姉と弟
雨だった。それは天から降り、地に注いだ。
そこで舞い踊る者の名を、知っていた。
ヴィールヒ。
ときにその姿はサヴェフとなり、ペトロとなり、ジーンにもなった。
どのみち、それが誰なのかを、知っているのだ。近付き、声をかけようと思った。
近付くにつれ、雨が全身を塗り潰してゆく。自らの肩や胸に、髪が張り付いている。そのまま、舞い踊る背に、手を伸ばした。
その者は、伸びてくる手を払いのけ、なお舞った。
旋律のない、歌。
それは、雨の滴の音であった。
舞いざま、ぱっと振り返ったとき、その者が涙を流しているように見えた。
それは、剣だった。
――ザハール。
その者の名を、呼んでやった。
その手は、雨ではなく、血で塗れていた。
洗い流してやらなければ、と思い、その手を握ろうとした。
闇が、濡れている。夢の中の雨が、ここにも降ったのだろうか。そう思って、アナスターシャはうっすらと眼を開けた。
闇が濡れているのは、幔幕の中にひっそりと滲む、気配のためであった。それに気付いたとき、アナスターシャは跳ね起きた。
「――誰?」
闇から、人間が形を現した。
「やっと、会えた」
その者を、アナスターシャは、知っていた。やはり、と思った。
「戻りましょう。いや――」
帰りましょう、とその者は言った。そして、
「
と付け加えた。
「久しぶりですね」
「ええ」
その者が、自らを姉様、と呼ぶから、アナスターシャは、その者の名を呼んでやった。
「ヴィローシュカ」
「帰りましょう。ニコ様のもとへ」
「ニコは、元気にしているの?」
「北で、戦っています。あなたのことを、気にかけながら」
「北の戦いは、激しいようですね」
「ニコ様を陥れようとする、宰相ロッシの邪魔が入ったりもしています。しかし、ニコ様は、決して負けない。あなたが戻れば、ニコ様も戦いのことのみを考えることが出来、すぐに勝つ」
ニコに、会いたいと心から思った。あの穏やかな声や、美しい髪。彼の全てが、自分に向けられていると感じることが出来た。それは、アナスターシャが知る、はじめての喜びであった。
「だから、戻りましょう。姉様」
ヴィローシュカは、アナスターシャの手を取った。
「いいえ」
アナスターシャは、その手を握り返してやりながら、静かに言った。ヴィローシュカは、呆けたような顔をした。
「わたしは、戻りません」
「なぜです、姉様」
「わたしを、求める人がいるからです。わたしが、ニコを求めるように」
「ニコ様は、あなたを求めている。あなたも、ニコ様を求めている。だから、帰りましょう」
ヴィローシュカは、アナスターシャの心中が測れないらしく、戸惑っているらしい。
「だからこそ、戻れぬのです」
「どういうことです」
「わたしは、この世のことを、知った。誰もが、わたしと同じように、自らの眼に映す人の瞳に、自分の姿が映ることを願っている」
そう言うアナスターシャの薄い色の瞳に、闇の中にぽっかりと浮かぶようにして座しているヴィローシュカが映っている。
「ここにいる人々は、ただ想い、求め、望む。そのことを奪おうとするものと、戦っているのです」
それが、ウラガーンを指しているのだということは、ヴィローシュカにも分かった。
「毒されたか、姉様」
「いいえ」
アナスターシャは、激しくかぶりを振った。
「彼らが、始めたことではないのです。きっと、彼らが現れるずっと前から、それは確かにあったのです」
「あなたの言うことが、分からない」
ヴィローシュカの戸惑いが、苛立ちに変わってゆく。
「たとえば、雨の一粒のように。たとえば、吹いてゆく風のように。わたしたちが産まれるずっと前から、その声は、世の中にあったのです」
それを、彼らが、自らの喉から発する声とし、自らの身体で行う行動としたのだ、とアナスターシャは言う。彼らが求めるものというのは、この世の全ての人が求めるもの。そう姉が言うのを、ヴィローシュカは、泣きそうな顔で、ただ聞いている。
「わたしは、彼らの旗。世は、依るべきものを、求めている」
「ニコ様のそばに、あなたがいる。ニコ様が、この国を正してゆく。それではいけないのですか」
「いいえ、それでよいのです」
ヴィローシュカは、ますます混乱しているらしい。苛立ったように、頭をかきむしった。アナスターシャは、空いている手で、その髪を撫でてやった。
「それを、わたしは望んでいるのですから」
「では、何故」
「だからこそ。それを知ったからこそ、わたしは自分の望みのためだけに生きるということが、出来ないのです」
「姉様」
「だから、わたしは、あなたと共にゆくことは、ない」
きっぱりと、言った。
「ここにいる人々は、皆、それぞれ、己の内側で、求めるべきものを定め、それを知っている。だから、世を正そうとしているのです。ニコと同じように」
ヴィローシュカは、呆然としながら、次の言葉を待った。
「だから、わたしだけが、自らの求めることのみを求めるようなことは、出来ないのです。その心は、この乱れを産んだ心と、何ら変わりはない」
自らの望むところを知り、それを求める。それを成し得るのは、自らの求めに従うことではないと彼女は言う。
「では、何だと」
「あなたにも、分かるときが来るはずです」
穏やかな笑みは、変わらない。それはヴィローシュカの知る限り、世界で最も美しい笑顔であった。
「わたしが、微笑む自らをニコの瞳の中に見ることが出来るようになるには、まだ遠い」
暖かな日差しで包み込むような声。それが、震えるヴィローシュカに向かって降った。
「だから、わたしは、自らの為すべきことを、為す」
