抜くべき時
「リョートさん」
と呼ばれるのにも、慣れた。あれから、リョートの剣の腕が凄まじいものであるという評判が立ったためか、村を賊が襲うことはなかった。
未だ、忸怩たる思いはある。
だが、考えに考え抜き、あちこちからもたらされる情報を統合し、出した一つの答え。これから、自分がどうするか、ということについての、結論。
それを求めてもよいものかどうか、迷っていた。
しかし、あの村娘の死が、リョートの氷を打ち破った。
剣とは、抜くべき時を間違えれば、己や己の知る者を傷付ける。
幼少の頃から、そういう教育を受けてきた。それを自分に言い聞かせ続けてきた者は、今なお、自分の帰還を待っているのだろう。
だが、今更戻っても。そういう思いも、まだ存在する。
全てを、奪われた。拠るべき地も、想う人も。
自分のために働き、帰還を待っている者には申し訳ないが、戻ったところで、自分がこの国に対して成し得ることなど、何一つとしてないとしか思えなかった。
だが、もし、この国に対して、出来ることがあるとすれば。
今、剣を抜くべきなのか。
今が、その時なのか。
殺風景な小屋の中、抜き放たれた剣が、沈思に耽る己を映していた。
ふと、気配を感じた。
その気配を、リョートは知っていた。
「見つかってしまったか」
諦めたように、笑った。その言葉を受け、板を立て付けただけの戸が開かれた。
「お探ししました、ニコ様」
ルゥジョーであった。
「遥か北にもおられぬとなれば、東であるに違いないと思い、参じました。我が手の者が、剣技抜群の流れ者が居る村があるという話しを聞き付け、こうして訪ねて参りました」
「全く。雨の軍というのは、恐ろしいものだ」
リョート、いや、ニコは、自らが設立したこの諜報機関の力を見た気がして、苦笑を漏らした。
「随分長い間、姿を見なかったな。南へ発って以来か」
「ええ」
「南で、何かあったのか」
南で、ルゥジョーは、その姉アナスターシャと再会を果たした。そして、拒まれた。そのことは、ニコには言わなかった。
「ニコ様。王都へ、お戻り下さい」
「それは、出来ぬ」
「何故です」
「戻ったところで、あのロッシの専横に対してどうすることも出来ぬ己を知るのみだ」
「そうですか」
ルゥジョーは、やけにあっさりと立ち上がった。
「ですが、私は、決めたのです。我が姉も、ニコ様もおらぬようになった世に、意味などない。だから、私は、この生をかけて、取り戻す。そのために、どのような手段を用いても、構わぬと」
アナスターシャの拒絶が、ルゥジョーに影を落としている。あれほど姉のことを思い、生きてきたルゥジョーを、アナスターシャは拒んだのだ。
まだ幼いながら、ルゥジョーは、
それを、アナスターシャは、拒んだ。
全て、世が悪い。
全て、世のせいである。ルゥジョーは、そう思うしかなかった。世がこんなだから姉はウラガーンなる組織の掲げるまやかしの思想に毒され、自ら旗の下に立ち、それを推し進めるようなことをしているのだ。
元から、正さねばならない。今、世は、あってはならぬ方へと向かって行こうとしている。
では、元とは、どこなのか。
ルゥジョーには、その答えがあった。
それを正す。そうすることで、ニコは王都に戻ってこの国の全ての民をあるべき方へと導き、ウラガーンは存続することが出来なくなる。姉は自然と呪いが解けたようになり、戻ってくる。
それしかないのだ。この世に、価値を再び生じさせるには。
「ニコ様」
ルゥジョーは、去り際、言った。
「これより、変事が起きます。ニコ様が、再び人の上に立つことが出来るようになります」
「何を、するつもりだ」
「今は、あえて申し上げません。しかし、変事があったとき、必ず、王都にお戻りになり、人を導いて下さい」
「待て、ルゥジョー」
ニコは、ルゥジョーを追って、戸から身を乗り出した。しかしその坂道にあるはずのルゥジョーの姿は既に無く、ただ垂れ込めた空から雨が降っているだけだった。
ルゥジョーは、何をニコに伝えようとしたのか。
もしかすると、今ニコがぼんやりと思案していることを彼も考えていて、それを実行に移そうとしているのかもしれない。つまり、ルゥジョーは、剣を抜くべき時に、抜こうとしているのかもしれない。
「昔から、極端なところのある奴であった」
嘆息と共に、呟いた。
「だが、もしかすると、それほどに急な手段を用いなければ、どうにもならぬのかもしれぬ――」
