四八九年へ
明けたばかりの、朝陽のない朝。そこに墜ちる雨を斬り裂き、漆黒の軍装の騎馬隊がゆく。サンラットが思わず声を上げてしまうほどに、城壁に近づいて。
その背後の原野には、また別の影。
馬で曳く車のようなものが、ゆっくりと進んでくる。
城壁から射ち下される矢を避け、漆黒の騎馬隊は蛇のようになって駆ける。そしてにわかに一つの塊になったかと思えば、それがまた咲くようにして散る。
狙わせているのだ。
その後方に展開した車のようなものの周りで動く兵を、矢から守るために。
それは、ユジノヤルスクの主府チャーリンを開放したときに用いたのと同じ、投石機。綱が引き絞られ、木と鉄で作られた腕の先に、
鋭い号令。
それと共に綱が切られ、腕が勢いよく跳ね上がり、甕を射出した。
そして、砦の壁の上に居並ぶ敵兵へ。
以前の戦いにおいては、着弾して割れた甕からは
今回は、甕からは、白い粉。ぱっと上がりはするが、雨にすぐその煙は消えた。
「これで、いいのよ」
ベアトリーシャは、騎馬隊を退けてきて馬を並べたザハールを見ず、砦の方を見た。
「こんどは、何だ」
ザハールもまた、雨が入らぬように細めた眼で、同じものを見た。
次々と飛んでゆく、甕。
ベアトリーシャは東西からもたらせる書物などからその設計を着想したのであろうが、今回のそれには、彼女なりの工夫も加えられていた。
いかに大きな腕が勢いよく跳ね上がって射出されたものであったとしても、甕の飛距離はそれほどない。ゆえに、攻城などの際は、接近した上で用いなければならない。無論、今回のザハールのように、その運用を騎馬隊や盾を備えた歩兵などにより援護するわけであるが、距離が近すぎれば、それだけ援護をする隊の損害も大きくなる。
それゆえ、彼女は、飛距離を伸ばす工夫を施した。
回転である。
腕の先には、腕自体を引き絞るのとは別の細い綱があり、甕を据えるときに、我々のよく知るものに例えるなら独楽に巻くようにして甕に巻く。
その細い綱は腕の先に空けられた穴を通って腕に通されており、腕が跳ね上がる勢いでもって、それが引かれる。
その運動が射出される甕に回転を加え、安定した飛行と飛距離の向上をもたらしたのだ。
いつも、このようなことばかりを考えている。ベアトリーシャとは、やはり変わった女である。
水飛沫を上げながら飛んでゆく甕を見、彼女は全身をずぶ濡れにしながら、薄く笑った。その視線の先には、やはり、一瞬舞い立ってはすぐに消える白い煙。
彼女の工夫は、計り知れない。
このときに用いたのは、硫酸ではなく、現代の化学用語を用いるならば、酸化カルシウム。もう少し分かりやすく言うなら、
焼き物を作るのに用いた窯に、石灰岩や西のソーリ海という広大な塩湖の貝殻などを放り込み、彼女がウラガーンにもたらした
彼女の知識と、雨。それを用いた策であった。
その混乱を見て取り、ベアトリーシャが、そばに居た者に声をかけた。
「――あなた」
「はっ」
声をかけられた兵は、何故か嬉しそうに声を上げ、直立した。
「あれを」
「はっ」
金髪を雨に濡らしながら駆けてゆくその先には、また別の兵器。
衝車である。
これもやはり東の国において広く用いられている攻城兵器で、城門などを破るためのものである。さまざまな形のものがあるが、ここで用いられるのは、先を尖らせた丸太を取り付けた、木で組んだ車を数人の兵が押し、城門にぶつけるというものである。なかなか原始的な発想ではあるが、ちょっとした砦や城の門は木製であることが殆どであるため、有効である。
城壁の敵は石灰による混乱で、衝車に向けて矢を放つことが出来ない。
「大したものだ」
ザハールが漆黒の兜の奥でにやりと笑い、涙の剣を雨に掲げた。
四度目に衝車が城門にぶつけられたとき、それが破れ、内側に大きく開いた。
涙の剣が、振り下ろされる。
疾駆。
雨すら、取り残すほどの。
一直線にザハールの騎馬隊が砦の中へと突撃をする。
砦では、その門が破られたことに応じるため、兵を繰り出そうとしているところであった。
ザハールの騎馬隊は、それを許さず、まだ突出のための準備をしている段階の敵兵を食い破った。
一瞬にして指揮官の首は刎ねられ、砦は陥落した。
「――ザハール」
「サンラット」
二人は、また再会した。
「来るのに、時を費やした。あの兵器を守りながらここまで来るのは、いささか大変であった」
「来てくれると思っていなかった。おかげで、助かった」
「ここからだ、サンラット」
ザハールの頬に張り付いた金色の髪から、滴がひとつ墜ちた。
「嬢は、一緒ではないのか」
アナスターシャのことである。ザハールは、ちょっとたじろぐような表情を見せたが、別の話題に切り替えた。
