第十八章 龍と獅子

「サンスまでも――」

 ペトロが、言葉を失い、膝をついた。サヴェフは、眠ったような眼で、壊滅した前線の方を見つめている。

「死ぬことはなかった、死ぬことは」

 ジーン。ベアトリーシャ。イリヤの生死は、不明。そして、サンス。

 ペトロは、勝つための策を講じた。その中に、想定される損害なども織り込んである。人がどれくらい死ぬのか、予め想定をする。そのことは、とても辛いことである。言い換えれば、ペトロが、その者らを殺しているのだ。

 しかし、ジーンやベアトリーシャらの死は、織り込んでいなかった。血も涙もないような言い方ではあるが、彼らは、死ぬはずのない人間であった。死んではならない人間であった。では、死んでもよい人間とは誰のことなのか、という疑問には、ペトロは答えることは出来ない。

 死んでもよい人間など、おらぬのだ。当たり前のことであるが、結局、そこに戻ってくる。


 サンスが、文字通り命懸けで、あの恐ろしい馬群を凌ぎ、そのために、ウラガーンはなおこの戦場に留まることを許された。全体の一割近い損害と、他の誰にも代われぬ将の命を犠牲にして。

「次にもまた、あれが来る」

 サンラットが、戦場を遠望し、呟いた。あの馬が曳く車をぶつけてくる攻撃は、サンスのように大きな犠牲を凌ぐことでしか、避けられぬのか。

 手も足も出ないとは、このことであった。

 ベアトリーシャの兵器が到着すれば、あるいは。

 しかし、燃える水ヴァダシーチや石灰などを射出しても、その効果範囲を限定するのは困難である。それは、あくまで、城壁を守ったりしてその場から動かず、密集している敵に対して、効果を発揮するもの。

 それを移動する馬に対して使っても、ある程度の効果は期待出来るにせよ、止めることは出来はしない。残った馬群の突撃を受け、破壊されるだけだろう。


「どう思う」

 サンラットが、サヴェフに意見を求めた。

「このようなことを言えば、ペトロは気を悪くするのだがな」

 と皮肉とも断りともつかぬ言葉を挟み、サヴェフは眠ったような眼をそのままサンラットに移した。

「サンスが死んでまであれを止めてくれたおかげで、我々は、ザハールやルスラン、ラーレのことを待つことが出来る」

 それで、どうなるというのか。

 彼らが来たところで、またあの馬の群れが来れば、ウラガーンは粉々に粉砕されるだけではないか。そのことに関する打開策を求めているのに、サヴェフは、それきり、言葉を切ってしまった。

 ペトロも、サヴェフですらも、どう戦い、どう王家の軍を打ち倒すのか、具体的な方策を思い付いているわけではないようである。

 ひとつ方法があるとすれば、イリヤをニコのもとに送り込むということであるが、イリヤもまた死んだか、行方をくらましたか、分からない。

「俺が、行こう」

 ヴィールヒが、気軽に腰を上げ、眼を細めながら伸びをひとつした。


 単身で。王家の軍の中心に忍び込み、ニコの首を取る。

「それは、絶対に駄目だ」

 サヴェフが、強く制した。

「お前とアナスターシャの二人は、我らの中で、最も死んではならぬ者なのだ。あえて、命に軽重があるように私は言う。他の誰の命よりも、今、この場においては、お前とアナスターシャのそれは、重いのだ」

「では、どうする。俺とあの女を守り、全員で屍を積むか」

「――それは」

 これまで、全てを見透し、ここまでウラガーンを導いてきたサヴェフが、言葉に詰まった。いや、彼はこの場のこと以前に、のことを見ている。だから、この急場のことについて、方策をすぐに捻り出すことが出来ぬらしい。

「何のために、俺たちは、ここにいる」

 ヴィールヒは、感情の宿らぬ声で、言った。

「分かっているはずだ。俺が、行くしかないと。それとも、お前が代わるか、サヴェフ」

 サヴェフが、肩を落とした。

「いや、待ってくれ」


 ペトロが、サヴェフの代わりに顔を上げた。

「ある」

 方策が。あの馬の群れを凌ぐ、方策が。

「まず、皆に詫びたい。俺は、勝つための方策をのみ、考えてきた。それがしくじった場合は、全員の力をぶつけ、王家の軍を倒すしかない、と決め込んでいた。そのために、死ななくともよい者を死なせてしまった」

