第十二章 流れる光
英雄王は南で思う
南。
そこには、何もなかった。ただ乾いた草が生え、どこまで行っても同じ景色が続く。
まるで、人の生のようだ、と思った。
同じような日常が延々と続いてゆくようでもあり、乾いた人がただ突っ立っているだけのようでもあり、それでいてその一つ一つは違う。
毒ある草。それを、この南の民族はよく使うという。
薬になる草。なんでも、その根を煮詰めた汁と葉を磨り潰したものを飲むと、何かの薬になるらしい。
何の役にも立たず、ただ不味いだけの草。そんなものも、多くある。
その一つは、盟友サヴェフであった。
サヴェフは、何を見ているのか。今は、触れぬようにしている。その思うところや求めることは理解しているが、所詮、己の心は己のものなのだ。サヴェフもまた、歪んでいる。それは、この国が生んだ歪みであった。それを、サヴェフの心は正そうとしているのだ。もとより、曲がったことが大嫌いな男であった。恐らく、自分自身が歪んでいるのが、許せぬのだろう。だから、サヴェフはこの世界を許さぬのだろう。その感情は、サヴェフのものであり、他人がその軽重を測るものではない。
その一つは、ザハールであった。
ただひたすらに武を磨き、己の誇りと、剣の道を生きている。ザハールは、もしかすると、この国の乱れを外側から見ているのかもしれぬ。彼もまた、国によって家も立場も名声も失った。だが、彼は、それを取り戻すために
その一つは、ペトロであった。
思慮深く、社交的である。自分の考えを相手に理解され易いように変換してから言葉にすることが出来、軍師としてかなりの力量を発揮している。かつて盗人をしていたとき、忍び込む家の周りを何日も観察し、人の出入りや家族構成などを全て把握してからことに及んだという。その観察眼が、龍の脳髄となってから、活きているらしい。そして、彼は、まともであった。軍師というのは、必ず成功する作戦を立案する。それゆえ現実的で、しばしば過激な理想を口にするサヴェフと衝突することもある。だが、サヴェフがウラガーンの進むべき道をいかに描いたとしても、それをどのようにして進むのかという方策無くしては、ただの夢である。ペトロとは、そういう意味でも、ウラガーンの核であった。
その一つは、イリヤであった。
臆病で、自分自身がこの世に存在するということを人に認識されることで生じる面倒を極端に嫌う。それは、
いつも劣等感に苛まれ、それを人に悟られぬよう仲間にも棘のある言葉を吐く。ベアトリーシャとはうまが合うらしく、いつも顔を合わせては喧嘩をしている。
馬は、なお進む。地中を川が流れており、それが時折地表に現れることがあるという話はほんとうらしく、この乾いた地にいきなり池が現れた。馬を停め、水を飲ませてやり、自分が提げる皮袋にもたっぷりと水を足した。
水があれば、その周りには緑の草が生える。それも、やはり、人の世のようだと思った。依るべきものがあり、個ははじめて色を得、匂いを放つものなのかもしれない。
しかし、その水場を過ぎれば、また乾いた黄色っぽい土と、草。
その一つは、ジーンであった。
もともと、彼は森の賊の一員で、旅人を相手に犬や猫の真似をして見せて、僅かな駄賃をもらうことでしか生きられなかった。旅人の荷を襲うこともなく、街や村の財を奪うことも出来なかった彼が出来る、唯一のことがそれであった。
その才は、龍となり更に磨かれ、剣も使えるようになっている。ザハールに受けた剣の手解きのためではなく、ザハールそのものを真似ることで、襲い掛かる雨の軍を瞬時にして屠ったこともある。どうやら意識して出来ることではないらしく、死地に追い込まれて初めて、魂そのものの形を変えるようにして発揮される力であるらしい。それ以外にも、敵の兵に化けたり、行商人に化けたりして、ウラガーンを支える諜報部員となっている。
その一つは、ベアトリーシャであった。
もともと東の山の出身で、父は鉱夫であった。そこで用いられる炸薬や鉱物の知識と技術を、彼女は持っていた。父は鉱石の密輸の疑いを上役になすり付けられ、殺された。そのことを、恨みに思っている。幼くして世に放り出された彼女が生きるには、自分を売ることしかなかった。ナシーヤにおいては差別の対象であった黒髪の彼女に仕事を与える者はなく、かつ彼女はとても美しい容姿をしていたから、自分を売るということに自然と行き着いたのだろう。そのまま流れ、森の賊に居ついていた。
龍となった彼女は、中央の者が持たぬ知識を活かし、多くの敵を一度に葬るような兵器の開発をし、火や酸などを用い、ウラガーンを援護する役割を担っている。
その生のために曲がった性格はときに苛烈で、拷問などをさせれば右に出る者はない。イリヤが彼女の救いとなっているようで、彼女はイリヤがラハウェリに戻ってきたら、進んで口喧嘩をしに行っているらしい。
その一つは、サンスであった。
博奕打ちであった彼は証文の偽造をするという力を持っており、それが森の軍であった頃に、ノゴーリャに拠ることに役立った。鉄の密輸も、彼の偽造した証書があればこそ、これまでその実態が露見することなく、利を得られている。
そして博奕打ち特有の果断さとさっぱりとした性格、勝負の機を読む力は戦いにおいても活かされるはずである。実際、彼が始めて体験した軍での戦いは、あのチャーリンの戦いであった。ラーレと合わせた小規模な軍で巨大な城壁を破るという困難な闘いにおいても、ラーレの騎馬隊の動きをよく読み、それを狙う敵を自らの弓兵でもって上手く牽制し、勝利に導いた。
その一つは、ルスランであった。
ザハールと双璧をなすと言われる武は、今、北にある。そこにある怨嗟を、反発を一つにまとめ上げ、龍となってナシーヤに還る。一振りで数人を無残な肉塊に変える剛の技が、決して動かぬ岩を砕くのだろう。
