第十六章 四八九年

一人の女、同じ雨の下の男

 雨。

 ノーミル暦四八九年を迎えても、なお降り続いている。アナスターシャは、それを眺め、呟いた。

「ザハール」

 いとしき人の名を。しかし、それに答えるものは無い。部屋の外で、ザハールの留守の間彼女を守るイリヤが一人で控えているだけだ。イリヤは何かに遠慮をしているのかアナスターシャが苦手なのか、滅多に姿を現さぬし、言葉も発しない。辛うじて、絶えず近くにいるということだけが分かるような存在だった。目の前にいれば全く気配を感じぬのに、部屋の外で控えているときは、その気配を感じた。イリヤが自ら、いる、ということを示しているのかもしれない。


 絹の衣の裾を、自ら割ってみた。ザハールがそうしたように、あるいはニコがそうしたように。しばらく、静かな衣擦れの音を立てているうち、部屋の外のイリヤの気配が消えた。気を使ったのかもしれない。

 衣擦れの音が、大きくなる。そして、自らの奥深くから、細い呻き。

 左腕の自由が利かない。だから、右手だけが、懸命に動いている。

 それは、とても不自由なことであった。しかし、ザハールが、そうしたのだ。それが、苦痛に似た鋭い快楽の中で、彼女を安堵させた。


 ただ帰りを待つ。

 世の女とは、戦いに出向く男を、待つのだろう。だが、アナスターシャは、世の女ほど、男を知らない。そして、世界を知らない。

 彼女にとっての男とは、この国で最高の知を持つと人に言われる丞相ニコと、それに叛く龍の鱗の一つであるザハールのことであった。

 彼女にとっての世界とは、精霊の巫女として生きることを余儀なくされた、檻の中から見たようなものであり、あとはウラガーンとして見る世界のことであった。

 もう、彼女も二十を超えている。世の女なら、子がいてもおかしくはない。しかし、彼女は、まだ数えるほどにしか世界に触れていない。


 それを埋め合わせるように、彼女は鋭い快楽で自らを苛み続けている。

 雨が、強まる。その音を聴きながら、彼女は身を強くのけ逸らせた。

 精霊の巫女など。

 ヴィールヒの言う通りであった。彼女は、ただの人であった。世を求め、人を求め、自らの身体をこうして責めもする。

 ウラガーンの兵らは、彼女を精霊の巫女であると信じて疑わない。彼女がいるから、皆は二本の足でこの地に立ち、その足を志の方に向けることが出来るのだ。


 身体が寝具に融けてゆくような激しい疲労感に、彼女の柔らかな線を描く胸が上下している。

 このところ、身体の調子がおかしい。自分がただの女であることを示し続けていたはずのも、訪れない。どこがどう、ということはなく、身体が重い。もしかすると、自分は、人ですらなくなり、ほんとうに龍になってしまうのではないかと思った。

 このまま、龍になって。天に吼え、雨をもたらす。そういう存在に、変貌を遂げてしまうのかもしれない。

 それなら、それでよかった。きっと、ザハールは喜ぶだろう。彼の志の助けになり、そのことが彼が彼として生きてゆけるための役に立つなら、何にでもなりたかった。


 ただ、帰ってきてほしい。そして、また抱いてほしい。身体の熱で焼き、また自らが人であることを感じさせてほしい。

 また、衣の裾が割れた。薄ぼんやりとした思考が醒めてしまうのを、いやがるように。




「サヴェフめ」

 ニコは、王城にあり、吐き捨てた。この王が居るべき広間の中にまで染み渡ってくる雨の音に、その声は響きを残し、吸い込まれた。

「手を打つに打てぬ。これほど、歯痒いことがあるか、ザンチノ」

「落ち着かれませ」

 べつに、焦っているわけではない。ただ、徹底的にその存在を消し去ろうと心に決めたウラガーンに対して手を付けられぬことが、もどかしいだけだ。

 戦いは、べつに王家の軍自らがすることはない。ニコの敷こうとしている新たな仕組みでは、外敵であろうが何であろうが、ナシーヤの敵は全ナシーヤ人が一丸となって当たる。それは、今のところ、各地で芽吹きを見せている。

 今、すべきこと。それは、中央である。

 誘いのようにも見える。だが、北と南に軍を発し、ウラガーンの本拠ががら空きとなっている今、一気にそれを攻め、としてしまうべきである。

 それが出来ぬというのが、苛立ちの原因。


「よりにもよって、塩か」

 ウラガーンは、ある一点から、鉄に手を伸ばしはじめた。未だ、その全容は明らかにはなっていない。そして、知らぬ間に、塩にまで手を付けていたのだ。

「それを、隠すためであったのか」

 ザンチノは、ニコの呟きを、じっと聴いている。

 北に鉄を流す。その工場を破壊する。国を乱し、立ち直れぬようにし、それを呑み込む。南でも、国。蜂のように飛び回っては国境に手を付けるバシュトー。

 それらは、一見、ナシーヤを挟撃し、武力でもって攻め立て、崩壊させるための布石であったように見える。しかし、ニコは、この時点で、ようやく気付いた。それすら、本当の目的を隠すための手段であったことに。


