第三章 乾砂の光

流れる砂

 ジェリーゾの一党を従えたペトロは国境を越えてジャバディードに入ったが、わずかな兵の集団が散在するのみでとくべつ重厚な守りが施されているような感じはない。ナシーヤ風に整備された街に暮らす民の様子も、変わった風ではない。

 それどころか、ペトロらを旅人か傭兵か何かだと思ったのか、気さくに声をかけてくる。

「サラマンダルを目指すんだね、あんた」

「まあ、そうかな」

 食い物を売る店の親父にそう答えてやり、国内の情勢について知ろうとした。

 ペトロは、軍師である。そうなる前は、盗っ人だった。その頃から徹底して情報を集め、観察し、一分の遺漏もなきよう自らの策が成るよう努めてきた。その癖は、彼が十聖将の一人として国家の支柱たる大軍師となり、さらにその地位を投げ捨てて南にやってきた今でも変わらない。

「このところ、誰もが南を目指す。だが、それは外からの連中のことだ。俺たちは、ここから動くことはないさ」

 それを聞いて、ペトロは意外な思いであった。このジャハディードや首府サラマンダルにこそ人は家を建てて定住しているが、本来、この南方の騎馬民族とは牧畜を主に行い、ひとところに定まることがない者どものはずである。

 馬と弓の扱いが上手く、気性はいたって剽悍。十五年前の戦いのときは現王サンラットがあちこちに散らばる部族を糾合してひとつの軍として参戦し、ザハールの騎馬隊と並ぶ機動性と戦闘力でもって活躍を見せた。

 俄かにそれを為すことができたのは、彼らが定住せぬ人々であったためである。ペトロの感覚はそこで止まっていたから、今会話をしている店の者からそのような言葉が出たことが驚きであった。

「やはり、自分の土地と建物を持つと、離れたくなくなるものか」

 と苦笑まじりに問うと、店の者はとんでもないといった様子で手を横に振り、答えた。

「土地なんざ、なんの値打ちもない。建物だって、ただ石を積んで作るだけのものだろ。俺は、ナシーヤ人とは違い、そんなものに思い入れはない」

「しかし、親父。あんたは今、ここから動かぬと言った」

「当たり前だろ。あんたらが南を目指すのは、王の軍に合流して名を売りたいからだろう。なんたって、あの黒い墜星がやって来たんだ。その噂を聞きつけた連中が、こぞってやって来るさ」

「返答になっていないぞ、親父」

 ペトロは性格からか、少し早口になって自分の問いに対する返答を求めた。

「だから、あんたらが王と一緒に南からやって来るまでの間、誰がこの国境を守るんだよ」

 妙な奴だ、とでも言わんばかりの調子で発せられる男の言葉に、ペトロの前髪で隠された顔半分の影が濃くなった。

「あんたたちが、守ると言うのか」

「そうさ。そうでなければ、ここに留まる理由もない」

 男の歳の頃は、六十くらいであるように見えた。それが、当たり前のようにして王の軍が北上を開始するまでの間の国境の守備を自ら行うと言ってのけるさまを見て、ペトロは、パトリアエとバシュトーの間に、ほんとうにが出来上がったことを知った。

 思い返せば、このジャハディードに入ってからすれ違う人は皆、騎馬のままでも扱えるよう長く湾曲した形状の南方地域特有の剣をいていた。それは単に争乱による治安の乱れから己が身を守るためのものではなく、王の軍が北上を開始するまでの間、パトリアエに国境を侵させぬための剣だったのだ。

 そういう目で今しがた通ってきた街並みを記憶の中でなぞると、街路が巧みに折れ曲がるような形で敷かれ、その両脇に石を積んで建造物が置かれている。

 ──要塞なのだ、ここは。

 防衛用の要塞。それを、サンラットは構築していたものらしい。石を積んだだけとはいえ、昨日今日で仕上がるような代物ではない。おそらく、もっとずっと前から、自分たちパトリアエに悟られぬようにしてこの要塞を構築してきたのだろう。

 そして今、黒い墜星が北天よりやって来て、時が満ちた。少なくとも目の前にいる男はそういう感覚を持っていることを見て取った。

 ──助けるも何も、自ら仕掛けるつもりではないか。

 ペトロは驚きながら呆れ、これから己がこの乾砂の国でなにをすべきなのかについて思考を巡らせた。


 パトリアエ中央軍。その中核たるザハールは離脱したとはいえ、まだサヴェフ直属の指揮下にある重装歩兵団がある。これはかつてルスランが率い、ほぼ壊滅状態にあったものを立て直したものである。それに、一万にのぼる騎馬。ベアトリーシャが創設した工兵隊もさらに兵器の開発や効率的な運搬について研究を凝らしているし、北方のトゥルケンに領地を持ったラーレが率いる軍もある。

