ふたつめの龍
幼い頃から、自分はこの国で最高の武人の子であるという自負があった。それは誇りでもあり、シトの人格形成に大きな影響を与えてきた。
父は、優しかった。もし父に剣がなければ、優しさだけが取り柄というような男だったかもしれない。
しかし、父には剣があった。父の若い頃は動乱の時代で、同じく戦士であった祖父はそのために地位も名声も奪われたという。父が家名回復のため旅に出るときに手にしたのが、涙の剣。神話の時代に、龍が流した涙が凝り固まってできたとされるその剣はシトが見てもはっとするほどの妖しい光を放っていて、父はその剣と共に生きてきたのだ。
あるときから、父には同志ができた。いまの王と、建国の十聖将と言われる者たち、そして何千何万のウラガーン軍。
シトの知る父というのは、そういう人たちをとても大切にする男だった。戦場を駆ける愛馬ですら同志であるとして自ら世話をし、ときに語りかけたりしている姿を何度も見ている。父曰く、あの戦いのときに乗っていた馬の子であるらしい。あの戦場を共に駆けた馬は今は老いて、ラハウェリ郊外の牧にいて戦いのための子の種を付けている。
漆黒の軍装に同じ色の青毛の馬。そして涙の剣を携え、何千もの兵を引き連れて戦いに赴く父の姿を、幾度となく見送ってきた。漆黒の軍装から長い金色の髪がこぼれ出ているのがまるで流星のようで、好きだった。
早く、父のようになりたいと思っていた。父が与えてくれた剣を、毎日振った。いつか自分で名を立てて、父のような立派な剣を手にするまで、振り続けるつもりであった。
そのことを父に言うと、
「剣とは、できるだけ振るう機会がない方がよいものだ」
とのみ言い、苦く笑った。
「俺は古きものを打ち倒すため、この剣を振るってきた。しかし、お前は、壊すため、奪うために剣を振るってはならない」
そのときは、どういう意味か分からなかった。自分も父のように戦場を駆け回りたいのだ、とのみ思った。
「この涙の剣を、お前が受け継ぐこともない」
とも、父は言った。それは、はなはだ心外であった。いずれ家督を受け継ぐとき、父の心そのものとも言えるこの宝剣も共に受け継ぐものとばかり思っていたのだ。
「誰が何のために作った剣かは知らぬが、俺は、この剣で人を殺しすぎた。何百、何千という者を、この剣で屠ってきた。彼らの血がこの剣に艶を与え、彼らの骨がこの剣を研いできたのだ」
そのようなものを、受け継ぐことはない。父は、そう言った。
いずれ、考えが変わるかもしれない。そう思って、そのときは従った。
そして今、父は叛乱の汚名を着せられ、この南の地でほんとうに決起しようとしている。グロードゥカに赴いてなにかの間違いであることを説くとか、そういうことではないらしい。
よく分からぬが、父はあの戦いの頃からこれが決まっていたかのような理解をしているらしかった。バシュトー王サンラットもそれに同調し、あとからやってきた大軍師ペトロも同じであった。
戦いが、はじまるのだ。父が奪われぬために戦ったあの時代で得たものを奪われぬための戦いが。
「シト。緊張しているのか」
ペトロというのは気さくな男で、いつも笑顔を浮かべながら話しかけてくる。自分がザハールの息子だからそうなのかとも思ったが、ペトロに随行してきたジェリーゾという混血の若者らに対してもそうであるから、性格なのだろうと思った。
あの戦いの作戦立案を担い、強大な王家の軍を滅ぼした軍師であるからさぞ気難しく、神経質な男なのだろうと想像していたが、案外物言いも砕けたところがあるし、ときに冗談を言ったりもするらしい。
「なぜ自分がここにいて、なぜ戦いをしなければならないのかが分からず、困惑しています」
緊張していると思われたくなかったため、そう答えた。ペトロはからからと笑って顔の半分を隠すようにして垂らした前髪をいちどかき上げて、その下から重みのある光を放つ双眸を覗かせた。
「なにが正しくてなにが間違っているかなど、誰にも分からんさ。だが、忘れるな。お前は、士なのだ。士ならば、己の行動は己で決めなければ。そうだろう?」
ペトロもまた、そのようにしてパトリアエを脱してきた。ここにいる者は、誰もが士。もう一つ士というものが掴みきれないところがあったが、なんとなく分かる。自分がそうであると認められていると思うと、嬉しくもあった。
