迫る

「進発」

 サヴェフの号令。

 一万七千のウラガーンと、三百の工兵隊、そしてそれらを支える兵糧や資材を運ぶ者が、ラハウェリを発した。どうせ、あちこちに間者はいる。だから、むしろ王家の軍に対しておおっぴらにそれを宣伝してやるつもりで、軍を発した。


 それを受け、王家の軍は、サムサラバードの地に先に入らんと、急行してくるだろう。その裏をかき、それを取り囲むような地点に、三つに分けた軍を入れる。

 進軍。攻城、占拠。離れた三地点において、全ての行動を同時に行う。王家の軍がそれを知ったときには、既に完了していなければならない。だから、少しでもその拍子を崩すわけにはゆかぬのだ。



「先に、ゆく」

 イリヤが、外套を翻した。夏のことであるから、風通しの良い麻のものである。

 このときから、彼は、黒衣を用いなくなっていた。いや、黒いことは黒いのだが、縞模様の入ったものを用いていた。

 黒と、濃い茶色。それは、夜において、単色の黒よりも、なおイリヤの姿を闇に溶け込ませることが期待出来た。そして、浴びる血の染みを、目立たなくする。

 それを纏ったイリヤは穏やかに微笑み、工兵を率いて進発しようとするベアトリーシャに、先にゆく、と声をかけた。

「気をつけて」

 と、ベアトリーシャが返したのには、その場にいた全員が驚いた。彼女はいつも誰に対しても尖りきっていて、おおよそ人の心配をしたり気にかけたりすることがない。

「ああ。任せろ」

 イリヤはそのまま、一人で消えた。先に王都を目指している部下と、どこかで合流するのだろう。

 その背を、ベアトリーシャは、いつまでも見送っていた。


「仲が悪いと、思っておりました」

 いつも彼女のそばにいる、金髪の兵である。今の今まで物を取りに別の場所に行っていたが、イリヤと入れ違いに戻ってきたらしい。それが、ベアトリーシャの横顔に声をかけた。

「最悪よ。この世で、一番嫌いな男よ」

 そう言って目を背ける彼女を、苦笑しながら兵は見た。

「進発できます」

「遅いわね」

「申し訳ありません」

 この兵は、三点同時侵攻作戦の、東側の一点を任されていた。まだベアトリーシャの隊に入ってそれほど日は経っておらぬが、手先が器用で人付き合いも上手く頭も良かったから、ベアトリーシャは何かにつけてこの男を使っていた。この男も他の兵と同じく、ベアトリーシャの眼に止まるのが嬉しいらしく、喜んで無理難題を押し付けられている。

 イリヤのことを気にしているから、もしかすると、自分に好意を抱いているのかもしれない、とベアトリーシャは思った。しかし、どうでもよいことであるから、特に気にしない。とにかく、作戦の成功のため、急がせるのみである。



 ベアトリーシャ、ルスラン、ラーレ、ザハールの部隊が進発し、サヴェフとヴィールヒはサンラットのバシュトー軍を含む二千の兵を引き連れ、ラハウェリを発った。

 ザハールは、身重になったアナスターシャを連れている。ルゥジョーのことは、アナスターシャから何も聞いていないらしい。


 進軍速度をそれぞれ調節し、さもサムサラバードを目指すかのような経路を辿り、西へ。

 途中で、三隊に分かれる。最も西を目指すザハールの隊の進軍速度が、上がる。それに従う工兵は、ベアトリーシャ自身が率い、

「早く。遅れないで」

 と無表情に言い、ザハールの騎馬隊に遅れを取るまいと急がせている。



 進発からちょうど四日後の昼、三軍は目標としている地点に、同時に至った。

「首尾は、上々だ」

 各地点からの報告を受けたペトロは、ゆったりとサムサラバードの地を目指しながら進む軍を率いている。

 仕上げだ、とはサヴェフは言わない。ここから、始まるのだ。アナスターシャの身体に子が宿ったと知ったときは、どうなることかと思った。しかし、彼女自身の意思で、作戦を破棄せずに済んだ。

 王家の軍も既に王都から進発したと諜報網を通して報せが入っている。

 全て、上手くいっている。あとは、三点を同時に攻め、即座に陥落させ、王家の軍をサムサラバードに貼り付け、一気に王都を目指す。


 長いようで、短かった。短いようで、長かった。しかし、サヴェフは、振り返ることはしない。彼にとっての過去とは考察の対象であり、懐かしむものではないのだ。

 そして、未だ事は成らぬ。これからなのだ。そして、遂げるのは、更に先の先。この期に及んでもなお、サヴェフのその考えは変わらない。王家の軍を倒すことが目的でもなければ、国家を奪うことが目的でもない。その先にあるもののために、その手段を行使しようとしているのだ。