 鉄や、塩。それは、そのまま国力である。

 ナシーヤという国家自身が知覚せぬまま、それはウラガーンによって吸い取られていたのだ。軍を発しようにも鉄がなければそれは出来ぬし、兵に食わせるためには塩が要る。全く無くなるということはないにせよ、そのうちの幾らかはウラガーンに流れているのだ。

 それでも軍を発しようとすれば、今度は経済に負担をかけることになる。民の間にそれらが出回らなくなれば値は上がり、更に人を苛むだろう。

 往々にして、そういう政策を取る国や王権が長く存続した試しはない。

 ニコは、そのことに気付いた。

 今気付いただけ、まだ懸命であろう。ニコ以外の者であったなら、ふと気付いたときにはこのナシーヤという国家は虫に食われた木材のように穴だらけになり、一見豪壮に見えても、少し押せば倒壊してしまう建物のようになっていたかもしれない。


 だからといって、このまま手をこまねいているわけにはゆかぬ。ゆえに、ニコは、考えた。考えることで、どこかにこの状況を打開する点が見出せぬかと思ったのだ。

 思えば、アナスターシャを奪われたのが、痛かった。

 アナスターシャがいれば、王家の軍と精霊は共にあって敵を討つという姿勢を示すことが出来、国内はこれほどに揺れることはなかったであろう。むしろ、誰もがこぞってそれを支持し、それだけで国内は一つにまとまったかもしれない。

 

 今、もっともニコに必要なものは、鉄でも塩でもなく、彼女であった。

 だが、アナスターシャは、龍とともにある。

 もう、離れ離れになってから、随分長い時間が経った。

 それでもなお、ニコは、未だ夜毎に彼女を夢に見る。彼女はいつも雨の中で歌い、その身体を洗っている。それに触れようと手を伸ばすのだが、自分の手が血で汚れていて、躊躇う。自分もその血を雨で洗い流そうとするのだが、降り注いでいるのは雨ではなく、血。

 そういう夢である。

 かつて精霊の巫女であったとき、彼女は不思議な夢でもって未だ起こらぬことを言い当てたりすることがあったという。

 この夢は、ニコが彼女を求めて見るものか、それとも彼女が自身を求める人に見せるものか。あるいは、もっと別の。


 会いたい。

 ただ、そう思った。そう思ったとき、ニコはかつての丞相でも一国を取り仕切って王になろうとする王家の軍の最高指揮者でもなんでもない、ただの人になった。

 それはニコを守り、彼の存在を定義付ける鎧をひとつひとつ剥がしてゆくようであり、その不安こそが彼を安堵させた。

 あの不思議な色の髪と眼。それは季節により、時間により、自らが立つ位置により、その色を変える。

 まだ、鼻腔には彼女の香りが残っている。


 それなのに、と一人の人間となったニコは思う。

 それなのに、目的のため、雨の軍を使い、彼女を傷つけることを命じた。これほどまでに彼女を思い焦がれても、彼女を自らのための、あるいは国家のための道具としてしか見れぬ自分を呪いたいような心持ちであった。

 引き裂かれそうな思い。むしろ、それがニコの思考を冷ました。

「ルゥジョーは、ウラガーンの中に入っております」

 主の思考がある一定の場所に辿り着いたのを見計らったのか、いつものが出る前にそれを止めたのか、ザンチノが不意に言葉を発した。

「そうか。ジーンという諜報部隊の将に続く者に、狙いを定めたのだな」

「はい。今、その下準備をしております。ですが、少々、時間がかかるやもしれません」

「急がせろ」

 ザンチノは、黙って頭を下げた。急ぎはしているが、急ぎすぎるあまり、ことを仕損じることがあってはならない。そういう意味であろうとニコは解釈した。

 今、最も期待していることは、ウラガーンの主要人員を葬ることである。サヴェフを討てればそれが最もよいのであるが、さすがにそれは難しい。ラハウェリの奥深くに籠っているその傍らには常に誰かがいるし、サヴェフ自身も剣の達人なのだ。たとえルゥジョー自身が不意を突くことが出来たとしても、暗殺が成功するかどうかは分からぬ。

 それよりも、周囲から。

 まずは、諜報の網の機能に打撃を与える。

 その次にどうするのがいいのかは、ルゥジョーの判断に任せてある。


 北と、南と、中央。

 ナシーヤは、一つになろうとしている。

 しかし、その過程で融合を続けてゆく段階で、今は、まだ二つに分かれている。

 もしかすると、あちこちに散らばる小さなものが融合してゆくよりも、それらが融合を続け、最後に残った二つが一つになるときにこそ、最も多くの力を要するのかもしれぬ。

 人がこの世に生まれてくるときも、そうだ。妊婦は腹に子が出来てからそれが産まれるまでずっと、吐き気や身体の不調を感じる。しかし、いざ産まれるときの苦しみに比べれば、それはどうということもない。

 今のナシーヤが、まさにそういう状態である。

 子とは、世にとっての光。

 この苦しみを越えた先に産まれるあらたな子もまた、人を導く光であるはずなのだ。

 だから、その産みの親にならんとしているニコは、その苦痛から眼を背けることはない。

 親とは、そういうものだからだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る