サラマンダルの戦い
結局、ライリュという若い男は、突如として消えた。それが何者であったのかは、分からないままである。
「我々を探りにきた、雨の軍であったのかもしれんな」
「しかし、それを探ったところで、王家の軍は北だ。どうということはないだろう」
「しかし、何故急に消えたのだ。このままここに留まり、我らを探っていればよいものを」
「まあ、向こうにも、色々と事情があるんだろう」
と、呑気なことをザハールとルスランは言い交わしている。それよりも、彼らには、することがある。
「行くぞ」
ザハールが、涙の剣を取った。
「行こう」
ルスランも、
「気を付けて」
アナスターシャが、乾いた風に髪を靡かせながら言った。
「お前たちには、困ったものだ」
サンラット。無造作に鉄棒を握り、馬に跨った。
「突然やってきたかと思えば、戦い、戦い。この地の乾いた土を、血で湿らせるために、お前達はやってきたのであろう」
無論、冗談である。この頃になると、ザハールには、サンラットが埃除けの布を被っていても、彼が笑っているのかどうかが分かるようになっていた。
「勝利を、もたらす。お前には、王になってもらう」
ザハールも、見事な青毛の愛馬に跨った。漆黒の兜の奥から、鋭い光を放っている。
「おせっかいな奴も、いたものだ」
サンラットの兵が、集まってきた。皆、湾曲した剣を握っている。
「そのおせっかいが、この不毛な地に国を建て、人をまとめ上げ、そして救うのだ」
「大きなことを言う」
「言うだけならば、易い。だから、為す。さらに、ほんとうに難しいのは、その後のことだろう」
ザハールの兵。それが、旗を建てた。ルスランが隊商として連れてきた兵も、そこに加わっている。
「お前が、北で見たもの。それが、この地に
「そのために、戦う」
「人を」
人を。その目指すところとなり、彼らが依って立つ場所に。
「旗を」
建てた旗が、高く掲げられた。それを、アナスターシャの髪を揺らすのと同じ風が揺らす。
夏が、近い。この地の人は、風に湿り気があることで、それを知る。
「――いざ」
馬腹を蹴る。
土埃。
それが、さらに南へ。
筆者は、思う。南での建国というのをサヴェフが着想したのは、突飛なものではないと。南には、国が必要だったのだ。ちょうどナシーヤが立ち行かなくなっているのと同じように、南の人々もまた、何かを渇望していた時期に重なっていた。
個が作り出す衆。そのごく小さな集団が、自分達が所属するそれのみのために行動するだけでは限界があるということについては既に彼らの口を借りて述べた。
彼ら自身に自覚はなかったであろうが、彼らには、国が必要だったのだ。
そして、それは、彼らに限ったことではなく、おそらく、この世界のあらゆる場所において、共通のものであろう。
人はその個体のみでの生存は難しい。ゆえに、衆をなす。衆はまたその存続のため、別の衆との接触を求める。それはあるときは融和であり、あるときは戦いであった。そうして衆は更に大きくなり、その衆はまた個に働きかけ、個がそれ単体で存続することを困難にする。その連鎖は延々と続いてゆき、人がある場所には、人自身も知らぬ間に国が出来ているのだ。
往々にして、それは、きっかけすらも無いような社会の働きであったろう。その意思は、もはや人のものですらなかったかもしれぬ。本来、個が持っていた意思というものは、衆に混じり、他者のそれと溶け合い、変化する。それは、もはや個の意思を超えた場所にある存在として、人の中に根付く。
そういう、自然で奇妙な現象が、今まさに南の地で起きようとしている。
近隣の部族をあらかた斬り靡かせたサンラットが、さらに指し示したのは、ずっと南に行ったところにいる部族。これは、強力な騎馬と他の部族よりも多い人数をもってジャーハーン河のほとりに居座っており、南の地で最大の部族とされていた。
「これさえ陥とせば」
各部族は、一斉にサンラットの部族に従うことであろう。
「彼らは、
この南の地に、遥か西北の言語圏にルーツがあると思われるサラマンダルなる名称が存在するというのは面白いことではあるが、その詳細な理由については文化人類学の分野から長大な文量を費やして述べる必要が生じるから、ここでは触れない。
「彼らは、強い。ジャーハーンの恵みを独占するに相応しいのは、自分たちであると信じている。そして、ずっとそれを守っている」
「数は」
「分からん。だが、
サラマンダルは、移動をしない。ジャーハーンの流れに依っている限り、家畜に食ませる植物には困らない。家畜はよく肥り、乳もよく出すし、毛も肉も質がよい。もともと、この南の地の人々が定住せず、移動を繰り返すというのは、植物が少ないことによる。家畜に食ませる植物が少なくなれば、彼らは生きてはゆけぬ。それゆえ、あたらしい土地を求め、移動するのだ。そして、その土地の植物が少なくなってくれば、また別の場所に移動する。ゆえに、彼らには領土や土地という概念が芽生えにくいのだ。
