第五章 曇天の光
黒と白
グロードゥカを発したのは、ラーレ軍二万三千。それを支援する目的で、ソーリ海北部沿岸地域を管轄する地方軍一万が先発している。
それらは南方のサムサラバードという、遥か古代にあった国の王都跡近くの原野で合流して国境を侵したバシュトー軍を殲滅する予定であった。
しかし、どうもおかしい。十二月が終わり、五〇六年の一月になってもまだ、ラーレ軍はサムサラバードより北の地点に滞陣したまま動かないのである。
「どうなっているんだろうな」
ひと月近くも北から吹き、サムサラバードよりさらに南の丘陵地帯にぶつかって溶ける風に吹き付けられたまま、スヴェートは周囲の者に向かって呟いた。
輜重隊とはいえれっきとした軍であるから、従卒があり、それを指揮する指揮官もいる。彼らのうちの全てがスヴェートらを歓迎するわけではなく、中には重い輜重を押し付けてきたり、わざと荷を崩させてスヴェートが叱責されるのを見て楽しむような者もいた。
「軍でも、この程度のものだ。外から見ればラーレ候の軍といえば整然と足並みを揃えて黙々と敵を討つようであっても、じっさいは、やはりつまらぬ者もいるらしい」
マーリがそう言って、スヴェートが叱責される度に話しかけて彼の肩が落ちぬように努めていた。このラスノーからやってきた若者たちは、スヴェートに惹かれて集まったのだ。そのスヴェートが折れてしまえば、何にもならぬ。ただ荷を引いて終わりということになる。
「しかし、気になるな。ほんとうなら、一も二もなく先発軍と合流するはずだ。それが、なぜこの地点で、こうも長く」
のちにスヴェートの作戦参謀となるマーリも、その片鱗は見せながらも若さと経験の不足によって深いところまでは見通せないらしい。
「苛々するな。俺たちだけで打って出て、バシュトーを叩いちまえよ」
気の短いリャビクが物騒なことを言うのに苦笑を返し、スヴェートは天を仰いだ。
曇天である。ただ泥を塗りつけたような闇があるだけで、星も月もない。点々と焚かれた火が、吹き付ける寒さから辛うじて彼らを守っている。
「これ以上滞陣が長引けば、まずいのではないか」
マーリが語るのは、このままでは食糧も減る一方で、北ほどではないにせよ冬の風と雨にさらされ続けた兵の士気は落ち、戦いそのものができぬようになるのではないかということである。
「ラーレ候は、何を考えているんだ」
マーリの視線を追って、スヴェートも陣の遥か後方に沈んだ闇を見た。火すらも焚かぬその闇に、ラーレ直属の兵がいる。
「しかし、スヴェート。ラーレ候のお前に対するあの態度。あれは、並ならぬものだったな」
チャーリンで邂逅したときのことを、リャビクは言っている。
「お前に対する態度もな」
スヴェートは、それに冗談で返した。リャビクが単身で街路を歩いていたラーレをそれと知らずにからかい、投げ飛ばされて剣を突き付けられたことを言っている。
「まさか、トゥルケン候ラーレともあろう人が、ひとりで路地裏の酒屋にいるわけがないと思うだろうが」
リャビクはばつが悪いらしく、声を高くして弁解した。
「まあ、そのおかげで、俺たちは軍に入ることができたのだ。俺がせっかく立てた策は無駄になったがな」
マーリの苦笑する顔を見て、スヴェートは楽しいと感じた。なぜなのかは、分からない。ラスノーの街をうろつき、売られた喧嘩を買って相手をぶちのめしても、焼き物を売った金のうち自分の小遣いにしてよい分の全てを使って美しい女を買っても、そう感じることはなかった。
ザンチノと向かい合い、剣を構える時間。楽しいというような感情とはかけ離れた時間であったが、なぜか談笑を交わす仲間を眺めながら、そのことを思い出していた。
ザンチノが何気なく発する言葉。悪さをしたときに見舞われる叱責。そして、静かな佇まい。剣を構えて向かい合うと、なぜか気を失いそうになった。いや、実際、幼い頃などは気を失ったこともある。それがなぜなのかは、未だに分からない。
だが、村に賊の姿をした反乱軍が押し寄せたとき、ザンチノは老体に鞭を打って戦った。これまでには、そのようなことはなかった。ただの賊ではなかったからそうしたのかもしれぬし、スヴェートが騒ぎを聞きつけて戻ってくると確信し、何かを伝え残そうとしたのかもしれぬ。
