四八九年九月九日、名前のない時間に

 やはり両軍は睨み合いのまま陽が落ち、夜が更けた。ウラガーンがぐっと前線を押し出して来たとはいえ、両軍の陣は目視では確認できない距離ではある。だが、夜の闇の中でなら、互いの陣で炊ぎのために焚かれる火の明かりなどは見えた。


 この広大な原野で戦いをしながらも、やはり、夜になれば疲れるし、腹も減る。人はこの当たり前のさがから、解放されることはない。

 前列ルスラン、中軍ラーレ、そして後列の本軍。その更に後ろで、工兵、輸送兵、サヴェフの兵とが入り混じり、落とし穴を掘り続けている。掘り続けて腕が上がらぬようになった者は休み、別の者に代わった。


「こんなところまで来て、穴掘りとはな」

 ヴィールヒが、皮肉交じりの口調で言う。

「単純だ。だが、効果的ではある」

 サヴェフが、無表情に答える。

「痛むか」

 眼を細めたまま、ヴィールヒが別のことを言った。

「痛む、とは?」

「心が」

 曇天。しかし、雲はやや薄い。だから、闇もまた薄い。ぼんやりとそれが銀色になっているところに、月があるのだろう。

「心とは、己というものに、いつも付きまとうものだな」

 サヴェフは、この変わった盟友に、心情を吐露した。

「押し殺しているのか。お前の言う、志のために」

「さあな。考えたこともない」

「いつも、考えているではないか」

 ヴィールヒの声に重なって、どこかで虫が鳴きはじめた。

「考えることは多い。しかし、私自身のことを考えることは、ほとんどないように思う」

 サヴェフとは、そういう男である。目的のためなら、自ら悪を行うことも厭わず、たとえそれがために人に憎まれたとしても、彼は変わらず眠ったような眼で次のことを考えるのだろう。

「押し殺しているのだ」

 ヴィールヒは、断定した。

「そうなのかもしれん。しかし、それは、私たちには、関わりのないことだ」


 自我の超越。その向こうにある、自我。それは己自身の存在を、世に、人に溶かしこみ、求めることだけを求めることが出来るもの。この時点で、サヴェフはそういう領域に足を踏み入れていたのかもしれない。