「北では、お前の妹のライラが、子を産んだという」
「そうか、ルスランの子か。それは、嬉しいことだ」
純朴なサンラットは、ザハールとアナスターシャの間に何があったのか知る由もないし、ザハールの様子から察することも出来ない。すかさずザハールが、実務的なことに話題を戻す。
「まず、砦にバシュトーの兵を入れよう。こうも長く雨に打たれていては、力を落とす」
冬の雨は、冷たい。皆、やせ我慢をしているが、国境地帯を跨いで少し北に行っただけのこの場所で降る雨は、それに慣れぬバシュトーの者を凍えさせていた。
砦の中で雨を避け、火を起こして衣服を乾かす。
そこへ、輜重が続々と運び込まれてくる。
兵糧や武器であった。麦や干肉のほか、ナシーヤにおいては国家の専売物であるはずの塩まで、大量にあった。
「豊かなものだな」
サンラットは、それを見て単純に嘆息した。
「鉄だけではない。我らは、多くのものを、ナシーヤから得ているのだ」
ウラガーンは、もはや、一国そのものほどの力を有している。練度のきわめて高い軍に、優れた指揮官。そしてナシーヤではあまり発達を見せていない工兵。ジーンは失ったが、諜報部隊もある。そして、貿易や交易。この頃になると、鉄のほか、塩などにまで手を付け始めている。
あちこちに張り巡らされた輸送経路は複雑にそれを秘匿し合い、追求を許さない。そして、それはそのまま連絡網となり、各地の情報を素早く中央にもたらす。
未だ、その勢力化に治めている拠点の数は変わらない。だが、ユジノヤルスクを始め、ウラガーンに参加したいと考えている地域や街などは、かなり多い。
どこかで一つ、決定打を得ることが出来れば、それらは一気に火を噴き、従来の王政を支持する勢力を駆逐するかもしれぬ。
暖めて、暖めて、練りに練ったものが、ようやく。
どちらかが滅ぶまで、この戦いは止まぬ。
しかし、ウラガーンも、そしてニコも、これを、この地における最後の戦いにしようとしている。
ノーミル暦四八八年は暮れ、四九九年へ。
この物語を編み始めた時点から、八年が経過する。八年という時間は人にとっては長すぎるものではあるが、歴史という観点においては瞬きをするよりも短い。この期間の中で十代の末であったサヴェフやヴィールヒ、ザハールなどは人間としての成熟をより見せる二十代半ばから三十代手前の年齢になっているし、ルスランはめっきり髪に白いものが増え、顔の皺も深くなっている。
人は、時間により、その姿を変える。そして、その思考は深くなり、心の内側に築き上げられる世界もより複雑になる。読者諸氏も知っての通り、彼らははじめから、何事かを為すだけの力を持っていたわけではない。
彼らは、立場を奪われた戦士であり、誇りを失った傭兵であり、戦いしか無い時代の中の戦いに生きていただけの男であり、ごろつきであり、こそ泥であり、虐げられて生きてきた鉱夫の娘であり、犬や猫の真似をするだけの男であったりした。
だが、それらが互いに集い、思い描き、求めるうち、加速度は高まり、僅か八年でこれほどまでの勢力を持つに至らしめた。
彼らの能力が極めて高いこともあろう。サヴェフの頭脳は常人ではちょっと測れぬほどに鋭く、敵味方を観察し抜いた上で発せられるペトロの策は、外れることの方が少ない。のちの世で神武とまで言われるほどのザハールの武、そしてその精強な騎馬隊や、ルスランの圧倒的な膂力を具現化したかのような重装歩兵団。サンスの率いる歩兵隊も、サンスの義侠心に打たれ、彼のためならば命も要らぬと思うような兵が集っているし、イリヤは雨や闇に紛れて敵の思わぬところに出没してそれを屠る。比較的新しく加わった者ならばトゥルケン最強の将である戦乙女ラーレに、南のバシュトーを建国し、それまで別個ばらばらであった部族をまとめ上げているサンラット。
やはり、そういう者どもが、集わざるを得なかったというのが、この時代の特徴である。国が上手く自転していれば、彼らは集結する必要がなかった。
彼らが集い、その求めるところに従い、この国の乱れを加速させた。
それは、彼らの意思に起因するものであるのか、あるいは時間というものがもたらす必然であるのか。
どちらにしろ、史記風に言うと、人の中にもまた精霊と龍は棲み、互いに戦っているのだ。
南に、ウラガーンは出戦した。
ルスランとラーレが糾合したトゥルケンは、北で戦っている。
すなわち、中央には今、ウラガーンの主だった武力は無い。
あからさまな誘いのようにも見える。しかし、これを突かぬ手もない。
ニコにとっては、決断のしどころというところであろう。
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