宣戦布告
「姉様」
ルゥジョーの声は、ほんとうに心から愛おしい者を前にしたときに、人が発する声そのものであった。
「私は、悲しい」
ルゥジョーは、言葉とは裏腹に、笑っている。
「なにを、悲しむのです」
「姉様が、龍になってしまったこと。ニコ様ですら、姉様を、道具のように使おうとしたこと。それが、悲しい」
アナスターシャは、答えない。
「私だけ。私だけなのです、姉様」
ルゥジョーは、笑いながら言った。
「私だけなのです。この世で。姉様のことを、本当に想っているのは」
言って、少し、距離を詰めた。アナスターシャは表情を変えず、ただルゥジョーを見つめている。
「もう、この世で、姉様を救うことの出来る者は、いないのです」
剣の柄に、手。
アナスターシャは、眼を閉じることもなく、言葉を発するでもなく、ただそれを見ている。
「なぜ、何も言わぬのです」
ルゥジョーが、剣を抜いた。
「なぜ。私は、これほどまでに、姉様のことを想っているというのに。あなたを、救いたいと思っているのに」
「ルゥジョー」
ようやく、アナスターシャは声を発した。
「あなたは、思い違いをしています」
ルゥジョーの眼が、泳いだ。どういう感情なのかは分からない。
「——思い違い?」
「ええ、思い違いです」
「それは——」
夏の夜が、薄っぺらい灯火に蠢いている。いつも気配のひとつも立てないルゥジョーが、肩を震わせているのだ。
「わたしに、救いなど必要ない」
「姉様、どうか——」
剣を抜いた。声が、泣き出しそうに震えている。
「——その先は」
「いいえ、言います。あなたが、理解するまで。わたしには、救いなど必要ない。わたしは、救われている。多くの人と、わたし自身と、わたしの愛する人によって」
ルゥジョーの眼から、ついに涙が墜ちた。それが石床をひとつ濡らす。
「姉様」
「わたしは、あなたのものにはならない」
アナスターシャは、真っ直ぐにルゥジョーを見た。
「決して。わたしが何のために、誰のために生きるのかは、わたしが選び、決める」
拒絶。はっきりとした、拒絶。
「わたしの存在は、もはやナシーヤにとって、害悪となっているのでしょう。しかし、それでもよいのです。いいえ、今、はっきりとそう思いました。わたしは心から龍となり、わたしの求めるものを求める。そして、示す。その先に、何があろうとも。血の河を渡り、屍の山を越え、自らもまたそこに沈むことになろうとも。決して、わたしは、やめない。決して」
だから、とルゥジョーがこの世でたった一つ、心から愛する者は言った。
「わたしを、可哀想だと思わないで。わたしを、可哀想な人にしないで。わたしを殺すのは、その剣ではない。あなたこそが、わたしを殺すのです。そして、わたしを殺したところで、わたしはあなたのものになることは、ない」
ルゥジョーは、その場に
「ルゥジョー」
彼の音のないすすり泣きに、声をかけた。先程までの強いそれとは違う、とても穏やかな声を。
「わたしと、あなたは、生きるべき場所が違うのです。互いに、異なるものを見た。異なるものを求めた。だから」
邪魔をしないで。
そう言った。
「戦いましょう。互いに、互いを擦り減らしながら。わたしは、あなたが思うほど弱くもなく、脆くもない。守られることもない。わたしは、むしろ、あなたを見て、可哀想に思います」
「——ずっと」
ルゥジョーの声から、険しさが取れた。それは、アナスターシャが知る、ヴィローシュカの声であった。
「姉様が、大好きでした。心から、そう思っています。私にとっての姉様は、この世でただ一つ、意味のあるものでした。姉様のためなら、私自身など、どうなっても構わない。そう思っています。私は、姉様のためにただ生き、姉様を守って死にたい」
「ありがとう」
アナスターシャが、右手でルゥジョーの髪に触れた。ルゥジョーはびくりと身体を縮める素振りを見せたが、拒みはしなかった。
