第四章 血涙の光

対面

 雨に濡れた石畳の音は、この国ではありふれたものだった。それを踏むことについて、何かを感じる者はいない。

 当たり前のことをしている。スヴェートは、そういう顔をして彼がこれまで知ることがなかったユジノヤルスクの地に入った。

 彼の後には、もともとであった者が続いている。しかし、その面魂は、どれも志に燃えていた。先頭の彼だけが、ごく平然とした様子で歩いていた。

 ユジノヤルスクやグロードゥカなどの中央というのは、どの街に入ってもスヴェートたちがうろついていたラスノーの街などとは比べ物にならぬほどに栄えている。あの東の辺境の中で最も栄えていると言われる街ですらこの中央の中級の都市にも及ばぬほどで、かつてウラガーンが本拠にしていたこともあるというラハウェリは今も軍事の拠点としてたいへんに栄えているし、ノゴーリャも交易と軍事との両方において重要な役割を担っている。

 ユジノヤルスクの首府チャーリンに入ったときは、少し雰囲気が違った。叛乱を起こしたザハールの居館や軍の本拠などには龍と精霊、斧と盾が意匠化された王の旗が翻っていて、物々しい武装の兵で固められていた。

 馬鹿な話だが、それを見て、ほんとうに叛乱は起きたのだと思った。


 ラスノーを出てからの道中、様々な話をした。なぜか、誰もがスヴェートの生い立ちのことを聞きたがった。だから、自然とスヴェートは自分のことを語ることになった。

「物心ついたときには、もうシャラムスカの村にいた。ザンチノと一緒だ」

「あのザンチノって人は、あんたの親じゃあないそうだな?」

 そういう具合に、スヴェートが何かを言うと誰かが質問をし、それにスヴェートが答えるというような具合で東の果てから何日も歩いてきた。街道をゆきながら人里離れたような場所に至ると賊が現れるのではないかと連れている者のうちの何人かは恐れたが、そのようなことはなかった。

 中央に近付けば近付くほど、賊は減り、村々も豊かで、街は大きく、人には笑顔があった。スヴェートの知る東の人というのは、もっと食うに困っていて、何かに疲れたような顔をしていることが多い。大きなラスノーの街でも、一歩路地裏に入れば痩せた子供が自分の指を咥えて飢えをどうにかごまかそうとしていたり、何かの病に冒されていることが一目で分かる女がそれでも食うため、あるいは食わせるため売っている我が身を誰か買ってくれぬものかと目を光らせ、歩く鼠すら捕らえられて骨と尻尾だけになって石畳に転がるような有様であったが、中央にはそのようなものはなかった。

「これが、この国の姿だ」

「豊かさが、か。マーリ」

 質屋の次男のマーリは、頭がいい。語るばかりのスヴェートも、彼には積極的に意見を聞く。そのマーリの言うことが意外であったらしく、珍しい色の声で問うた。

「いや、違う。富める者は富み、飢える者は飢えている。なにが彼らを隔てるのだろう。なにか、彼らにはどうにもならぬものが、それを決めているようだ。そういう風に、俺には見える」

 質屋の次男というだけあり、経済のことには敏感であるらしい。この出来上がったばかりの新しい国家に、既に甚だしい貧富の格差が生じていることを見て取っている。

「どいつもこいつも、兵だって、腑抜けた顔の奴らばかりだ」

 肉屋のリャビクが、鼻を鳴らした。彼は腕自慢であるから、いかにも都会育ちの線の細い同じ年頃の若者がこの国でずっと喜ばれてきた金髪を靡かせているのを見ると鼻に付くのだろう。短く刈り込んだ黒髪を撫で付け、大股に歩いてゆく。

「おい、中央の軍がここにはいる。あんまり一人でうろついて妙な揉め事を起こすと、あとに障るぞ」

「どうせ、街はずれの安宿だろ。陽が暮れるまで、好きにするさ。お前はそうやって賢しらぶってものを語っていな、マーレ」

 そう言って、リャビクは一人でどこかに行ってしまった。


 石畳。

 それが濡れるときに発せられる匂いがする。また、雨らしい。産まれたときからこういう気候であるから、べつに何とも思わない。それほど強くなるような気配もないが、とりあえず時間潰しにリャビクは酒を売る店の軒に身を滑らせた。

 女が一人、先に軒先にいた。

「雨だな」

 なんとなく、女に声をかけた。髪が美しいが、それが雨に湿って顔に張り付いているために表情は分からない。

「なあ、あんた、この街の人か」

 この女が美しいに違いないと思い、しかし返答がなかったから、もう一度呼びかけた。

 やはり、返答はなかった。

「あんた、女なのに、剣を使うのか」

 女の両腰に、剣。夏に羽織る雨よけを兼ねた薄い革の外套から、美麗な柄がふたつ突き出ていた。

「おい、何とか言え」

「お前」

 ようやく、女が声を発した。それは、リャビクが想像していたものと少し違う質のものであった。

「酒を買いに来たのか、女を買いに来たのか」

 たとえばこの細い雨が石畳をささやかに打つような。それでいて遠くの山が鳴るような。全く相反するものを同時に想像させるような、ふしぎな調子の声であった。

「さあな。中央の酒は、東とは違う。女はどうだろうかと、ちょうど思っていたところさ」

 そろりと、窺うようにして女の肩に手を伸ばした。

 そのつもりであった。

 しかし彼が知覚したのは、背にとてつもない衝撃が加わって息が漏れ、それきり吸うことができないという身体が発する悲鳴と、なぜか自分の正面から雨が降っていてそれが顔に注いでいることであった。