そして、与えられるままではなく、自ら選べ。そう教え残した。
スヴェートは、選んだ。許してはならぬものを許さず、奪われるべきでないものを奪われぬことを。
スヴェートの顔が、にわかに曇った。
「どうした」
マーリが緊張した面持ちで問う。
「地が、揺れている」
スヴェートの周囲の者が感じるのは火の揺らぎと冷たい風だけで、地そのものが揺れるというのを感知する者はない。
続いてスヴェートが、弾かれたように立ち上がった。
「馬だ」
遥か遠くに、風が渦巻くような音。それを、スヴェートは馬蹄の轟きだと言った。
「火を消せ!」
剣を抜きながら、叫んだ。リャビクが言われた通りに火を蹴り飛ばし、闇を作った。
近付いてくる。
「間違いない。これは――」
馬蹄。敵の夜襲である。膠着を嫌い、対陣がこれ以上できぬよう、物資や武具の予備、兵糧などを輸送する輜重隊を狙ってきたものらしい。
「備えろ!」
スヴェートが、吹き付ける風を斬るような声を上げた。
激しい雨が、屋根を打つような音。続けて、蛇が舌なめずりをするような音。
矢である。
周囲で、次々と叫び声が上がっている。
スヴェートが闇を作ったから、彼らのところは狙われなかったらしい。
二の矢。また、叫び声。
「武器を」
鋭く言う。彼らが運んでいたのは、兵のための武具であった。
「しかし」
軍のものに勝手に手を付けることに躊躇いを見せるマーリに向かって頷き、輜重に乗せられているものを武器を持たぬ者に取らせた。
「軍なのだ。俺たちも。軍の者が軍の武器を用いるのに、何の不都合がある」
言って、マーリにも槍を一振り手渡してやった。さすがに、鎧兜を身に付けるような暇はない。矢が二度注ぎ、それが止んだのなら、次は騎馬隊による突撃があるということは子供でも想像がつくからだ。
夜そのものが蠢くような。姿の見えぬおそろしい獣がすぐ近くで熱い息を吐くような。
そういう緊張が、闇を覆い尽くしている。
「火矢を用いないということは、俺たちが運んでいるものを奪おうという腹なのかもしれんな」
落ち着きを取り戻したマーリが、小さく言った。なるほど、とスヴェートは思った。
思ったところで、何がどうなるわけでもない。
夜が、咆えた。敵の喚声である。それらは瞬く間に迫り、さきほどまで轟きでしかなかった音ははっきりと馬の疾駆するそれに変わった。
ことごとく、黒。
漆黒の騎馬隊である。
「上等だ!敵将を討ち取って、大手柄といこうぜ!」
リャビクが大声を上げ、輜重に積まれていた大剣を一振るいした。
「打って出るな。こちらに気付き、向かってくる隊があれば、それを迎え討つ」
マーリがリャビクを制する。その間、スヴェートは、ただ見ていた。
闇に紛れてあちこちに分かれて突撃してくる、漆黒の騎馬隊を。それが火の灯るところを目指し、瞬く間に味方を屠ってゆくのを。断末魔と肉と血が飛び散るのを。
そして、馬の動きを。それに跨る、敵の姿を。
頭ではないどこかで、理解した。そのどこを突けばよいのかを。
一隊が闇に紛れて身を低くするスヴェートらの一団に気付いた。それが守る大きな輜重にも。
狙ってくる。
「脚だ」
あたりで灯る火が作るうっすらとした光の中でも敵の姿と目鼻が分かるくらいの距離になってはじめてスヴェートはそう言い、地を噛むようにして素早く身を進めた。両手には、シャラムスカで賊と戦ったときから佩いている二本の剣。
誰もが、あっと声を上げた。静止する間もなく身を進めたスヴェートが馬の蹄にかけられたように見えたのである。
脚だ、と言い、スヴェートは馬にぶつかるかそれに跨る兵の武器にかけられるかの紙一重のところを見切って身をこじ入れ、すれ違いざまに馬の脚を斬ったのである。
それを見て取ったリャビクが気合を発して続き、スヴェートのような精密さとは間逆の大振りな一撃を繰り出して一頭の前足を砕いた。
「それ、二人を死なせるな!続け!」
全員がひとつの生き物のようになり、手にした武器を振るった。無論、何人かは上手くゆかずに馬の蹄にかけられたり敵の突き出す槍に串刺しにされたり振り下ろされる剣で頭を砕かれたりした。
