静寂の中で
本軍と合流を果たしたザハール、ルスラン、ラーレの三将は、あまりの事態に絶句した。
「ベアトリーシャだけでなく、まさか、サンスまで――」
ザハールと共にこのサムサラバードに至ったアナスターシャが、涙をこぼした。
「皆に、話したいことがある」
ペトロが、全員に向かって、作戦を説明した。
落とし穴を掘るのを秘匿するために軍を前に出し、ぶつかり合わせることまでは、伝えた。だが、その先のことは、言えなかった。
それが一通り終わると、それぞれが、自らの隊のところで、朝を迎えるための体勢を取った。ある者は休息し、ある者は武具を改め、指揮官は隊形や指揮系統について打ち合わせをした。
その中で、ラーレは、一人、隊から離れ、星が墜とす自らの影を踏んだ。
「お久しぶりです」
そう声をかけた背は、ヴィールヒのもの。星を見上げていた首を回し、
「なんだ、お前か」
と興無げに言い、また視線を空に戻した。
「よろしいでしょうか」
ラーレは、断りを入れ、彼の座る隣に自らの身を置いた。
「星を?」
ヴィールヒは、答えない。
「聞きたいことが、あるのです」
なお、ラーレは言葉を発した。やっと、ヴィールヒの顔が、ラーレの方を向いた。
「――黙っていろ」
沈黙。
それと、静寂。あちこちで、兵の声。それが遠く聴こえるから、かえって静かであった。
耳の中の音。
その瞳の外。
言葉が、封じられるほど。ラーレの唇は、それを紡ごうと、静寂への抵抗を示す。
聞きたいのだ。
自分の姿を見、発せられるヴィールヒの言葉を。
「お前は、ただの女」
そう言って自分を縛り付けた、ヴィールヒの声で。それを、求めている。
だが、しかし、言葉はない。
代わりに、星が瞬いている。それを宿すラーレの瞳は、じっとヴィールヒに注がれている。
「お前」
遂に、ヴィールヒが、その眼をラーレに向けた。星明りの下でだけ、開かれる眼。彼の眼は、光を嫌いすぎる。それから眼を背けることなく、ただ細めて、それを見る。
星の光は、彼の眼を苛むことはない。ただ静かに歌い、滴を墜とすのを、彼は見ることが出来た。
ラーレの瞳に、それが映っている。
「何をしている」
まるで、ラーレが存在することを今はじめて気付いたような口ぶり。ラーレは、かっとした。
「あなたと、話をしたいと考え、ここに来ました」
「俺と?」
ヴィールヒは、さも意外そうな顔をした。
迷い。芽生えた、気負い。自らでは、答えは得られぬ。人となり、龍となってはじめて抱く、その不可逆的な何かが前進することを、ラーレは望んでいる。
トゥルケンにいた頃には、なかった感情である。
「何を、話すというのだ」
ヴィールヒが冷たいのではない。彼にしてみれば、当たり前のことである。ウラガーンに参じて以来、トゥルケンに戻り、ずっと戦っていたラーレが自分と話したがっていたとは、夢にも思うまい。
「あなたの目で見た――」
ヴィールヒの眼が、また上に。
そこに、星がひとつ墜ちた。
「――わたしは、今、どう映っているでしょうか」
ヴィールヒが、困ったような顔をした。
「どう、と言われても」
「あなたは、言った。わたしが、どこにでもいる、ただの人であると」
言ったかどうか、覚えていない。
「あれから、ずっと、ずっと、考えていました。あなたの言う通り、わたしは、この国に多くある、ただ奪われ、何をすることも出来ず、ただ強いられた生を過ごすだけの女でした」
ヴィールヒの眼が、どういうわけか、また細くなった。そうすると、ラーレの知る顔になった。
「けれど、わたしは、知ったのです」
なにを、とはヴィールヒは言わない。だから、勝手に、言葉を継いだ。
「いのちを。それを、知ったのです。戦いとは、それを奪うことであると」
ふと、また見上げた。
そこに、変わらず、星があった。しかし、ここに腰を降ろしたときの姿を思い返すと、ほんの少し、それは移動をしているようにも見えた。
星は、動く。じっと見ていても動かぬが、少し眼を離し、また見ると、動いている。
恐らく、人もまた。
その日、その日に訪れる変化は少ない。だが、あるとき気付くと、以前の自分とは全く異なる位置に立っていたりするものだ。実際、ラーレのみならず、ウラガーンに居る全ての人間は、そのようにしてここまで来た。
ただの盗人。傭兵。ごろつき。博徒。賊。そういう、どこにでもいるただの人が、何事かを生の中に見出し、それを追うことこそが生と思い定め、今ここに至った。その過程で、ジーンは、ベアトリーシャは、サンスは死んだ。