 だが、彼は紛れもなく、人。精霊でもなければ、龍でもない。彼の身体も斬れば赤い血が流れるし、病になれば死ぬ。

 だが、それがために生物としての性質に従って安全を求め、人間としての性質に従って人に受け入れられようとするようなことはない。


「押し殺すのは、悪いことではない。良いことでもない。そう思う」

 ヴィールヒが、またぽつりと言った。

「お前にしてみれば、押し殺すだけの心があるだけまし、といったところか」

 サヴェフが、苦笑した。

「まあ、いい。お前はお前の求めに従い、あの穴を掘らせている。それにあの馬の群れを落とすために、また犠牲を強いようとしている」

 サヴェフは、答えない。ただ雲が円く光る一点を、見つめている。

「だが、それは、彼らの求めるところでもあるのだ」

「彼らの?」

「あのとき、どのようにして敵の馬を穴に放り込むのかということをペトロに言わせず、お前が口にしたのは、お前の優しさというものだ」

 優しさ、という言葉がしっくり来ず、サヴェフは首を傾げた。

「だが、人は、お前が思うほど、弱くはない」

 雲越しの月の明かりしかないはずなのに、サヴェフを見るヴィールヒの眼が、細くなった。



 それぞれが、闇が薄明るく塗り替えられてゆくのを見ている。

 月も、真っ黒な地平の向こうへと立ち去った。月というのは闇を払うものではあるが、それが去った後、ほんとうの光が訪れるというのは不思議である。


 サヴェフとヴィールヒが見た夜の続きに、ルスランもまた居た。

「緊張しているか」

 傍らの副官に向かって、笑いかける。

「はい。しかし、怖れはありません」

「そうか。頼もしいな」

「ルスラン殿のようになるには、まだまだ修練が足りません」

 そう言われて、ルスランは大口を開けて笑い、その副官がむせ返るほどに強く背を叩いた。

「馬鹿を言え。俺など、毎日、怖れしかない」

「まさか。ルスラン殿に限って」

 副官は、斧の一振りで馬ごと敵を粉砕するような自らの将の心に、怖れの心があるとは微塵も思っていないらしい。

「あるのだ。俺には。むしろ、人一倍、それが強いように思う」

 ルスランの声が、ふと静かになった。副官も、じっと耳を傾けた。


「今まで、何度、戦場に立ったか分からん。その度に、俺は生き残ってきた」

 鍛えに鍛えた肉体と、常人では考えられぬほどの武。それが、もう四十を幾つも超えたルスランを、ここまで生かしてきた。

「だが、戦いの度に、俺は怖かったのだ。今から、自分が死ぬかもしれぬと思うと、怖かったのだ。だから、必死で槍を振るい、敵をなぎ倒し、生き延びた」

 朝と呼ぶには、世界は闇でありすぎた。その名前のない時間にだけ鳴く生き物がいる。あるいは鳥でありあるいは獣であり、あるいはルスランであるかもしれなかった。


「その恐怖をくぐり抜け、血と屍でもって道を作り、生を繋ぐ。俺には、それしか喜びが無かったのだ」

 こんなときだからだろうか。普段、決して言わぬようなことを、ルスランは語っている。それは、とても大切な何かであるような気がして、副官はその言葉を確かに己の中に取り込もうとしている。

「だから、俺にとって、戦いとは、生そのものだった。それが、怖い」

「死に触れているときにはじめて、生を感じられる、ということでしょうか」

「まあ、そうなんだろう」

 ルスランは曖昧に笑い、息を一つついた。

「そして、ライラを知った。スヴェートも生まれた。そうすると、もう、戦いそのものが、怖いと思うようになった」

 愛する妻。そして子。それを得たとき、ルスランは死をくぐることを怖いと感じるようになった。それでも、戦わなければならぬ。彼は、戦わなければならぬ人間だった。これがルスランでなければ、妻と子と共にどこかで静かに暮らし、戦いを避けながら生きるということを選べたかもしれぬ。しかし、彼は、それをするには、国というものを知りすぎていた。

 それを選べば、彼は、自らの愛する妻子に、奪われることに怯えながら過ごす生を強いることになる。それを選ぶことは、出来なかった。死。それは、愛する者との永遠の別離。それが迫るのを背に感じ、冷たい汗を流しながらなお、彼は分厚い鎧兜に身を包み、愛用の大斧ヴァラシュカを握り締めるのだ。

 その斧でもって、愛すべき人を苛むものを、打ち砕く。その先でこそ、彼らは生きることが出来る。そう思うようになったのだ。


 ルスランが弱くなったのか強くなったのか、そのどちらであるのか断定することが出来る者はいまい。だが、ラーレや兵などの心の揺れを機敏に感じて声をかけたりするこの優しい大男は、かつてのように、戦いそのものを喜びとし、糧として生きるということを、とうに止めていたものらしい。

「そろそろ、夜明けだ」

 ルスランはそう言って、今度は柔らかに副官の肩を叩き、傍に置いていた鎧兜を身に付けはじめた。

「お前が何のために戦うのか、それはお前だけが知ることだ。お互い、生きよう」

 身に付け終わってから、兜の奥で、言った。顔まで覆い隠しているから表情は分からぬが、声は、笑っていた。



「そろそろ、夜明けだ」

 ラーレが、波のような模様を灰色に浮かび上がらせ始めている空を見上げ、言った。いつの間に雲が出たのだろう。

 その空は、今の彼女そのもののようであった。

 色はない。だが、灰色である。ところどころ、白っぽかったり、黒っぽかったりする。雲の薄いところと厚いところで、色が違うのだ、と当たり前のことを思った。

 やはり、彼女そのもののようだった。

 ヴィールヒと、話をすることが出来た。ずっと、それを望んでいたのだ。中央に戻ってからも、その機会をずっと窺っていた。ついに訪れたその時間のことを思い返すと、特に何を話すわけでもなく、ただ星を見上げて終わっていたように思えた。