「だけど、あなたの世界で、意味のあるものは、わたしだけではないはずです」
「——ニコ様のことを?」
「いいえ」
アナスターシャが、困ったように笑った。髪に触れている手が、ルゥジョーの頬に。
「あなた自身です。あなたの世界の中心にいるあなた自身を、見捨てないで」
ルゥジョーは、またひとつ、涙をこぼした。
しばらく、そうしていた。
やがて、立ち上がった。
「もう、会うことはないでしょう」
ルゥジョーが、ぽつりとそう言った。
「あなたは、今、近くにいるのですね」
「ええ。私は、ずっとここにいます。姉様達を、内側から壊すために」
ウラガーンの内部に、潜入している。そのことを、あっさりと白状した。
「成し遂げます。必ず。それが、私の使命。私が、決めたこと。この龍を殺し、その中から、私は姉様を引きずり出す」
「ならば、わたしはそれを拒むのみです」
手をルゥジョーの頬から自らの薄い色の髪に移し、くく、と喉を鳴らして笑った。
「願わくば、ここから去って欲しい。だけど、あなたの求めるものは、その先にはないのでしょう。ならば、求めなさい。あなた一人に壊せるほど、わたし達は脆くはない」
ルゥジョーは、答えない。ただ音もなく立ち上がった。
「あの、ザハールという男から、離れられませぬよう。あの男は、姉様を守ります」
アナスターシャが、吹き出した。
「なんでも、知っているのね」
「いつも、見ています」
「言われなくても」
離れないわ、とアナスターシャは唇を咲かせた。
「姉様の言う通りにします。私は、私の求めるものを、求める。だから、私がもしそれを
ルゥジョーが、影に半身を差し入れた。
「さようなら、姉様」
「さようなら——」
影に溶けてゆくようにして去る我が弟に、アナスターシャも応えた。
「——ヴィローシュカ」
こうして、アナスターシャを我が物にしようと、それを殺しに来たルゥジョーは、去った。アナスターシャが彼にしたのは、文字通り、宣戦布告。
彼は、これから、潜んでいた闇から身を乗り出し、腕を伸ばし、自らの求めるものを求める。
それが、ウラガーンやナシーヤが今から始めようとする戦いに、大きな波紋を呼ぶことになる。
彼はナシーヤ側の人間だから、それは無論ナシーヤに利することになるであろう。しかし、その本質は、違う。彼は命じられてそうするのではなく、彼は、自らの意思でそれを選び取り、それをする。
ここで姉を斬ろうと思ったのは、彼の心の弱さによる。流される木の葉のようにしか生きられぬ姉を救うには、そうするしかないと考えたのだ。
しかし、彼は、自らの中でひとりでに姉の姿を定め、その幻影を追っていた。
このとき、はじめて、彼は、姉を見たのかもしれない。
そして、このとき、はじめて、彼はこの世に生まれたのかもしれない。
彼は求め、戦う。
彼にしか出来ぬ方法で。
彼は今、ウラガーンの内部に潜入している。どこにいるのかは、分からない。しかし、彼が為そうとしていることは、変わらない。
暗殺。
この最も暗い力をもって、彼は自ら求めるものを求める。
ジーンは、不意打ちのような形で討つことが出来た。
次に彼が的と定める人間は、どうであろうか。
ジーンを討った後すぐのときから、その下準備をしている。
その者をいきなり討つのではなく、自らがそれをしたと、ある者に知らせるために、討つ。
本当の標的は、その先の先。
まるで、
暗殺という暗い力でもって、黒く、紅く。
アナスターシャの危機は、彼女の心と言葉によって、回避された。
しかし、この宣戦布告が、彼女を、ウラガーンを、また別の窮地に追い込むことになる。
——龍、互いにその身を違え、互いにその牙を立てる。剥がれ、墜ちる鱗は星。そして雨。
人はそれを受け、なお雨を求める。
ウラガーン史記 第三十九節十七頁「龍、その滅び」より抜粋
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