筆者は、思う。人の死とは、その者がどう生きたのかということを示す、一つの指標であると。
本来、生き様、という言葉は無い。用いられだしたのは、ごく最近のことであろう。しかし、死に様、という言葉は古くからある。生き様は、その人間を見れば自ずと分かることであるから、わざわざそれを示す語を設ける必要がなかったためであろうと思う。死に様という語が古くから存在するのは、その者の死を知ることで、その者の生を知り、ときに追体験することが出来るからではなかろうか。
筆者は、言語学者ではない。ただ、そういう想像をしているというだけの話である。それを前提として、彼らは、死というある種極限の状態をもって、その瞬間、自らの生を提示したように思う。
それを美化するつもりはない。
死とは、ただ死。そこに質量も、意味もない。だが、生きる人にとっての知り人の死というのは、意味もあり、質量もある。不完全で、歪んでいて、そしてとてつもなく美しいのは、死ではなく、生こそが。
死者の物語を、人は、天体に託すことがある。あるいは、文字に。その二つは、とても似ているようにも思える。星とはそれ単体では、何の意味も持たぬ。ただのガスの塊が成り行きで燃焼しているに過ぎず、それが放つ光は、意味のない化学反応の産物である。
だが、それを見た人は、自らの中にある何事かにそれを置き換え、自らの中にある何事かを委託し、星に名を付け、意味を与え、空想やあるいは死者の姿を仮託する。
文字もまた。
それ単体で意味を持つ象形文字や表意文字ならいざ知らず、我々が普段用いているようなひらがな、アルファベット、あるいはキリル文字やアラビア文字――数字は明らかな表意文字ではあるが――のひとつひとつに、意味などない。「a」という文字は何も表さず、「あ」はただ「あ」である。
しかし、それを、人は組み合わせ、示すことが出来る。人の内にあるものを。世界が自らに求めてくる関係性を。
人は、死を無視することは出来ない。人が、自らと世界との繋がり合いを最も意識するのが、死に触れたときであるからだ。それはある意味、生に触れたときであるとも言える。
そのとき、人は、持ちうる全ての道具を駆使し、それをどうにか消化し、理解しようとする。もしかすると、生や死は、人が受け入れるには、少々荷が重いのかもしれない。だから、言葉や文字という調理法を駆使し、人はそれを受け入れ、あるいは拒もうとする。
そのようなことまで、今ここにいるラーレやヴィールヒが考えているとは思えぬ。ただ、何となく、星を見上げたり、言葉を発したりしている彼らの姿を描くにあたり、何故彼らがそれをするのかということについて触れておきたくなったのだ。触れて、このウラガーン史記というものも、まさに文字という媒体を通じ、彼らの生と死を調理し、我々の向き合うテーブルに提供するものであるということに気付いたことも付け加えておく。
続ける。
「お前は、何を見た」
いのちの、その先に。
「未だ、何も見えません」
ラーレは、正直である。ヴィールヒが、口を歪めた。一瞬のあと、ラーレはそれが笑顔であるということに気付いた。
「ならば、それを、俺に求めるのは、筋違いというものだ」
当たり前である。ヴィールヒとはあくまで他者であり、ラーレ本人ではない。であるにも関わらず、ラーレは、ヴィールヒの言葉と声を求めている。
己の姿を、言葉に仮託して。表されたがっている。そのこと自体に、意味はない。だが、どうやら、ラーレは、そのこと自体に、意味を欲しているらしい。
ひどく歪んでいて、正直である。
「俺に、期待するな」
ラーレは、まだ若い。はじめて史記に名を連ねたとき十五であったから、このときもまだ十代なのだ。その年代特有の何かに、彼女もまた苛まれているのかもしれない。
「かつて、俺がそう言ったのなら、今俺が言うことも、変わらん。お前は、ただの人だ。どこにでもいる、ただの」
ヴィールヒが、立ち上がった。面倒になったのだろう。ただ、一言、付け加えた。
「――聴こえるか」
兵が、遠くで呼び交わす声。鳥。草の揺れる音。それが、この夜を静かに濡らしている。ラーレが、耳を澄ませる。
「俺には、聴こえる」
「何が、聴こえるのです」
「あの星が墜ちるとき、一度だけ、歌う歌が。絶えず、ずっと。聴こえている」
ヴィールヒの言う意味が、分からない。ラーレは、ただ曖昧に頷き、その背を見送った。
闇の向こうの、音のある静寂にその背が消えても、なお。
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