ザハールの武は、まるで水が流れるような武。するすると自分の位置を変え、通り過ぎる度に敵が死んでゆく。それに対し、ルスランの武は、流れが避けて通る
その一つは、ラーレであった。
まだウラガーンに参加してから日の浅い彼女は、まだ龍にはなり切っていない。だが、その心には、僅かだが、燻るものがある。まだ十代で歳も若いが、戦場での経験は豊富で、なおかつ、ラハーンの人形のようにしてしか生きてこなかった彼女は、心を閉ざしていた。閉ざしていたのか、もともと持たぬのかは分からぬが、とにかく、彼女は、紛れもなく龍になり得る素質があった。
馬上の聖女。戦乙女。そういった声望から彼女自身が解き放たれ、自分がただの人間であると知ることが出来たとき、彼女は、その双つの剣を牙に変え、龍になるのだろう。
陽は傾き、殺風景な原野に色をもたらした。だが、橙一色で塗り潰された原野は、やはり殺風景であった。
馬を停め、草を集めた。乾いた草は、簡単に燃える。やはり、人のようだと思った。どこかに火が点けば、一気に広がる。どこに、どのような火を点けるのか。それを誤りさえしなければ、恐らくその火は国中に広がり、焼き尽くすことであろう。
全て、奪ってやりたかった。自分から全てを奪ったものを、全て。
それは、取り戻すというような感覚ではない。それまであった生を奪われ、闇に押し込められ、自分が自分であることすら奪われた。そのような自分が再び光の下に出たところで、出来ることなど、奪うことしかないのだ。
陽とは、そういう自分を照らすには、強すぎる。雨くらいが、ちょうどいい。
雨は、それ自体が運動し、音を発する。それに溶けてしまうことが出来れば、己の歪みを知りながらなお生きるということをせずに済むのだ。
あるいは、夜くらいが、ちょうどいい。
夜では、空に瞬く星や、浮かぶ月ばかりを人は見上げる。そうして、闇から眼を背けるのだ。自分は、人が眼を背ける闇の中に溶けているくらいが、ちょうどよい。そんな風に思っていた。
だからといって、生きることをやめるわけにはいかない。
奪うのだ。人が見上げる星が墜ち、雨となって降り注ぐように。それが大地を濡らし、塗り潰してゆくように。大地では湛えきれなくなった雨は流れとなり、河に注ぐ。河が抱えきれなくなった流れはまた野に還り、人の営みを全て押し流してゆく。そうして無に還ったところに、人は新たなものを造りあげてきた。
それを、求めていた。
だから、今はただ、自ら点けたはずの火の光に眼を背け、細めているしかない。
あまりも刺激の少ない世界が続いているから、つい、人のことを考えてしまう。
だが、所詮、人である。それ単体ではこの世に存在することが出来ぬほどに脆く、弱く、つまらないものであった。
だが、会い、確かめなければならない。
龍として生きる人を見、それで、何を奪い、何を壊すことが出来るのかを。
精霊の巫女アナスターシャは、紛れもなく龍だった。もしかすると、サヴェフの次くらいに、積極的にウラガーンの事業に参加していると言ってもいいかもしれない。彼女にも何か思うところはあるのだろうが、興味がないので確かめることはない。ただ、ウラガーンがこれほど短期間に人と力を集めることが出来たのは、紛れもなく彼女の存在のためである。
知らぬ間に闇に溶けて、眠っていた。
強すぎると感じる朝の陽射しに眼を細め、自らの影を従えながら、また南を目指す。
再び闇が来る前に、そこに至った。
草の色が、濃い。土も、黒い。
その潤った地には、多くの人が集っていた。彼らは、自分たちを、
騎馬がひとつ、それに気付き、近付いてくる。
互いの距離があるところまで縮まったとき、それが声をかけてきた。
「何者だ」
訛りは強いが、ナシーヤの言葉であった。鉄の棒を握っている。
「俺は、バシュトーの王、サンラット。水を求める旅人なら、立ち寄ってゆけ。水と、食い物を与えてやる」
その言葉の裏には、もしそうでなく、この地の安寧を乱すつもりであるなら、という恫喝が含まれていた。サンラットの視線の先にある、やや短く、刃渡りの長い変わった造りの槍を自分が握っているからだろうと思った。
「名を」
サンラットが、そう促した。南の民族の間では、自分がどの部族の誰であるのかを明かしてから会話をするという風習がある。だから、面倒だと思いながら、それに従って、答えてやった。
「――ウラガーンの、ヴィールヒ」
自分が何者であるのかを示す、ただ一つのもの。それが、これだった。
サンラットは驚いた顔をして馬から降り、近付いてきた。
「あなたが。さあ、共に来い」
そう言ってヴィールヒを促し、幔幕が立ち並ぶ方へと
思えば、ヴィールヒは、ウラガーンの主要な構成員、十聖将として史記に名を記す全ての者と、出来るだけ早い段階から会い、その心に棘を植えつけている。
彼の武は、人のものと思えぬほどに強い。おそらく、ザハールやルスランでも、まともに対峙すれば、ヴィールヒに敗れるであろう。だが、彼は人の先に立ち、軍を率いることは今まで無かった。人と交わるのが、嫌いなのだ。だから、彼は、ただ会い、その人間を見、思ったままのことを口にし、帰ってゆく。
もしかすると、それが、彼の最大の役割なのかもしれぬ。
サヴェフが、期待すること。
それは、ヴィールヒという雷に打たれた人が、龍へと覚醒すること。
そして今、彼は十聖将として最も遅くウラガーンに参画することとなるサンラットの前に、立っている。
その眼を、細めながら。
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