だから、サラマンダルの人々というのは、この南の土地の中では珍しい、領土意識を持った人々であると言えるかもしれない。
そこに拠り、サンラットの部族がそれに取って代わることが、国家建設への足がかりとなる。
「気をつけろ。奴らは、強い」
重ねて、サンラットは言った。今連れているのは、ザハールの二百、サンラットの部族の五十、これは全て騎馬である。それに、ルスランの歩兵五十。サラマンダルがサンラットの部族の数倍の人数を持つとして、そのうち戦いに出てくることが出来るのがどれだけになるのかは分からぬものの、三百の兵があれば、なんとかなるだろう、とザハールは考えていた。
サンラットの部族が居座っていた地域の周辺の部族との戦いは、話にならぬほど簡単であった。数十の騎馬がばらばらと原野に出てきて、軍略も策も何もあったものではない直線的な攻め方をしてくる。短弓の射撃の間隔を縫い、騎馬で突撃をかければ、一撃で粉砕することが出来た。
だが、サラマンダルの兵は、そういうわけにはゆかぬらしい。
彼らは勇猛かつ精強で、なおかつ組織だった動きをするという。ルスランの兵が完全に南に入ってくるのを待ってもよいのであるが、それが全て入ってくるにはまだ少しの時間が必要になるから、この地域にも伝わる東方の軍書の言葉にある通り、兵は拙速を尊ぶ、の原則に従い、戦いを仕掛けたのだ。
また、南での建国事業を任されたザハールが、決め手を打つことを決心したことには、ルスラン自体の参加がある。
無論、その圧倒的な武の力、その人間そのものに対する信頼によるところも大きい。しかし、それだけではない。
野営を続けながら、南へ四日。
「着装」
原野の真ん中で、ルスランがいきなり号令をかけた。
旗が翻る風が、夏が近いことを告げている。強くなりつつあるその陽射しを、鈍い鉄が跳ね返す。
「ほう、聴くと見るとでは、大違いだな」
ずらりと並んだ、ルスランの兵。それが、揃いの鎧兜を身に付けている。
顔の全てを覆い隠し、肘や膝などの関節の部分まで保護された、全身鎧。そして、
北のトゥルケン軍が用い、王家の軍を悩ませている重装歩兵団が、この南に現れたのだ。
「やはり、動きにくくてかなわん。それに、暑い」
兵を急いだのは、そこにも理由がある。この鎧兜は、あらゆる弓や剣、槍などを受け付けぬ代わりに、気密性が高く、暑い。素材は勿論鉄であるから、南の夏の強い日差しを受ければ、ただ立っているだけで兵は死ぬかもしれない。北のトゥルケンならば夏でも涼しく日差しも弱いから、この装備は土地柄に合っていると言えるが、南には適さない。
だから、今。
これが、決め手なのだ。
「ひどい見た目だな、ルスラン」
サンラットが苦笑し、馬を進めた。重装歩兵団の歩みに合わせ、ゆっくりと。
土埃が、少ない。河が近いから、土が潤っているのだ。色も、黄色味の強いものから、茶色っぽくなっている。
「なるほど、これだけ殺伐とした風景が続く地ならば、この潤った土地は命に変えても守りたいものになるだろう」
ザハールが、漆黒の兜の奥で言った。
「彼らが強いのではない。ひとところに拠り、それを守ろうとするから、強いのだ」
幔幕が、遠くにちらほらと見えてきた。
「サラマンダルの者よ」
だだっ広い乾燥地帯での情報伝達を行う必要があるから、サンラットの声は大きい。それが、原野を揺らした。無論、言葉はナシーヤのものではなく、南のものである。
幔幕の集まるところで、動きが見えた。人が、出てきているらしい。
「私は、バシュトーのサンラット。このジャーハーンの流れを、もらい受けに来た」
いかにも直接的な口上である。ザハールらがその意味を理解すれば、苦笑したかもしれない。
「バシュトーの者よ」
遠くで集まる人々の方から、声が返ってきた。
「この流れは、我らが守るもの。流れを手に入れたくば、このジャーハーンの流れではなく、自らの血でもって河を作るがよい」
それを、サンラットがナシーヤの言葉にし、ザハールらに伝えた。
「もとより、交渉でどうにかなるはずもない」
ザハールが、涙の剣を抜く。
「奪うのだ」
今回は、圧倒的な武力を見せつけ、従えるようなことはしない。サラマンダルの者を、滅ぼすのだ。
奪う。
それをせず、人が生きてゆける世のために、今、奪う。
この矛盾を、醜いものと捉えるか、どうか。
ウラガーンは、南で暮らすこの素朴な人々に、戦いをもたらした。そして、それまで、ごく小さな集団のために奪い、奪われを繰り返してきた彼らの戦いの形態を、変えようとしている。
それを、是とするか非とするか、今でも多くの歴史家の中で論争は尽きない。
「前進」
