漆黒の騎馬隊
馬。
それが、風を切っている。
今、馬を停めれば、おそらく向かい風なのであろう。そして、今馬を停めれば、無数の矢に全身を射抜かれ、死ぬ。
サンラットは、バシュトー軍を率い、国境を越えた先のなだらかな丘陵地帯を駆けている。
曇天ではあるが、雨はない。代わりに、矢が降ってはいる。
このとき率いているのは、千二百。
前回よりも更に多い兵数である。それだけ、バシュトー国内では、北へと手を伸ばすことへの欲求が強いらしい。その声は乾いた原野の国に生える短い草の一本まで共鳴させている。
前へ。北へ。それを阻む、敵へ。
普通、軍を発するなら、必ず兵糧などが要る。しかし、バシュトー軍には、そのようなものはない。全て、騎馬。それが湾曲した長剣と馬上で使うための短い弓を携え、矢をかい潜っている。
兵糧は、陥とした砦や街に蓄えられているものを用いる。砦にあるものならば好きに食えばよいが、サンラットは決して掠奪は許さなかった。彼は、ウラガーンから兵糧の代わりに与えられた金で、街の食い物を贖わせた。
九月の末に攻め込み、それが十月になり、半ばに差し掛かる頃には、バシュトーは三つの砦と四つの街を
以前にナシーヤに攻め上がったときとは、勢いが違う。
とは言え、ナシーヤ側の抵抗も相当なものであった。以前ならば、ただ砦を守るというだけの行動を取るだけであったナシーヤの動きが、変わっている。
一つの砦にわざと隙を作り、そこへバシュトーを引き込む。そこで戦いをするうち、別の砦から軍が出て、横槍を入れる。そのような風に彼らは立ち回った。
「これは、手強い」
とサンラットは何度か呟いたと言うが、それを上回るほどの勢いでバシュトーはナシーヤ兵を打ち破り、進軍をしている。
バシュトー軍は、騎馬での突撃の他に、騎射も得意である。その矢の飛距離は短いが、その威力の低さを補うために毒矢を用いている。
南の乾燥した地帯で採れる草の根を混ぜ合わせて潰し、水に溶かしたもの。あるいは乾燥地帯に点在する泉にだけ生息する蛙から採れる毒。そのようなものを、彼らはよく用いた。かつてザハールがアナスターシャを伴ってこの地を始めて訪れたときに手当てを施すことが出来たのは、バシュトーが毒の知識を持っていたからである。
野戦なら、バシュトーはいとも簡単にナシーヤを破った。騎馬で激しく国境地帯の緩やかな丘を駆け回り、矢を放つ。それが前線を削り、陣に動揺が走ったと見れば、サンラットを先頭に突撃をかける。
前回と、今回。その戦いに、それほど大きな間隙はない。だが、明らかにナシーヤのやり方が変わっている。
十月の末頃になれば、戦線は膠着した。
バシュトーの勢いが、止まったのである。
この頃になるとナシーヤは貝が殻を閉じたように砦から出てこなくなってしまう。それを騎馬隊のみの編成で攻めようとすれば、いたずらに兵を損じるのみであるから、バシュトーは国境からナシーヤに踏み込んだ先のある一線から進むことが出来なくなった。
その線よりも北の街に手を付けようとすれば、周囲に配置された砦からの集中攻撃を受ける。サンラットは、どうにかして要所となる砦から敵を引きずり出そうと試みるが、ナシーヤがそれに応じることは無かった。
ナシーヤ軍は、はじめて外敵に向けて、王家の軍をあてにせぬ戦いをしている。
ニコの目論見は、当たった。
この国で、何かが生まれようとしている。
彼らは団結することで、外敵を退けるという当たり前のようなことを着想した。
しかし、そうなると、それに反抗する者も生まれた。それらはナシーヤという国家そのものに対して不満を持っている者で、多くは民であった。
秩序。倫理。規範。ウラガーンという強力な反乱分子が生まれ、王は死に、ロッシも死に、かつての丞相ニコは国の舵に手をかけたところであり、なおかつ外敵が北と南から挟むようにして侵攻しており、中央ではユジノヤルスクが国家からの解放を叫んでグロードゥカに抗戦している。
そして、王家の軍の敗戦。
急速に旋回する情勢の中に、この国の庇護を受ける限り、自らの未来に安寧は無いと考える者が生まれた。
彼らは、規制の秩序に依らない、新しい統治を求めた。
それらが、ナシーヤ人として相剋し、結託し、団結を見せている。
この国始まって以来のこの現象は、ある意味で、最大の敵同士であるウラガーンとニコの共同作業によって発生した。
彼らが互いに求めるものが接近し、ぶつかり合いそうになるときに生じる膨大な引力が、この地にナシーヤ人というものを生んだのだ。
未だ、一つになりはしない。しかし、個ですらなかった人々は、今、確実に個となっているのだ。
それは、ある意味、国家とウラガーンそれぞれの、最大の後ろ盾。
国の乱れが生んだ、団結。今、それらがぶつかり合い、最後の一つになろうとしている。
ある街では、国家こそが人を導く、大精霊の加護を受けたニコこそが国家をあるべき姿に建て直すことが出来る唯一の人間であるという論をもとに、国家の再建を主張する者が、そこからの開放を望むためにウラガーンを支持する者を排斥し、ナシーヤ側に加担した。別の街では、大精霊はウラガーンと共にあり、もはや国家はそれに見放されている。ウラガーンの反乱行為は大精霊の意思であり、その破壊の上にあらたなものを建設しなければならないという主張を述べる者が国家に加担しようとする者を排除し、バシュトーに対して協力的な姿勢を見せた。