「そして、死ぬな。決して、死ぬな。戦いとは、死ぬためのものでも殺すためのものでもない」
「では、なんのために」
「それが分かれば、俺は道を誤らなかったさ」
なぜか悲しげな顔をして、ペトロは声を乾砂に溶かした。それを、ソーリの風がさらってゆく。
「外交。調略。ただ武器を振るうだけが、戦いではない。できれば、殺し合いをせず勝つことが叶えばな」
それをするにはあまりにもバシュトーの国力が脆弱であることを、ペトロは説いた。
まず、国としての生産がない。人が土地に定着し始めたのはごく最近のことで、貿易の道からも外れているために産業がない。調略をするためにはかつてのウラガーン軍が飼っていたというような、それを専一にする者が必要になるだろうし、今のバシュトーにできることは、民をそのまま兵にして北へ攻め上り、力を得るためパトリアエの領土を切り取ってゆくしかないのだ。
「まあ、やりようはある」
不思議なもので、ペトロが言うとほんとうにそうなのだと思えた。
「俺は、お前の父を勝たせるために来たのだ。そうすることで、俺が違えた道筋を、あるべきものに戻すことができるのだ」
どういうことか、シトには全く分からない。だが、父がときおり見せる悲しげな翳りと同じものをペトロもまた持っていることが分かった。
「いや、戻ることはない」
ペトロは、なおも言う。
「何をどうしても、戻ることはないのだ。決して。だから、人は得ようとする。これからの己のことならば、今の自分に決めることができる」
「私には、分かりません。しかし、私は己が正しいと信じるもののために生きてゆくことを望んでいました。今がそのときであるならば、私には何も恐れるものはありません」
「危ういな、シト。無茶をして、死ぬことはない」
「心に刻んでおきます」
「よい笑顔だ」
そのまま、しばらく沈黙になった。ペトロは顎を少し上げて風を聴いているが、視線の先に何があるのかシトの位置からは前髪のために見えなかった。
「あの」
気まずいような気がして、シトは声を上げた。上げてから、何を話してよいのか分からなかった。
「ペトロ様がこれまで体験なさった中で、いちばん大変だった戦いとはどのようなものでしょうか」
ペトロはしばらく目を丸くしてシトを見てから吹き出した。
「大変でない戦いなど、ひとつもなかったさ」
「それは、そうでしょうが」
「それと」
と、ペトロはシトの肩に手を置いた。
「言葉に気を使わなくていい。お前の父と俺とは、互いにお前より少し歳長けたくらいの頃からの仲なのだ。その子であるお前を、俺はもはや他人の子とは思えんのだ」
「そのような」
恥ずかしさと嬉しさが同時にこみ上げてきて、シトは戸惑った。この人の言うことを聞いていたい、と思わせるような何かがあった。
「お前は、戦いとはどのようなものだと思っている」
「分かりません。しかし、できるだけ避けるべきものだと思っています」
父が、かつてそう言ったのを思い出した。その言葉を、そのまま口が走らせた。
「戦いになれば人は傷付き、血が流れ、飢え、怒りや恨みや悲しみばかりが募ってゆきます。戦いを生きて過ごせた者とて、ただ星を見上げて死した者のことを語るばかり。それは、やはり悲しいことなのだと思います」
「心から、そう思うか」
「はい」
「戦場に出て馬を駆り、思うさま剣を振るってみたい。群がり集まる敵を蹴散らし、我ここにありと世に知らしめたい。そう思っている部分も、あるのではないか」
肺の腑を突かれたような気分だった。全く、ペトロの言う通りであった。父の教えにより、戦いとはせぬ方がよいものであるということは理解している。しかし、シトは、あの時代に自分が産まれていなかったことが悔しかった。パトリアエという国が成り、そこで産まれる生よりも、それを成すために使う生の方が熱量が高いと感じることがある。
父は、自分の歳の頃、家を出て一人で傭兵をしながら戦場を渡り歩いていたのだ。それに比べて自分は、という思いは強い。
「お前は、ザハールの子だ。しかし、ザハールその人ではないのだ」
まるでシトの思考を読み取ったかのようなことをペトロは言う。この眼でもって数々の戦場での勝ちを手にしてきたのかもしれぬと思い、もっと聞きたいと思った。しかし、続くペトロの言葉はごく簡潔なものだった。
「だから、気負うな。お前が何者であるのかは、お前を知る人が示してくれるだろう」