 今の自分は、何を見て、何を知ったのか。それを見て、自分を路傍の石ころのようにしか見ていなかったヴィールヒは、何を思うのか。

 答えは、変わり映えのないものだった。

 彼が、聴いている歌。

 それが聴きたくて、ラーレは、自分そっくりの空を見たまま眼を細めてみた。ちょうど、彼がいつもそうするように。

 ぼやけて滲んだ雲には、白も黒もなかった。ただ、薄っぺらく張り付けたような灰色があるだけだった。やはり、自分に似ていた。

 兵の行き交う音。何かを伝達しようとする声。飛び立つ鳥。耳をなぞってゆく風。それに流される旗。それは、この世に確かに存在するものが、その存在ゆえに立てることが出来る音であった。

 自らの耳の中で聴こえる音。それが、聴こえた。この音は、この世のどこに存在するのだろう、と思った。

 何がその音を発するのか、ラーレは知らない。だが、はっきりと分かった。その音は、自分の内なるところから発せられているということが。眼を細めている間にずっと聴こえるそれは、まだこの世に存在していない音なのだ。

 星の歌。

 これを、ヴィールヒはそう形容したのだろうか。あるいは、もっと別のもののことを言っているのだろうか。ヴィールヒにしか見えぬものがあり、ヴィールヒにしか聴こえぬものがあるのだろうか。


 凄まじい武を持つとは到底思えぬ細い身体。薄白く、頼りなげな肌。見ようによっては、少年のようにも見える。そして、閉じているのか開いているのか分からぬほどに細めた眼。ぽつりぽつりと吐き出される、刃のようで、それでいて火のような言葉。それが、ラーレの中で渦を巻いている。

 ヴィールヒを通して、自らを知る。それを期待するなと言った。では、彼女は、ヴィールヒのようになってしまうしかなかった。だが、それは人が求めて得られるものではなく、彼がむしろ、人が持つべき全てのものを奪われたからこそあのような存在であるということは理解している。

 では、どうすればよいと言うのか。

 答える者はない。


「ラーレ」

 名を呼ばれる度に、背骨に雷が落ちたかと思う。自分の名を知り、覚えているのだ。ただ人の痛みを、背負うべき何かを肩代わりするだけの生しか知らぬ自分の名をヴィールヒは知り、口に出して呼ぶのだ。今まで、何千、何万の人が自分の名を口にしたか分からぬ。だが、そのどの響きにも、自らが人形であるということを示す以外のどんな意味も見出せなかった。

 だが、ヴィールヒは、ラーレに肩代わりを強いぬ。むしろ、ラーレのすることが特別なことではなく、どこにでもあることで、それをするラーレは、どこにでもいる人間だと言ってのけたのだ。

 そのヴィールヒが。

 何度も、思考は同じところを巡る。いや、もしかしたら、はじめの場所から一歩も動いていないのかもしれぬ。

 分からない。

 だが、ヴィールヒの薄い唇が動き、自分の名を発音した。そのことは、どこにでもあることではない。そう思った。


「ラーレ様?」

 また、名を呼ばれた。そうすると、星の歌は聴こえなくなった。はっとして視界を戻すと、数人の兵が、ラーレを覗き込んでいる。

「――ゆく」

 双つの剣を、抜いた。それだけで、ラーレの陣の気が昂ぶった。

 進発。

 もういちど、天を仰いだ。

 やはり、灰色の雲がそこにある。

 自分そっくりだ、とまた思った。

 雲は、今にも、泣き出しそうであった。

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