第十章 龍と雨
四八六年 九月の戦い
ユジノヤルスクの首府チャーリンは、彼らが発したラハウェリから、既に勢力下に置いているダムスクを経由し、北東へおよそ五日。騎馬が多いが、歩兵も含むため、この旅程となった。
戦力は、およそ千。わずかな間に、これほどの兵力を発することが出来るようになったのは、やはり北への鉄の密輸と、ウラガーン目当てでの貿易が行われるようになったことが大きい。
ウラガーンはこの頃になると、貿易商人にも鉄を売るようになっていた。ナシーヤ国内を自由に行き来することが出来る、サンスによる偽造書類を付けてやったから、商人どもは喜んだ。
南にも、五百近い兵を割いている。それらはザハール、アナスターシャ、ルスランを中心とし、バシュトーの建国のため乾燥地帯を駆け回っていることであろう。
雨の軍の追跡も、このところは大人しい。無論、あちこちで雨の軍と思われる間者が見つかったり、物資の輸送隊が謎の集団に襲われるということは絶えないが、今のところ目立った被害はない。
「ヴィールヒ殿は、どこへ」
サヴェフから、このウラガーンの首魁はヴィールヒであるということを、ラーレは聞かされている。その総大将の姿が、彼女が軍陣に参じたときに行きあって以来、見えぬのだ。
「さあ。先に発ったからな。今、どの辺だろう」
軍師であるはずのペトロも、呑気なものである。軍師が自らの総大将の所在を知らぬというようなことが、あるのか。
各拠点には、守備に必要な兵をそれぞれ残してそれぞれ守らせており、ウラガーンの主要な人物のうちでは、サヴェフ、サンス、ペトロ、ベアトリーシャ、イリヤ、ジーンがこのとき出戦している。サンスは実働部隊の指揮官として、ベアトリーシャは工兵隊を連れて従軍しており、北から戻ったばかりのイリヤ、ジーンはそれぞれ既に城内に潜入している。
そのまま野を越え、山に入り、野営を重ね、一行は六日目の朝、チャーリンを見下ろす丘に至った。既にチャーリンではウラガーンの来襲を知っているものと見え、城壁には兵が出ているのが遠望出来た。
「奴ら、針みたいに尖っていやがる。勝負の気を放っているぞ」
博奕打ちであったサンスは、いつまで経ってもそういう物言いが抜けぬらしい。
「やはり、どこかから情報が洩れているな」
サヴェフは、間者にうるさい。戦いとは、まず情報であると考える彼は、その漏洩を最も恐れた。
「戻ったら、間者を洗い出そう」
ペトロも、それに応じた。
「ああ、手が汗でぐしょぐしょだ」
サンスが、忙しなく両手を擦り合わせている。落ち着かないらしい。
「貴殿」
ラーレが、サンスに話しかけた。
「だから、その貴殿、ってのはやめてくれ。お前、とかサンス、でいい」
この行軍の間、何度かサンスがラーレに言ったことを、繰り返し言った。
「済まぬ。サンス殿は、実戦は初めてか?」
「悪いかよ」
サンスは、博奕打ち上がりだけあり、度胸はある。しかし、これが初めての戦なのだ。個人の殴り合いや斬り合いとは、わけが違う。
「何が怖いって」
と彼は言う。
「俺の指揮が一つ間違えれば、こいつらが死んじまうってことだ」
兵を、自らの子分のようにして扱うふしがある。それだけに、兵とサンスの心の繋がりは深いらしく、兵もまた頼れる
「どうということはない。ただ押し、攻めればよいのだ」
ラーレが、そのサンスを励ますようなことを言った。言ってから、自分がそのようなことを言うというのがどうも似つかわしくないように思え、黙って目標とすべき城塞を見下ろした。
チャーリンの城壁は厚く、街も大きい。
数万か、下手をすれば十万ほどにもなる人がそこで暮らしている。
守備軍の兵力は、一万二千。僅か千ほどの手勢でそれを攻めるというのは、無謀である。
「まず、わたしに先鋒を」
ラーレは、こういう場合の慣例に従い、先鋒を名乗り出た。新しく加わったり、降ってきた将は、攻めは先鋒、撤退は
「その前に」
ペトロが、全体の策について、確認を始める。丘の下にはチャーリンの城塞が見えているが、まだ遠いため、向こうからウラガーンの姿は認められぬであろう。逆にウラガーンから城塞は見下ろす位置にあるため、その城壁の様子が遠目からでも見て取ることが出来た。
ここに至るまで発見されなかったのは、通常の街道を通らず、山あいを進んだという進軍経路の特殊さと、諜報隊から絶えずもたらされる敵の配置や哨戒網の情報の正確性による。
「ジーンの隊とイリヤの隊が、城内に入っている。十日かけて、少しずつ入れた。彼らが、まず騒ぎを起こす。兵は、北側に集中するはずだ」
ウラガーンは、南西側の丘から攻め下ろす。ラハウェリからダムスクを経由して直行してきたのだから、当然である。だから、チャーリン側でも、城の南西側の守りを、最も厚くしている。
「それをまともに攻め、破るのは、無理だ」
軍学の常識である。ラーレも、勿論知っている。
「だから、中で騒ぎを起こし、北へと敵の目を向ける?」
「その通りだ、ラーレ」