話せてよかった。それだけを言って、立ち去った。一体何をしに来たのだろう、と思い、しばらくその後姿を見送っていた。
しばらくして、気付いた。自分に会いに来たのだということに。
これから始まる戦いに、自分は出ることになるのだろう。そのため、ペトロはこのザハールの息子という存在がどのようなものであるのか確かめにきたのだ。
ノーミル暦五〇五年八月、旗が、上がった。その側の中には、大精霊はいなかった。ただ、真っ黒な龍が一匹いるだけであった。
黒い墜星ザハールとバシュトー王サンラット、そして大軍師ペトロがその下に立ち、ジェリーゾの一党やシト、何千ものバシュトー兵が周囲に集った。
「見ろ。守るべきものを守るはずの大精霊の翼は、どこにもない。それどころか、我らはまた奪われようとしている」
サンラットである。バシュトー語で話している。シトは、隣にいたジェリーゾが通訳をしてくれているのを聞いている。ジェリーゾは気風のいい兄貴分というような具合の態度でシトに親しく接し、二人はわずかな期間で仲良くなっていた。
「あらぬ疑いをかけられた我が友が、ここに。彼は、知っての通り、パトリアエ最強の戦士ザハールである。パトリアエは彼の建国の功に報いるよりも、それを惜しんで彼に疑いをかけ、攻め殺そうとしている」
怒りの声が、バシュトー人から上がった。バシュトー人というのは気性は荒いがその分同情の心が強く、もし自分が同じ立場だったら、と考える癖があるためであろう。
「それを、許すのか。それは、許されるべきことなのか。諸君に問う。我らは、国の求めに応じて国となった。その声なき声すら力でもって奪わんとする者がいるとき、どうするか」
その声はサラマンダルの軍営前の広場を埋め尽くし、轟いた。
「俺は」
どよめきが静まりを見せかけたとき、ザハールが声を発した。
「我が妻と娘を、人質に取られた」
ザハールが言うことをサンラットが通訳している。それを、人々は全身を耳にして聴いた。
「長く続いた戦乱の果てに得た、決して奪われてはならぬもの。それを、彼らは奪ったのだ。人なら過ちも犯そう。過ちなら、それは言葉で正すことができる。しかし、違うのだ。彼らは、龍なのだ。龍は決して過ちは犯さぬ。成るべくして成り、あるべきものをあるべき姿にするのが、龍なのだ。俺が、そうだったのだ」
静まり返っている。先の戦乱で名を馳せたパトリアエ最強の英雄の、人間の部分が語っている。それを、この場にいるあらゆる者が見た。
「俺は、あまりに長く続いた戦いとそこに積み重なる敵味方の屍に、疲れていた。戦いが終わってもまだあちこちに出向き、血で河を作り、屍を積まねばならぬことに、倦んでいた。だが、それは思い違いであったのだ」
シトの知らぬ父の姿だった。まるで、疲れ弱った農夫のようだった。だが、農夫などには決して持ちえぬ凄絶な何かが、確かにそこにあった。
「戦いは、まだ終わっていなかったのだ。自分だけが龍であることを辞めることは、許されなかったのだ。ゆえに、俺は、もう一度――」
涙の剣を、抜いた。抜いて、天にかざした。ソーリの風すらも斬るような強い光が、シトの目を刺した。
「――龍となる。奪われてはならぬものを、奪われぬため。人が求め、得るべきものを阻むものを、打ち倒すため。これは、俺一人の戦いなのだ。そして、ここにいる、いや、全ての人の戦いなのだ。ここにいない者も、すでに死んだ者も、すべて。俺の、我らの、彼らの声が、龍を呼ぶのだ」
一人の戦い。そして、すべての人の戦い。その言葉が、全員の胸に深く突き刺さった。それはやがて高揚を呼び狂乱を生み、地を揺らし天を墜とさんばかりの声になった。
彼らは、北を目指した。王都サラマンダルなど、どうでもよい。もとより、土地に執着などないのだ。五千が万となり、通る道々の集落からも人は集まり、国境近いジャハディードの街の男どももこぞってこの軍に参加した。そして越境する頃には、その数はじつに二万を越えていた。
これが、世にも名高いパトリアエ建国戦争の終わりの、そのはじまりの一幕である。
――龍は一にして一にあらず。人、自ら集いてその鱗となり牙となり目となり爪となり、天に吼え地を揺らす。全なる龍、双つあり。互いに見合いて、互いの尾を喰らう。
ウラガーン史記 第二十三章「ふたつの龍」より抜粋
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