第一章 夜影の光

シャラムスカの男

 朝は早い。たまに、寝坊もする。ザンチノのように決まった時間に起きることができるほど、スヴェートは規則正しい生活をしていない。

 この山間のシャラムスカという小さな村には娯楽などないから、山を少し降りたところにあるラスノーという比較的大きな街まで繰り出すのだ。名目上、ザンチノと二人で作った焼き物を売りにゆくためであるが、実際のところはまだ十七か八くらいのスヴェートの娯楽のためであった。


 二人で作った焼き物は、なかなかいい金になった。シャラムスカで二人が暮らしてゆくことができ、スヴェートが山を降りたり上ったりすることの駄賃として街で遊ぶ金くらいにもなった。はじめ、街のごろつきどもは山の深くから焼き物を背負って降りてくるスヴェートを気味悪がり、からかい、邪険にした。スヴェートはずっとそれを無視していたが、十五くらいになったある日、ふと立ち寄った酒場で行われていた賭け事に興味を示し、参加料を払って賭けをしたときにごろつきの一人がをしたのを見破り、叩きのめしてからは一目置かれるようになった。


 女も知った。山を駆け回って獣を追ったり土を捏ねたり木を伐ったりしているスヴェートは背も高く、自然が鍛え上げた美しい肉体を持っており、赤土のような色の髪に母譲りの濃い色の瞳を持つ特異な風貌が、街の娘の間での噂にもなっていた。

 いつもスヴェートが通るのをいちでじっと見つめている、日用品ばかりを扱う商人の娘が店を仕舞って帰るところを尾け、干し煉瓦の路地裏に引き込んでいきなり関係を持ったりもした。その娘とは、それきりである。


「俺は、いつか、中央に出るんだ」

 それが、スヴェートの口癖になっていた。ザンチノも、そのようなことを彼に常々言っている。ただこの山間のつまらぬ村で焼き物だけを造り、死んでゆくような生は、お前にはない、と。

 ごろつきどもは、スヴェートに興味を持つようになっていた。言われてみると、その風貌は、どこか不思議な迫力と並ならぬ格を備えているように見えなくもない。この時代、遥か東の国では当たり前のように栄えている観相学の影響か、人の容貌というのはその人間を知る上でかなり重要視されていたから、その点でスヴェートは有利であった。

 ふつう、金髪に薄い色の瞳というのが最も好まれ、次いで赤毛、栗毛、そして黒髪は嫌われる。だが、ごく稀に、金髪であるにも関わらず濃い茶色の瞳を持ったり、黒髪であるにも関わらず碧眼であるというような者がいる。そういう者は、龍か大精霊かが残した何かしらのであるとされ、喜ばれた。


 そういう風貌のスヴェートを、街にやって来た人相見の占い師が放っておくはずがない。ある日、

「そこ行くお人。そこ行くお人」

 と彼を呼ぶ者があり、立ち止まると、それが占い師であった。

「並ならぬ相をお持ちでいらっしゃる。ひとつ、観せていただけませぬか」

「あいにくだが、興味がない。金もない」

 そのとき、焼き物を売った金はあったが、使える分は女を買うことに使ってしまい、残りは生活のために持ち帰らねばならなかった。

「そう仰らず。是非に」

「占い師ごときが、偉そうに」

 食い下がる占い師に、取り巻きのごろつきが罵声を浴びせた。

「いえ。金など、要りませぬ。あなた様の相を観せていただけるだけで、この私にはまたとない運が訪れましょう」

「そんなものか」

 そこまで言われて、スヴェートに断る理由はない。

 占い師は、ひとしきりスヴェートの顔や立ち姿や後姿、果てはまで舐めるように見た。その間に何事だろうと人が集まり、面白がって見ている。

 占い師は、やがて言った。

「これは、王の相」

 一同が、どよめいた。王ならば、首府グロードゥカに新たな王が立ったばかりではないか。

「その王も、聞けば、王の相を持たれるという。王とは、必ずしも一人であるとは限らぬのです」

「こいつ、とんでもないことを言う奴だ」

 誰かが言った。ようやく、長く長くこの国の人々を苦しめてきた戦いが治まろうとしているところなのである。それなのにこのようなことを言うというのは、この場にいる人々の気分にそぐわぬことであった。

 占い師はそのようなことは気にも止めぬらしく、よい相だ、よい相だとしきりに言い、満足そうに立ち去った。


 その話は、瞬く間にラスノーの人に広まった。やがて、行き交う商人が中央にも噂を運んでゆくだろう。ザンチノが、中央から迎えが来る、と言う根拠は、それであるのかもしれない。

 スヴェートとは、そういう若者であった。

 ただそこにあるだけで、何故か人は彼を受け入れる。はじめこそ、その存在感の強さによって人は反発をするが、彼を知れば知るほど、人は彼に惹きつけられるものらしい。



 筆者は思う。史記は先に描いたウラガーンによる創世のくだりでひとつ区切りを迎えたわけであるが、おそらく、原典を編んだ者もそこで筆者と同じように少しの休息を入れたはずである。そして再び筆を取り、このスヴェートという若者のことから描かねばならない必要に駆られたとき、僅かに戸惑ったように思う。その筆の乱れが、この項でスヴェートという者がどのような若者であったのかということの描写の曖昧さに繋がっていると考える。