ルスランの、号令。
サラマンダルの方からも、声が上がり、次々と人が集まってくる。全て、騎馬。
ルスラン率いる五十の重装歩兵団は、それを気にも止めず、前進してゆく。
何か、叫び声と共に、矢が射掛けられてきた。
「守れ」
重装歩兵団が、小さく固まる。盾など要らぬ。ただ集まるだけで、彼ら自身が、盾となるのだ。
サラマンダルの兵は、もう四百に達しようとしている。この見たこともない魔除けの泥人形のような集団に矢が効かぬと見て、騎馬での突撃を試みるらしい。
ザハールとサンラットは、はじめの位置から動かず、それを見ている。南の弓は馬で用いることに特化しているため、小さく矢も短いから、彼らの位置までは届かぬのだ。
ルスランの隊だけが突出し、ぐいぐいと押してゆく。この重装歩兵団の、試運転を兼ねているのであろう。
騎馬。
ルスランの隊に向け、それこそ矢のように鋭く突き掛かってきた。他の部族の運動とは、明らかに違った。
両者の距離が、見る見る縮まってゆく。
「散開」
重装歩兵団が、隣の者と大きく距離を取り、広がった。そこに、百ほどの騎馬隊が、向かってゆく。
咆哮。
そして、踏み込み。
鎧が、擦れ合う音。これが夜であったなら、火花が見えたかもしれぬ。
ルスラン。
騎馬を指揮しているらしい者が、手にした湾刀で、斬りつけようとする。
踏み込んだ膝が沈み、捻った腰が、戻ろうとする。
まさしく、
それが、向かってくる騎馬を、馬ごと粉砕した。彼らの身につける、動物の革を固めて作った鎧など、無いに等しい。
広がった重装歩兵団も、騎馬を迎え入れるようにして呼吸を合わせ、一斉に
わずか、一撃。
百ほどもあった騎馬隊は、わずか数頭の馬だけを残し、この地から消滅した。
静寂。
サラマンダルの者が、息をするのも忘れたように、固まっている。
「――ゆくぞ」
ザハールが、涙の剣を、低く構えた。
「殺し尽くせ!」
ナシーヤの言葉が、この南の原野に響いた。
鎧も、兜も、黒。そして、馬は漆黒の青毛。兜からはみ出て流れる金色の髪が、彗星のように見えた。その率いる兵も、ザハールに遅れまいと、馬を疾駆させた。サンラット率いるバシュトー騎馬隊も、それに続いている。
集まっているサラマンダル兵に、突っ込んだ。右に、左に、剣を振るう。武器を突き出してくる者は、ほとんどいない。完全に、気を呑んでいる。
ザハールの馬に、サンラットが横付けしてきた。
「北の戦いは、やはり酷い」
再び離れるとき、サンラットはそう言った。
南の戦いとは、先にサンラットが行ったように口上を述べ、自分たちが何のために攻めるのかを明らかにして行うから、一種のスポーツのような面があった。劣勢となれば兵を引き、殺し尽くすというようなことをあまりしない。
ナシーヤにおいて南の騎馬民族と言えば野蛮なものと考えられているが、実際の彼らの戦いは、北のものと比べて遥かに爽やかである。だから、このサンラットの感想は、ごく自然なものであろう。
サンラットもまた、北のやり方で鉄棒を振るい、手当たり次第にサラマンダルの戦士を馬から突き落としたり、頭を砕いたりした。鉄棒というのは刃も柄も無い分、どこでも打ててどこでも受けられ、短くも長くも使えるため、騎馬で扱うにはうってつけの武器である。
一方的な殺戮は、すぐに終わった。
「お前達は、鬼神か」
無残な死骸が転がる中、僅かに残った手勢に守られながら、サラマンダルの首長らしき者が、彼らの恐れる神の名を口に出して、言った。それを、サンラットがザハールに伝えてやった。
「――いや、
ザハールは、そう答えた。
それをサラマンダルの首長に伝えてやる前に、ザハールの馬が、サンラットの隣から飛び出した。
一騎で、疾駆。
黒い瞳に、漆黒の軍装のザハールが、映った。
それは首ごと宙に舞い、そして墜ちた。
残された胴体からは雨のように血が吹き上がり、それがジャーハーン河の恵みを受けた土に染み込んでいる。
「お前は、何とも思わぬのか」
サンラットが、剣から血を滴らせているザハールに、問うた。
「思わぬ」
ザハールは、即座に答えた。
「それ以上に、為さねばならぬことがある。俺は、そのために戦い、奪う」
ルスランの隊も、集まってきた。
「旗を」
そこに、返り血で汚れた斧と盾と龍と精霊の翼の旗が立った。
「俺が、俺達が、最後になるのだ」
サンラットが、眼を細める。それを横目で見たザハールは、言い直してやった。
「俺たちが、人から、なにかを奪うために戦う、最後の人になるのだ」
剣からは、なお血が滴っている。
「涙の剣とは、よく言ったものだ」
サンラットは、ザハールを見、そう言ったという。やはり、南の男とは、感情が豊かであるらしい。
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