固し、と見た敵は一度左右に分かれて距離を取り、再び集合しながら加速し、一党を殲滅しようという構えを見せる。その間に、スヴェートの周囲に生きている者は全員集まった。
「リャビク。あの突進を、止められるか」
スヴェートがまた剣を低く構えなおしながら、低く言う。
「分かるもんか。騎馬隊の突進を止めたことなんて、あるわけねえだろう」
「違いない」
「だがな、止めてやるよ。こんなところで馬に踏み潰されて死ぬわけには、いかねえ」
だから、とリャビクは一歩前に出た。
「止められるかどうかを訊くな。止めろ。あんたは、そう俺に命じればいいのさ。できるかどうかじゃない。やるんだ」
「――止めろ、リャビク」
「応さ」
漆黒の騎馬隊が、再び突進してくる。三十ほどの隊だろうか。あちこちで上がる叫喚をもたらす敵が何人くらいいるのか見当もつかぬが、目の前の敵のことは不思議なほどによく認識することができた。
頭のどこかが、とても冷たくなってゆくような感覚。闇すら、色を失うような。
その中で、一団を庇うようにして身を進めたリャビクが、とてもゆっくりと大剣を引き戻すのが分かった。その骨の軋みまで聴こえるようだと思った。ゆっくりと引き戻しているのではなく、骨が軋むほどの速さで引き戻しているものがゆっくりと見えているのだと分かった。
落ち着いている。
馬が蹴り上げる土の一塊。それを巻く風。リャビクの、踏み込み。
スヴェートもまた、今まさに大剣を振り切らんとするリャビクに向かって地を蹴った。
三歩。自分の身体が、宙に浮き上がるのを感じた。
振り切った。それで、二頭の馬が頭を砕かれて吹き飛んだ。後続の馬が驚いて棹立ちになろうとする。
振り切ったままの大剣の刃が、スヴェートの方に向かって旋回してくる。このまま突進すれば、スヴェートをも巻き込んで破砕してしまいそうな勢いである。
宙に浮いたまま脚を縮め、それをやり過ごす。
大剣の旋回に誘われて半身の姿勢になったリャビクの肩に向かって、脚を伸ばし下ろす。
その分厚い肩を使い、もう一度跳躍。
棹立ちになる馬も、手綱を引く兵も、自らの命を奪うために握られた刃も、全て跳び越した。その先にあるものだけを見ながら。
一人だけ、軍装が違う者がいる。それが、指揮官なのだろう。
観察していた。戦場での経験など皆無であるが、それを見て取っていた。いったい、何が自分たちの命を脅かすのか、それに奪われぬようにするにはどうすればよいのか、察していた。
リャビクの大剣の一撃で騎馬隊の突撃を止めさせたのは、標的の位置を固定するため。
それに向かって、スヴェートは飛んだ。
そして地に乞われて再び両の脚を着け、勢い余ってみじかい草と冷たい土の上に転がったとき、指揮官の首は宙を舞い、首のない胴だけが馬上にあって手綱を握り締めていた。
これが、スヴェート。噴き上がる血の音が、戦士としての彼の産声である。
「やったぞ!今だ!」
誰かがそう叫び、混乱する敵に向かって、一党は遮二無二突き掛かった。土から身を起こした状態で、それで数人がまた死ぬのを見た。しかしそれよりも多くの敵を馬上から叩き落したり馬ごと倒したりして、残った敵は逃げ散った。
主人を叩き落されて寄ってたかって突き殺された馬が、所在なげに佇んでいる。
そこで、スヴェートの世界に音と色が戻った。
周囲では、まだ殺戮が続いている。しかし、彼は、佇む馬の脚の隙間から、驚くべきものを見た。
火の光を照り返し、まるでそれそのものが燃えているかのような騎馬隊。
少しして、白く輝くから火を映し、そう見えるのだと思った。
白銀の騎馬隊。
ラーレ直属の、本軍である。その中枢そのものが、この夜襲に応じて発したものらしい。
その錐のような突撃陣形の中央、最先端。まるで、鳥が翼を広げるように二本の剣を構えているのが、遠目にも分かった。おそらく、あれがラーレなのだろう。
土の匂いを嗅ぎながら、スヴェートはなんとなくそう思った。
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