 遅れて、背が濡れてゆく。

 地に倒れているのだ。いつ、なぜ、こうなったのか分からず、とにかく息を吸うという動作を身体に思い出させようと喉を開いた。

 その喉に、冷たいもの。

 剣である。

「死にたいか、小僧」

 この女に小僧、と呼ばれるのが心外で、それがリャビクに呼吸の仕方を思い出させた。

「わたしを、売りとでも思ったか。売り女ならば売り女で、払わねばならぬ対価と敬意があるということを知らぬのか」

 はじめて、女と眼が合った。それは冷たく、灰色がかっていて、まるで雨を降らせる空のようだった。思ったよりも歳を重ねているのかもしれないとも見えたが、実際女が幾つくらいなのか、分からぬままであった。

 その眼が不意にリャビクから興味を失ったようになり、女は雨の中へと歩を進めた。

「待ちやがれ!」

 夢中である。女に遅れを取った。礼儀を知らぬ田舎者と馬鹿にされた。リャビクの頭は雨を湯気に変えてしまうほどに熱くなり、背を石畳に打ち付けた痛みも忘れて飛び上がった。

 掴みかかるべき女の背はもうそこにはなく、数歩先を何事もなかったかのように歩いていた。

「この女め――」

 悔しがり、リャビクは石畳を強く踏み付けた。

「お前なんて、スヴェートが一息に斬り殺しちまうぞ」

 口をついて出たのが、それだった。己でなくスヴェートの名などを口にしてしまったことを後悔したが、リャビクの中で既にスヴェートという存在は己を支えるだけの質量を持ってしまっているのだから、その意味では仕方のないことなのかもしれない。もう一方からの力を加えて均衡を得ようとするならば、リャビク自身の心の成長を待たねばなるまい。

 女はリャビクを心の中であざ笑いながら立ち去るかと思ったが、意外にも濡れた石畳を踏む音を止めた。

「や、やるってのか」

 女相手に。そういう思いがよぎるほどには、彼の頭は雨のために冷やされている。振り返った女は、まるでリャビクの頭の中のことなど自分の世界と何の関わりもないというような調子で口を開いた。

「スヴェートという知り合いがいるのか」

「ああ」

「その者は、お前よりも強いのか」

「それは、間違いない」

「だが、わたしよりは弱いだろう」

 どうしてこの女にこのような凄味があるのか、リャビクには理解できない。そもそも、なぜ二本の剣を佩いて歩いているのか。

「いや、わたしとて、強いわけではない」

 一人で呟き、またきびすを返した。

「お前は、そのスヴェートという者のことが、好きなのだな」

 背中で言うのに返答することができぬまま、女は歩きだした。

「いい名だ。そう、その者に伝えてやれ」

 しばらく、雨の中に立ち尽くしていた。酒を売る店の者がリャビクが酒を買うのか否かと声をかけてきたが、無視した。


「案外、早かったな」

 雨に濡れたままのリャビクを、スヴェートらが宿で迎えた。まだ陽は暮れきっていない。

「ああ、スヴェート」

 やはり、スヴェートの声を聴くと、落ち着く。人の上に立つべき者とはこういう者のことを言うのだろう、とリャビクは思う。何の地位も持たぬ身ではあるが、一緒にいることで、きっといつかとてつもない男になってゆくのが分かるのだ。

「お前がふらついている間に、マーリが街で噂を色々集めてきたぞ」

 べつに聞きたいとも思わないが、とりあえずこの一座の雰囲気に合わせることにした。

「まず、このチャーリンに入っている軍。これは、トゥルケン候ラーレの軍だ」

「戦の女神と言われる、あの十聖将の」

 肉屋の息子のリャビクですら、その雷名は知っている。

 そういえば、街で見かけた女。

 話に聞くラーレの戦いざまは、馬上、翼のようにして双つの剣を振るうもの。

 あの女も、両の腰に剣が二本あった。そして、信じられぬほどの腕と技を持っていた。

 まさか、と思った。トゥルケン候ラーレともあろう者が、単身で護衛も付けず、路地裏の酒屋の軒先にいるはずはないのだ。

 だとすれば、あの女は誰なのだろう。

 どうやらリャビクの頭はそれ以上あの女について深く考えることには向かぬらしく、次第にスヴェートやマーリや他の者との会話に夢中になっていった。

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