南西側が手薄になったら、一気にラーレが門に取り付く。城壁から矢や石などを見舞ってくる敵には、ベアトリーシャの工兵が援護をする。そこへサンスが加わり、門を破る。
それを見計らい、城内の騒ぎの中、イリヤがあちこちの指揮官のところに現れ、混乱に陥れ、次々とその首を刎ねてゆく。
それで、守備軍は機能を失う。
逃げようとするものは、捨て置く。北の門を、開けておいてやればよいのだ。
「もし、門を開くことが出来なければ?」
ラーレが、先鋒を担う者として質問をした。ペトロが、少し髪をかき上げ、苦笑しながら答える。
「そのときは、死ぬ」
「なるほど。貴殿らは、いつもこのような戦いを?」
「いいや。こんなの、これっきりにしたいもんだ」
ペトロが苦笑したまま言う。
「出来るだけ、中央の目をこちらに引き付けたい。正直、このチャーリンの要塞など、どうでもよいのだ」
サヴェフが、ぽつりと言った。
この戦いが、陽動であるかのような口ぶりである。何のための陽動なのかは言わないし、誰も聞かない。
「丞相ニコの戦いぶりしか、わたしはナシーヤの戦を知らぬ。ナシーヤの者とは、丞相ニコのように、もっと思慮深い戦いをするものとばかり思っていた」
ラーレも苦笑し、立ち上がった。
馬に跨り、両の剣を抜く。
「いいさ。博奕でも、負けそうな勝負ほど、面白くなる」
サンスは自らを奮い立たせようとしているのか、そのようなことを言い、槍を取った。
「必ず、上手くいく」
サヴェフは、例によって断定的である。それが、この場合、全員の救いになった。
ラーレは、不思議に思った。
どう考えても、無謀な策。それなのに、ここにいる者どもは、それこそ兵の一人に至るまで、どこか恬淡としている。もしかすると、今ペトロが解説した策以外に、何か仕掛けがあるのかもしれぬ、と思った。だから、彼らはこれほどあっさりとしているのだと。
こういう場合、秘めた策があり、軍師があえてそれを説明せぬのは、兵や将が知る必要がないことだからである。
すなわち、それはここにある軍の運動とは関わりのないところで起こる策。
「必ず、上手くいく」
総帥のサヴェフのその言葉を、全員が信じた。ウラガーンとは、そういう軍であるらしい。
不安はあろう。これから、十二倍にあたる敵が守るユジノヤルスクの首府へとこの丘を駆け下り、それを攻めるのだ。サンスのように言うならば、自らの命を博奕の形代にして。
だが、誰一人として、成功を疑っていない。
そうか、そういうものか、とラーレは内心、面白がった。
静と動、陰と陽。それらが綯い交ぜになった作戦。
軍師ペトロの説明の中に、ヴィールヒの名がなかった。
彼はこのチャーリンの城塞に一人で向かい、何事かをするのだ。
それが、この戦いの勝敗を決するのだ。いや、この作戦は、ヴィールヒの行動を助けるための、囮なのだ。
そうラーレは考えた。
「組み立て」
ベアトリーシャが、自ら率いる工兵に、そう短く指示をした。彼女の薄い唇からその言葉が発せられた途端、工兵どもは運んでいた荷車から部材を降ろし、なにかを組み立て始めている。どうも、工兵どもは、自らの仕事っぷりを、黒髪の美しいベアトリーシャに薄笑いを浮かべながら眺められるのが好きらしく、ちらちらと彼女の表情を伺いながら作業をしている。
「──何か?」
ラーレがじっとベアトリーシャを見つめているので、迷惑そうな顔を向けてきた。
「それは、何を作っているのでしょうか、ベアトリーシャ殿」
「あなたに説明しても、分かりっこないわ」
それきり、また工兵らの動きに眼を戻した。ときおり、工兵の一人を顎で差し、
「──あなた」
と声をかける。声をかけられた工兵は直立し、ベアトリーシャの言葉を待つ。
「やる気ある?」
そう、温度のない声で叱責を受けた兵は、何故か嬉しそうにして、より一層作業の手を早めるのだ。
トゥルケンには、ない光景である。
ナシーヤの軍がどれもこうなのか、ウラガーンが変わっているのかは、この時点ではまだラーレには分からない。
日が、高くなった。
「刻限だ」
ペトロが、ラーレに声をかけてきた。
「本陣は、ここ。見ているよ、ラーレ」
この顔の半分に前髪を垂らした優男が、ウラガーン全軍に必勝の策を授ける軍師であるとは、どうしても思えない。だが、将は、軍師の言うことは全て実行するもの。全ては、勝利のためなのだ。
ラーレの思考が、閉じてゆく。
「お手並み拝見ね、お嬢さん」
と皮肉な笑顔を向けてくるベアトリーシャの言葉も、遠い国の話を聞くようにぼやけて聞こえる。
視界は、全て淡い色に。
唯一、これから攻めるべき城壁と、その上を行き交う豆粒のような敵兵と、そこに至るために自らが馬を進めるべき道筋だけが、真夏の花のように鮮やかな色彩でもって浮かび上がっている。
双つの剣を、抜き放つ。
ラーレの兵は、知っている。
彼女がその次、いきなり馬腹を蹴り、自ら先頭を駆け、突撃することを。
ノーミル暦四八六年、九月。
その戦いは、始まった。
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