そして、それは時によって変化を見せ、昨日国家側であった街があくる日にはバシュトーを支持したり、その逆ということも生じた。
混迷。そして、混沌。
その原野に、サンラットは佇んでいる。
もう、十二月が来る。
「雨が、続いているな」
遊牧の際に用いる、簡素な幔幕。それが、このナシーヤの地に咲いている。それは弱く振り続ける冷たい雨からバシュトー軍を遠ざけている。
「ナシーヤの土が黒く、実りが多いのは、この雨のせいなのでしょうか」
一人が、言った。ナシーヤの気候はここから数百年ののちに変貌を遂げ、更に雨の多い国となるが、この時代はそうでもない。そうでもないと言っても、南の乾燥した彼らの故地に比べれば、やはりよく雨が降る。
「なかなか、読めぬものです」
その者は、なお言葉を継いだ。幔幕の中で焚いた火がひとつ弾けた音を聴いてから、サンラットは答えた。
「読めぬものだな、人というのは」
今彼らが布陣しているのは、国境付近を守る地域の、ちょうど中央あたり。はじめの勢いであちこちの砦や街を落として以来、ずっとここに居座っている。
食い物の心配はない。後方の街からそれは絶えず贖うことが出来るし、二つに分かれた人々のうち、ウラガーンを支持する者が運び込んで来たりもする。
そして、何より、水の心配が要らぬ。ナシーヤというのはちょっと歩けば沢や池や川があり、目をつぶっていても水には困らぬ。まず水。次に食い物。という具合に生命線を確保しなければならない南とは大違いである。
なるほど、南の民がこの地を欲しがるわけである、とサンラットは他人事のように思った。
「どうにかして、進まねばならん。このまま退いては、せっかく手に入れたものも、すぐに裏返ってしまう」
バシュトーが陥落させた街や砦は、その強力な軍があるからこそ支持を示したり恭順の姿勢を見せてはいるが、それが立ち去ったとなれば、またどうなるか分かったものではない。
切り取るなら、この国境地帯を、丸ごと。そうして、ナシーヤとバシュトーの国境線を、そのまま北へ押し上げる。そうでなくては、意味がないのだ。
いかにバシュトー兵が精強で、今回は彼らの得意とする毒矢まで用いているとは言え、戦えば必ず兵は削れる。実際、この二つ月の間で、百近い兵を損じているのだ。
サンラットのために断っておくが、彼らは決してウラガーンに従属し、そのために奉仕的にこの事業に乗り出したわけではない。あくまで、これは彼ら自身の求めに応じて為される戦いであった。
今、彼らの眺める雨の向こうの砦が、闇の中に薄ぼんやりと浮かんできている。
夜明け。
雨の日のそれは、いつの間にか訪れる。
その中でまた攻めの構えを見せ、攻め切れぬ一日が終わってゆくのだろう。
戦いおいて最も警戒しなければならないもののうちの一つに、兵が戦いに惓んでしまうということがある。それは、下手な敵の来襲などより遥かに恐ろしいことである。それを避けるため、毎日、サンラットは兵に馬を駆けさせ、ときに城壁に迫って矢の雨をかわしたりした。
この日も、同じことをしようと試みた。
水飛沫を上げる。
その粒が、滴が、馬の蹄を恋い慕うように上がり、十二月のナシーヤの土にまた帰ってゆく。
砦に迫り、敵をからかうようにしてその脇を駆け、バシュトーの言葉で、砦から出てこい、勇を見せろと嘲り笑う。
そうすることで、兵に戦いをしているような気分にすることが出来る。
いや、それを最も必要としているのは、もしかしたらサンラット自身であったかもしれない。
彼自身が、虚しさを感じ始めているのだ。無論、持たぬものを得、他者から奪わずに暮らしていくだけのものをナシーヤから奪うという国内の意に対して、彼も賛同している。自らがそれを先んじて率い、叶えるのだと心に決めてもいる。
だが、やはり、戦いとは悲しいものなのだ。
それを押してでも、今、戦う。
それは、並ならぬ労力と心の強さを必要とする。
砦の壁からは、矢。雨の日の矢の飛距離は晴れた日のそれよりも短い。
どこに向かって矢が落ちるのかを見切り、安全な場所で騎馬隊を駆けさせる。
壁に沿って駆け、一端に辿り着くと、反転。
そのとき、自らの馬が蹴った水飛沫を見た。
それは、声を持つようだった。
悲しみ。
あるいは、愛おしい者を見るときのような、慈しみ。もしくは、怒り。そのようなものが渦を巻き、あちらこちらに向けて放たれる。
それを、見るようだった。
いや、サンラットは、その向こうに、確かに見た。
雨の滴が凝り固まり、形を持っているのを。
それは、白煙で隠されたように霞む、北の方角から。
「——ああ」
思わず、声を上げた。
冷たく濡れた全身から奪われてゆくはずの体温を、感じた。
騎馬隊である。
漆黒の。
それが、真っ直ぐに雨を斬り裂き、サンラットがからかっていた砦を目指す。
その先頭をゆく青毛の巨馬に、見覚えがあった。
それに跨る漆黒の軍装の男の髪が、流星のように流れている。
その男が剣を抜き放つ様に、見覚えがあった。
咆哮。それは、龍の。
ザハールが、この南の国境地帯の戦場に、来た。
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