように。獣が餌を喰らって己の血肉とし、子を育むように。
特定の誰かのことではない、そういう事象をこそ、描かねばならぬ。ここまで来て、そういう感覚を得ている。だから、これより先は、とくにそういうことに着眼することになるだろう。
まあ、ここでこうして語るよりも、また史記の頁をひとつ開き、筆者の想像の中でそれを噛み砕いてみることだ。
気が満ちた。
書くとする。
史記の頁は、ノーミル暦五〇六年の三月。
やはり、この日も雨であるらしい。
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