 と、軍師として詫びた。

「考えておくべきだった。もっと。こういうとき、どうなるのか。そして、どうするのかを。あの馬と車を用いてくることは、トゥルケンとの戦いのときのことから、想定できたはずだ」

 誰も、ペトロを攻めるつもりはない。包囲の構えを見せ、王都に急行するつもりであった。ベアトリーシャが討たれ、その作戦を放棄することになるとは、誰にも想像出来ないことであった。

「策を、言え」

 前提としての言葉を打ち切り、サヴェフが方策を求めた。

「穴だ」

「――穴?」

 サンラットが、訝しい顔をした。

「サンラット。お前は、馬をよく用いるな」

「そうだ」

「馬で駆けているとき、穴があれば?」

「避けて通る」

「では、穴があることが分からなければ?」

「落ちるのみだ」

 それを聞いたペトロが、顔の半分を隠す前髪の奥の眼の下に張り付かせた隈を、少し笑ませた。

「落とし穴、か」

 馬鹿馬鹿しいほど、単純な策である。知られぬように落とし穴を掘り、そこに馬を落とす。それで、突撃を止められる。

 あまりに単純で、子供でも思い付きそうなものであるが、こういう危急の場においてそれを着想することが出来るというのは、ペトロの才あってのことであろう。


「だが、穴を、いつ掘る」

 サヴェフが、疑問を挟んだ。

「それは」

 問題である。穴を掘っていることが分かれば、落とし穴の意味は無くなる。夜の間に掘るしかない。しかし、夜の間に作業をするなら、灯火が必要になる。それを見られれば、やはり見破られるかもしれない。

 落とし穴、というものを着想したのはいいが、それをどう実現するのかということについて、考えなければならなかった。しかし、

「考えるまでもない」

 と、サヴェフが、いきなり真逆のことを言った。

「見えぬようにすればよいのだ」

「どうやって」

「ペトロ。お前にも、思い付いているはずだ」

「――こちらの軍を前に出し、それで隠し、後列に穴を仕掛ける」

 何故か、言い澱んでいる。

「名案ではないか、ペトロ」

 サンラットが、声を明るくした。だが、ペトロの表情は、暗いままである。

「そうなれば、軍同士のぶつかり合いに持ち込む必要が生じる。軍同士のぶつかり合いになれば、こちらが攻撃の手を少しでも休めれば、王家の軍は馬を発してくる。こちらとしては、それを絶対にさせてはならないという構えを見せなければならない。そうでなければ、何か策があるということを、知られてしまう」

 その打開策をも、ペトロは着想している。だが、言葉にすることが出来ないらしい。

「――誰かを」

 サヴェフが、口をまた開いた。その眼は、眠ったようになったまま。

「誰かを、犠牲にする。最前線に立てた、誰かを」

「策を隠すため、誰かを犠牲にし、と言うのか」

 サンラットの声が、また険しくなる。

「それしか、ない。軍を出し、ぶつかり合わせる。そして、誰かが押し負け、死ぬ。それで、我らの攻撃の手が休まる。ごく自然なことだ。ニコは、ここぞとばかりに馬を繰り出してくるだろう。それを穴に落とし、一網打尽にする」

 そして、残った隊で、ニコの本隊を討つ。

 作戦としては、辛うじて成立していると言えるかもしれない。しかし、それは、実行してはならない作戦である。

 だが、やらねば、ここで退くしかなくなる。

 サンスの働きにより、彼らは、この場に留まることが出来た。まだザハールらの三隊が到着していない今、本軍だけが先に退くわけにはゆかぬ。それをすれば、三隊は個別に撃破されてしまい、もう二度と立ち直れなくなる。

 いや、そうでなくとも、ここで一歩でも退けば、もう二度と立ち直れなくなるのだ。


 だから、やるしかない。

 今、戦いは止んでいる。王家の軍も、本格的な戦闘に向け、体勢を整えているのだろう。

 明日の、朝。

 それまでには、三軍は到着する。

「成れば、死ぬ。成らずとも、死ぬ」

 ヴィールヒが、ぽつりと呟く。それに答える者は、ない。

「遂げねばな」

 なにを、遂げるのか。

 それは、当人以外には、分からない。

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