ニコが独り言を言うのは、珍しい。思案が外にこぼれ出しているのだろうか。
ザンチノはどうしているだろう、と思った。ニコが野に下ると言ったとき、ザンチノも共に官を辞し、従ってゆくと言って聞かなかった。それを、
「お前まで王家の軍を離れてしまえば、それこそ、俺は二度とここには戻れぬではないか」
と言って宥めた。
「お前は、ここに留まり、耐えろ。いつか、俺が戻り、あの汚らしい豚から王家の軍を取り戻すとき、それを助けるために」
ニコは、ザンチノの流す涙を見ず、立ち去った。
思いのほか、その時は早く来るのかもしれぬ。
抜くべきときに、剣を抜かねばならぬ。そう教えてきたのは、他ならぬザンチノなのだ。
ニコは、眼を鋭くし、手に握った剣に眼をやった。
空から墜ちる星の全てを得ようとしても、必ず、どれかは腕からこぼれ落ちる。求める全てを得られるほど、自分の腕は広くない。
ならば、最も求めなければならぬものから、順に受け止めてゆくしかない。
まずは、力。
そして、アナスターシャ。
それさえあれば、ニコは、何にでもなれる。救国の丞相。大精霊の加護を得た才人。古今最高の知。その全ては、己の求めるものを得ようとするための、力なのだ。
雨は、なお強くなっている。
その一粒を見ようとすれば、雨は見えぬ。だが、雨を見てしまえば、それが無数の滴が寄り集まっているものだということは見えぬ。
国と、同じだと思った。
王家。王家の軍。地位。情勢。経済。隣国の動向。この国を造り、動かすものはあまりにも多い。だが、その一つの滴に眼をやれば、そこには必ず、一人の人間がある。
ニコは、雨が全身を塗り潰してゆくのを感じながら、苦笑するしかない。
最も見失ってはならぬものを、見失っていたらしい。
それゆえ、抜くべき時に、剣を抜けなかったのだ。
雨ばかりを見ていた。
その雨を、どうするかということばかりを、考えていた。
だが、ニコがしなければならぬのは、それだけではなかった。
そっと手を伸ばし、雨の滴を受ける。
その冷たさを、確かに感じることが出来た。
ルゥジョーがしようとしていることは、おそらく、王の暗殺。
王家を、雨の軍が倒す。そういうつもりなのだろう。
王家が無ければ、王家の軍は、王家の軍ではない。
その状態でニコが王都に立ち戻れば、その兵はたちどころにニコのもとに着くことは間違いない。
ロッシの日頃の行いを全て
そして。
そして、自らが、王となる。
自分自身の手で、雨の滴を受け、それを感じ、導く。
どう客観的に見ても、この国の中で、それが出来るのは、自分しかいないのだ。
出来るのにそれをせぬのは、見るべきものを誤っていたから。
「次は、誤らぬ」
そう呟き、ニコは手にした剣を抜き、ひとつ振った。
その刃に当たった滴は弾けることなく、玉となって滑り、もともと天から与えられた運動を曲げ、そして墜ちた。
「世話になった」
翌朝、ニコは早速、
「ずっと、ここに居てもよいのだぞ、リョートさん」
「いや、もとより、留め置いて頂いていた身。俺は、あるべきところへ、帰ります」
「そうか。あえて止めますまい。そして、あえて問いますまい。あなたが何者であるのかを」
「では」
ここでは、かつての王家の軍の総帥でも、丞相でも何でもない。ただ道に迷い流れ着いた、三十前の男である。
「そなたらの娘には、可哀想なことをした。だが、
あの娘の両親にも、声をかけた。両親や村人は、リョートがただ者ではなく、どこぞの名のある貴人か、官にあった者なのであろうと噂し合っていたから、自然、貴人に対する拝礼をしようとした。
「よせ」
それを、ニコは制した。
「膝が、雨で汚れる。お前たちがせねばならぬのは、自らの膝を汚し、誰かに
そう言って坂道を西へと降りてゆくニコは、笑っていた。
目指すは、王都。
その王城。
ルゥジョーは、既にその仕事に取り掛かっていることであろう。
出来るだけ、早く。出来るだけ、早く戻らねばならない。一日遅れれば、一日、民はまた何かを奪われる。
ニコの足取りは、自らの全てを奪われ野に下った男のそれとは思えぬほどに、確かであった。
人が、人から奪わぬ国。
それを求めることこそ、正しきこと。
正しきことのため、悪をも行うのだ。
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