 最前列をゆくバシュトー騎馬隊。それに続くサヴェフとペトロの軍。

 旗が、風に。

 その風は、西から吹いていた。

 ソーリ海から吹く風が、ここまで届いているものらしい。




 イリヤは、その頃、既に王都に入っていた。石畳の街路を見下ろす夏の日差しを避け、ひそかに路地裏を移動している。彼のもともとの住処は、彼が龍となってからもなお、彼を守った。

 王都の守備軍は、最小限の数しか残っていない。ペトロの読みは、当たったらしい。民もまた戦いを恐れ、街路をゆく人影は少ない。イリヤと彼の軍の者は、その中を、影のように滑った。

 ウラガーンが三点を陥落させ、この王都を目指してくる。そのとき、彼は城門の守備隊の前に姿を現してその指揮系統を崩壊させ、ウラガーンを城内に引き入れる。そして閉じてしまえば、王家の軍はもうこの王都に戻ることは出来なくなる。

 背後には、ウラガーンに同調する各地の勢力。

 それらが、王都を奪われ、鳥の籠となった王家の軍を、放っておくはずがない。おそらく、時代の変化を察知し、我先にとそれに掛かり、あらたな時代の建設のとなろうとするだろう。


 サヴェフやペトロの頭の中がどのようになっているのか、イリヤには想像も出来ない。世の情勢や、各地の候の思惑なども、知ったことではない。ただ、彼は、彼にしか出来ぬことをするのだ。

 自らの存在を人に知られることを恐れ、誰の目にもつかぬように生きてきた。彼を見下す眼と戦うことを避け、ただ路地裏から、大通りを睨み付けていた。彼が食うものに困ったときは、そこに出て、金持ちの金髪に言いがかりをつけ、金を奪った。

 そしてまた、それを隠すように、路地裏の暗がりへ。

 龍となった今、彼の言いがかりは、独特の反りをもった片刃の剣に。その代わり、彼は、目的を果たすのに、多くの言葉を用いる必要がなくなった。

 龍となった今、彼を守る路地裏の暗がりは、黒と濃い茶色の外套に。その代わり、彼は、どこにいても、自らの存在を晒す恐怖を感じることになった。

 何がよくて、何が悪いのか。それは、彼の知るところではない。

 彼は、ただ、彼の求めるものに従い、自らの息すらもこの世から消す術を身につけたのだ。


 ベアトリーシャが、彼の全て。

 彼が生き、求め、示す理由を与えられ、そして今、それは彼の中から自然に湧き出すようになっている。

 志など、ない。しかし、腐った国など滅んでしまえという投げやりな怒りは、もっと鋭く研ぎ澄まされ、更に暗い輝きを放つようになっていた。

 存在しないはずの息を、ひとつ吐いた。そして、吸った。それなのに、彼はここにはいないかのようであった。

 彼の背から、風。彼を追い越して、東へ。

 その向こうでは、ウラガーンが作戦を遂行しているのだろう。

 ベアトリーシャが無表情に兵を叱咤し、見たこともないような兵器でもって砦を攻めているのだ。

 そのことを思うと、自分がここに存在してしまいそうな気がして、やめた。自分の心まで、空っぽにする。そうしてはじめて、彼は闇になり、無になり、消えることが出来るのだ。そこにこそ、彼は生きているのだ。



 だが、何となく、不思議であった。

 このときに限って、ベアトリーシャのことが、頭から離れない。

 それが何故なのかを考えることはしなかった。

 どういうわけか、自分が死んだあとのことを考えた。自分が死ねば、ベアトリーシャは、涙を流すのだろうか。もしそうであったとしても、その涙は、世には存在しない涙。

 似ているのだ。ベアトリーシャと、自分は。

 ベアトリーシャが存在することを知る、たった一人の人間が、自分。自分が存在することを知る、たった一人の人間が、ベアトリーシャ。だから、互いに求め合うのだろう。

 自分の存在が、許されると思えるのだろう。

 その呼吸を、認めることが出来るのだろう。


 そのようなことを、浅い思念を風に溶かしながら考えてはいるが、彼は、自らの身が世の中に晒されることよりももっと恐ろしいものが迫っていることは知らない。

 それは、彼のすぐ近くにあった。

 影ですらなく、息さえもないものが、すぐ近くに。

「おい」

 声ではない、声を発した。

 さりげなく周囲にいるイリヤの隊の兵が、気配を発した。

「まだ、本隊が来るには、時がある。俺は、少しの間、ここを離れる。明後日の朝には、戻る」

 急な作戦の変更である。イリヤの隊の者は、それを何故かは訊かず、ただ黙って従った。

「何かが、気になる。すぐに、戻る」

 そう言い残し、彼はまた陽が打ち付ける石畳に浮かぶ影になり、消えた。

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