第二部 誰ぞ知らん、墜星の歌

静かな夜のこと

 十五年。言葉にすればごく短いものであるが、四八一年から四九〇年まで続いた創世の戦いは、ナシーヤに深い傷を残した。いや、正確には、それまで数百年の間蓄積されてきた人の痛みが、悲しみが、怨嗟が、それを打ち払うことへの渇望が露わになった。ある意味では、ナシーヤという国家はとっくに滅び去っていて、その殻のようなものだけが残っており、そのことを明らかにしたと言うこともできよう。


 空白となった王座を継ごうとしたニコと王家の軍を倒し、ナシーヤという国号を撤廃してパトリアエを打ち立てたウラガーンが行ったのは、反乱でも反逆でもなく、人の声を世に現すことであった。

 動くべくして動き、成るべくして成る。史記はそう言うが、筆者は、ウラガーンが、それをほんの少しだけ後押しをしたものであると思う。


 十五年。パトリアエが斧と盾と龍と精霊の翼があしらわれたその旗を王都に打ち立ててから、十五年。彼らはその間にナシーヤから受け継いだ統治機構に改良を加え、諸侯の力を奪いながら統治を強めるために、国を中央と地方という二つの括りに大別してそのどちらも王家の管轄であるとし、諸国が乱立していた頃の名残であるナシーヤ封建統治の脆弱さを改めた。

 サヴェフが謀ってユジノヤルスクを攻めさせたグロードゥカを平らげ、そこに全ての首都機能を移し、ようやくそれも自転を始めつつある。赤子に例えるなら、ができるようになった頃であろう。

 無論、それまであった権力を減殺され、飾りのようになってしまった各地の候の反発が、十五年の間に多くあった。それらは、ザハールやラーレなど十聖将が出向き、黙らせた。


 国とは、倒してそれに代わるものを打ち立てて終わりではない。ローマもモンゴルも漢も、ほんとうに苦労したのはそのあとのことである。たとえば始皇帝で有名な秦などは、その創業こそ良かったが、そのあとのことでつまづき、早々に滅んだ。そのことをサヴェフが知っていたかどうかは分からぬが、パトリアエ創業のとき、彼はヴィールヒに、

「ここからだ」

 と言ったというから、認識は強く持っていたものであろう。


 また、取りとめもない文を綴っている。

 これから描くのは、上に挙げたサヴェフの言葉のこと。それのみをはじめに書き置いておきたく、示した。

 ヴィールヒは、かつて言った。国から、国を奪うと。

 ザハールは、かつて言った。自分を、人から何かを奪う、最後の人にしたいと。

 彼らは誰もそれを望まぬのに、一様に生きながらにして建国の英雄となってしまったが、彼らの求めるものは、半ばは成り、あとの半ばはまだ雨の粒を指すように不確かで遠い。

 それを、彼らは、なお求める。



 さて、気が満ちた。

 書くとする。



 彼は、山間の道を駆けていた。その体を、東の大山脈にせき止められた雲からもたらされる雨が濡らしている。陽はないが、日没が近い。彼は、背も高く体つきも立派な青年だった。惜しむらくはその髪が父譲りの赤土色をしていることで、これがもし金髪であれば、村の女どもも放っておかず、とっくに軍の者から誘いがかかっているであろう。

「ザンチノ、ザンチノ!」

 そう呼ばわって、住処にしている小屋の扉を大きく開いた。

「おお、スヴェート。戻ったか」

 小屋の中には、老人が一人。その顔には、深く刻まれた皺のほかに、無数の古傷。片目もそれで潰れているものらしく、右目に眼帯をしている。

 ちょっと黄色味を帯びた髭を一つ笑ませ、彼を迎えた。

「ほら、こんなになった」

 彼が差し出した袋には、ずしりとした重みがあった。

「おお、そうか。焼き物が、よく売れたようだな」

 ザンチノは穏やかに頷き、雨に濡れた彼が身体を冷やさぬようにと火を焚いてやった。青年は外套を戸口に掛け、からからと笑い、それを制した。

「ザンチノ。もうこんな季節だ。風邪なんて、引くもんか」

「念を入れ、入れすぎるということはないのだ」

 この老人がこの眼をするとき、その言葉には青年が知り得ぬ重みを持つ。だから、半端に笑いながらも、従うしかなかった。


 ただ黙って、火にあたる。老人はその火に兎の肉と平べったい鍋をべ、そこに練って寝かせておいた麦の薄い生地を乗せた。枯れ錆びた老人と、みずみずしい若者の二人が、それが焼けてゆく音に照らされている。

「いつか、いや、近いうちに」

 老人は、それが焼ける頃、口を少し開いて言った。歯がないのは老いのためではなく、昔の戦いで折れて失ったためであるらしい。

「お前は、世に出るだろう。世が、お前を求めるだろう」

「そんなものか、ザンチノ。あんたは、いつもそう言うが」

「分かるのだ。だから、儂はあのとき自ら死を選ばず、生を継ぐことを選んだ」

「それも、聞いた」

 老人が、この小屋の裏の釜で焼いた器に焼けた料理を載せ、青年に差し出した。

「お前は、光。人のスヴェートなのだ」

 それが、青年の名。


 彼の父の名は、ルスラン。彼が三歳の頃、四八九年の戦いでウラガーン重装歩兵団を率い、死んだ。

 彼は、光だった。そうなることを願い、その名を与えられた。だが、その名を与えられたからといって、彼がそのまま光になるとは限らない。

 彼が望むか望まぬかに関わりなく、彼は光となることを追い、求める。その二つの瞳に、他者の放つ光を宿しながら。


 彼は、見る。

 墜ちる星の、その光のゆく先を。

 そして、知る。

 国の行く先を。人の求めるものを。

 その生の全てを懸け、示す。

 この世に、善悪はないということを。それでも人は善を創り、悪に依りかからねば生きてはゆけぬということに従い、己と世とを繋ぐことを、示す。


「雨が、止んだか」

 ザンチノが言うので、スヴェートは口に料理を頬張ったまま、少し窓の木枠を開いた。

 龍の鱗の、その牙の、そして双眸の光。それが、雲の晴れた天にあった。

 去った雨の雲を追うように、風がひとつ。

 スヴェートは、それを眼で追った。

 彼は、その風がかつて暴れたことを、そして再び暴れるかもしれぬことを、まだ知らぬ。


 ノーミル暦五〇五年。上がった雨の匂いからして、初夏であろう。

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