「姉様──」
握り合う手が、汗ばんだ。その汗が、アナスターシャのものであるのか、ヴィローシュカのものであるのかは、分からない。
「あなたの立つべき場所は、ここではない」
ニコの側にあること。それこそが、アナスターシャのすべきことである、とヴィローシュカは言った。
「それを決めるのは、あなたではない」
アナスターシャは、穏やかに言ってやった。
「私は、あなたのことを思って──」
「わたしのことを思い、前の巫女を殺し、今度はわたしを、ニコの側に戻そうとする。あなたは、仕様のない子ね」
恨み言ではない。その声には、溢れんばかりの親しみが込められていた。まさしく、肉親に向けられるべきものが。
「行きなさい、ヴィローシュカ」
そっと、握った手をほどいた。
「姉様──」
懇願するように、ヴィローシュカは姉を呼んだ。それに、もう一度同じことを言い重ねてやった。
「行きなさい、ルゥジョー」
ただし、二度目に呼んだその名は、アナスターシャの弟のものではなかった。
闇だった。
全くの、闇だった。
いくらそれを踏んで進んでも、そこには闇があるだけだった。
あるはずのものを理不尽に奪われ、姉弟の二人で、その闇の中に放り出された。父が、精霊の家に入れてくれたのは、幸運であった。食うにはまず困らぬからだ。
だが、ヴィローシュカには、姉を守らなければならぬという強い思いがあった。精霊の巫女。それになれば、もう誰も姉に手をつけることは出来なくなる。この世のあらゆる苦しみの外に、姉を置いてやることが出来ると思った。
だから、前の巫女を、その手にかけることが出来た。それにより、姉は巫女になることが出来た。前の巫女は病気で死んだと思われたが、手を汚した自分がそばにいることで、また姉を苦しめることになるかもしれぬと思い、姉の前を去った。
精霊の家を出てしまえば、食う術はなかった。まだ、ほんの子供だったのだ。世というのは、奪わなければ、奪われた。だから、路地裏に潜み、人からものを奪うことで、彼は自らの生を繋いだ。同じような子供なら、このナシーヤ中のどこにでもいる。
そんなとき、ニコと出会った。
「お前を、探していた」
とニコは言った。
「精霊の巫女を殺したのは、お前だな」
とも。
ヴィローシュカは、罪の裁きを受け、殺されるのだと思った。べつに、それでよかった。
「姉のためにその手を汚し、姉のため、自らの安息を捨てるか」
ニコの声には、これから自分を裁こうとするような響きはなかった。むしろ、とても穏やかで、包み込むような響きがあった。
「お前は、何のために、それをしたのだ」
ヴィローシュカは、答えなかった。
「分からぬなら、それでもよい。だが、考えるのだ」
ニコは、ヴィローシュカに目線を合わせ、少し屈んだ。
「生を捨て、名を捨てたか」
頷いた。それに、ニコは頷き返してきた。
「ならば、俺が、お前に名を与えてやる」
付いて来い、と言い、歩きだした。
数歩歩いて立ち止まり、自分の名を呼び、振り返った。
「──ルゥジョーよ」
新たな生。それは、輝きに満ちていた。この国を変え、乱れを治めるべく大精霊が遣わしたとしか思えぬ、丞相ニコ。その身の回りの世話をしながら、さまざまなことを学んだ。剣や、
ニコがそれを強く願っているのは、国が乱れているからにほかならない。
乱れとは、妙なものを生む。
森の賊が、そうだった。はじめ、それはただの賊であった。しかし、いつからか、それが急に命を持って動き出した。
そして、ニコ率いる王家の軍とぶつかった。その後、彼らは独自に行動をするようになり、姉を奪った。
また、奪われた。ルゥジョーは、そう思った。ウラガーンは、姉を、自分に名と生を与えたニコから、奪ったのだ。それは、悪そのものであった。だから、姉は、どこか遠い空の下で、自分に助けを求めていると信じていた。
ラハウェリやノゴーリャに潜入し、姉を救い出すのは不可能だった。
妙な隊商というものを見つけ、それを追った。それは、紛れもなくウラガーンであった。彼らが、南で何をしようとしているのか。ニコが北にかかりきりになっている間、彼らが何を企んでいるのか、知る必要があった。
当たり前のようにして、それを追った。
姉がいた。
これは、大精霊が与えた、たった一度の機会であると思った。だから、夜の闇に紛れ、それと接触をした。姉は、ウラガーンと共に暮らしていても、美しい寝顔をしていた。その寝息の一つ一つまで、愛おしいと思った。この穢れない、世界で唯一のものを、悪から救い出さなければ、と思った。
だが、姉は、それを拒んだ。
なぜなのか、ルゥジョーには分からない。
なぜ、姉が、自分を拒むのか。
怒りと、苛立ちと、悲しみの入り混じった、名前のない感情が、彼を支配した。それは、さながら、
「何故なのだ」
声に、出してみた。
しかし、闇は沈黙を保っている。
「何故なのだ」
何度も、何度も、闇の中で、自らを拒んだ姉に問うた。
涙。
それが墜ち、乾いた土を少しだけ濡らした。しかし、それすらも、すぐに吸い込まれてしまい、消えた。
「私は、これほどに、あなたを思っているのに」
南で、何かが起きようとしている。
そのことを確かめることは出来なかった。
この場に、留まることが出来なかった。
彼は、自らが追い、求めてきたものに、拒まれたのだから。
史記は言う。そういう者が、どのようにして、自らの思いを叶えるのか、それは、この史記に依らずとも、全ての人の歴史が、既にその答えを示している、と。
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