 迎え討つべきか、こちらから攻めるべきか。それを考えかけて、否、と思考を一度水に流した。

 人が、人でなくなるような仕打ち。それを止める。それこそが、目的。攻めるとか守るとかいうような単純な話ではないのだ。今なにかを考えて、ことを定められるはずもない。

 さらに南へ。首府サラマンダルへと引き上げた王の軍の中心にいるサンラットに、合わねばならない。その隣には、ザハールもいるはずなのだから。


「俺はよく、この辺りをうろついていたんだ」

 少しでもこのただならぬ男の役に立とうと息巻くジェリーゾが、ペトロを先導した。

「これを」

 と差し出された布を見て首を傾げていると、

「あなたは南には慣れていない。だから、砂の怖さを知らない」

 とその布で口と鼻を覆うようにして巻き、布の下で笑った。

 この季節の日中になると陽射しによって砂が焼け、不用意に吸い込むと胸の中が焼けることがある、とジェリーゾが解説するのを聞いて、やはりこの世には己の知らぬことばかりだとペトロは思い、このジャハディードを抜ければ砂の大地が延々と続いていて、それを超えなければサラマンダルには行き着かぬのだと悟った。

「ジャーハーン河は、ここから遠いのか」

 ジャハディードという地名は、ジャーハーン河というこの乾砂の国を潤す貴重な水資源となっている大河に由来する。その知識からペトロはジェリーゾに訊ねたわけであるが、それは的外れであった。

「ジャーハーン河は、遠い。ずっと昔の頃はこのあたりまで流れが来ていたらしいが、長い、長い時間の中で少しずつ移動し、今となってはここから馬を使っても三日はかかる場所にある」

 首府サラマンダルはそのジャーハーン河がソーリ海南部に注ぐ河口近くに位置するから、船を使えばよいのではと考えたが、外れた。

 やはり、ジェリーゾの言う通り、乾いた砂の原野を往くしかないらしい。


「お前、南に詳しいと言ったな。南の出か」

 砂を鳴らしながら歩くジェリーゾに、声をかけた。

「いいや」

 北でも、南でもない。ナシーヤ人の父と南の母の混血であることを彼は明かした。

「俺の親父は、あの戦いで死んだんです。村を守るため、男連中で立ち上がって。賊なのか軍なのかも分からないような奴らに襲われて、槍で突かれてはらわたをぶち撒いて。お袋は、そいつらに犯され、血まみれになって捨てられていた」

 ペトロは、黙った。その乱れは、ウラガーンが呼んだ風の一部。あのとき、中央で戦っていたウラガーンこそが正義で、旧きを守らんとする王家の軍はもはや形骸化した腐敗の象徴であったような印象を史記を読み解く我々は受けるが、実際はどちらがどうということはなく、ただ互いの理想と主義主張のために血を流し合っただけであると見ることもできる。

 筆者なりに考察し、この物語を編むにあたって、こうであったに違いないという憶測を交えて整合性を求めるに、あの風は自然に起きたものではなく、サヴェフらウラガーンが中心となって起こしたものであると考えられる。そうであるならば、このジェリーゾは、その風に巻き込まれて肌を切り、骨を砕かれた者であるということになる。

 そこで、ペトロの思考はまた別のところに遊泳する。

 どこかで聴いた話である。

 ナシーヤ人の父。南の母。それまであまり行き来することのなかった両民族の間に産まれた者。

 彼は今、どこでどうしているだろうか、と思った。


 考えなければならぬことが、山ほどある。山といえば、パトリアエ領土の東に連なる大山脈。このバシュトーの地には、山は少ない。それでも、ペトロの頭の中にはいくつもの峰があり谷があった。その尾根をゆくべきか、はたまた山を避けて通るべきか。取ることの道は無数にあれど、取るべき道というものは一つである。

 パトリアエを離れてまだ数日であるが、その中央の中枢にあっては見えぬものがたくさんあることに気付いた。たとえば、この国の景色。人。地理。それらから透けて見える、政治、軍事。その裏打ちとなる思想、利害。

 中枢にあったとしても、その深奥のことは分からなかった。雨の軍をまだパトリアエが飼っているということすら、知らなかった。

 雨の軍。

 なんのために、未だそれを飼っているのだろうか。

 誰が、それを率いているのだろうか。

 なぜ、それが自分を追ってきたのだろうか。

 ときおり生えるみじかい草だけが目の癒しというこの殺風景な原野を、長い時間をかけて粉々に砕かれた赤黄色い砂が流れていくのを見た。

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