 まず、年齢。十七、八くらいとは何事か。遡れば彼の生年ははっきりしており、四八八年生まれの十七歳である。おそらく、原典を編んだ者は、育ての親であるザンチノが彼の正確な生年を知らなかったという事実に即してこう表記したものであろうが、それにしても違和感がある。

 そして、占い師の話。そのためにスヴェートという若者が特異な存在であるかのような肉付けがされているが、これもいささか無理がある。彼のその生涯のことを知っていてはじめて、彼がこの国パトリアエにとって特別な存在であると言い切ることができるわけであるが、この時点での彼は、山間の小さな村で老人と共に焼き物を作り売ることを生業としているだけの、どこにでもいる若者であったのだ。腕っ節は一人前で物怖じもせぬ性格だったから、街に出てもごろつき共は彼に従うしかなかった。

 それだけのことである。筆者は、まず、このスヴェートという若者をこの時点から特別視したり、ましてや原典のように神聖視したりすることを一切せぬことを断っておく。



 剣の稽古はよくする。ザンチノが、棒切れを手に、稽古を付けてくれることがあるのだ。とはいえ、彼はもう老齢であるから、往年のように巨大な戦斧ヴァラシュカを振り回すようなことはない。家の裏に転がっているような棒切れを手に、スヴェートと向かい合うのだ。

 スヴェートの剣は、まだ血や脂で汚れたことはない。山を行き来するときは銭や荷があるから、盗賊に襲われたときの自衛用という程度のものである。

 それを抜いて、思うように構える。ザンチノがその構え方や握り方について何かを言うことはない。

 ただ、じっと向かい合う。それだけの時間。それなのに、スヴェートは、全身から汗が吹き出してくる。

 山は、季節の訪れが遅い。風は初夏のそれであるが、真夏に山を登るときのような汗をかく。それが何故なのか、スヴェートには分からない。

「やめ」

 ザンチノが言うと、その時間は終わる。スヴェートは、不満であった。

「ザンチノ。もっと、ちゃんと稽古を付けてくれよ。あんた、戦士だったんだろ」

 と剣を撫しながら言うと、ザンチノは、

「馬鹿を言え。お前のように若く、体格に恵まれた奴と打ち合えば、儂はその場で死んでしまうではないか」

 と笑うのみであった。


 スヴェートは、たとえばあの戦乱の中、時の丞相ニコと共に戦場を駆け、数多の敵を星にしてきたザンチノによる英才教育を受けていたわけでもない。

 彼が受けている戦士としての教育とは、もっぱらこのようなものだった。


 拳と拳の戦いなら、負けたことはない。だが、剣ならどうか。自分の命を奪うことだけを目的とし、そのためにそこに存在する敵という者に出会ったとき、自分はどうなるのか。スヴェートは、しばしばそのようなことを考えていた。

 頭の中に、敵という者を思い描いてみる。

 それは、ザンチノのように武器を構え、その切っ先を自分の生命に向けている。

 そのようなとき、どう踏み出し、どう受け、どう斬るのか。

 ザンチノの、老いた柔らかな構えが変化し、それが斬撃になり、スヴェートはそれを受ける。ときに流し、ときに斬撃は思わぬ方に変化し、斬られもした。その度、またスヴェートは汗で全身を濡らすのだ。そして、今頭の中で描いたことを確かめたくなり、夜、ザンチノが眠ってからひそかに小屋を抜け出し、剣を振るってみたりするのだ。


 ザンチノ、ザンチノと言うが、どのようにしてザンチノと暮らすようになったのかは、彼は知らない。気付けば、このシャラムスカの村にいた。

 幼い頃の記憶は、僅かにある。

 褐色の肌、自分と同じ色をした眼の女が、母であろう。父の姿は、どうしても思い出せない。

 それに、ひときわ薄く、銀色のようにも見える髪の女。それをきらきらした綺麗なものであると思っていたようなあやふやな記憶がある。

 あとは、戦士たち。どれが誰なのかは分からぬ。

 ザンチノに自分の生い立ちのことを訊いても、答えてくれない。彼はスヴェートがこのパトリアエ建国の英雄であるウラガーンの一員、ルスランの子であるとは知らせぬし、自らがかつて丞相ニコのもとで王家の軍の重装騎馬隊を率いてそれと戦った身であるとも言わない。ただ、かつては戦場にいたとのみスヴェートに伝えていた。

 そんな具合だから、わざわざ根掘り葉堀り訊くほどのことでもないのだろう、とスヴェートは思っている。自分の生い立ちのことだから大いに興味はあるが、時がくれば明らかになっていくだろうし、分からぬままならばそれまでのこと、くらいにしか思っていない。



 ここまで書いて、確信した。

 スヴェートは、この時点では、何者でもない。原典を編んだ者も同じ考えを持っていたのであろう。だから、彼をどう描いたものかと筆に迷いが走ったのだ。書けることといえば例の占い師の話くらいのものだから、取って付けたようにそれを書いたのだと思うと、おかしみを禁じ得ない。

 このままシャラムスカにいる間の彼のことを書き続けても仕方がないから、少し時を進める。

 彼が世に出るための転機になった日のことを。

 そのために、ほんの僅かに、彼から眼を逸らす必要があることをご承知いただきたい。

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