痛みの肩代わり
「どうであった」
ラハーンは、ラーレの腰に柔らかく手を添え、ヴィールヒらがどのような話をしたのか問うた。
「鉄を、彼らがトゥルケンに運び込む。その後、わたしの兵でそれを守る。そのことを話しました」
「金をどう受け渡すかも、取り決めねばならんな」
ラーレは、また彫像のようになった。ただし、床に敷かれた藁の上で、横倒しになっている。
「これは、機会だと思う」
ラーレの秘所にあてがった手を細やかに動かしながら、ラハーンが笑う。
「ナシーヤは、乱れている。奴らがどれだけの鉄をもたらすのかは知らぬが、精霊の巫女が加わるほどの勢力だ。その鉄を我らの力とし、奴らを足がかりにし、再びナシーヤになだれ込むのだ」
ラーレは、答えない。このようなとき、普段なら、よいお考えです、と短く相槌を打つのだが、もしかするとヴィールヒと会話をしたことが彼女の心に何かしらの波紋を生んでいるのかもしれぬ。
「なかなか、ほぐれぬな」
ラーレの身体のことである。もう何年もこうしてラハーンの激しい愛撫を受け続けているが、ラーレはいっこうにそれを喜ぼうとはせぬ。ああしろ、こうしろという要望には全て忠実に従った。しかし、ラーレ自身は、その行為の最中は、いつもと変わらぬ無表情なのだ。剣を持たず、軍装でなければ、どこにでもいる美しく若い娘である。乱れは、このような人間をも産むらしい。
母の腕で揺らされるよりももっと激しい振動が、ラーレの身体を貫き続ける。やはり、それでも、彼女は、彫像のままであった。
「俺は、王になれるかもしれん。精霊の家の顔色を窺い、このけちな国の王家に気を使うこともなく、思うさま生きられる俺の国の。そのような日が来ることを、お前も望むか」
「そのために、龍を使うのですか」
思っていた返答と違ったらしく、ラハーンは振動を止めた。
「そうだ。龍でも何でも、使えるものは使う。この世の全ては、俺の方に向かって動き始めるのだ。そんな気がしている」
剥がされ、放り捨てられた衣。それは柔らかく、分厚い獣の革で出来ている。ラーレを寒さから守るそれは、獣の命を奪うことで作られた。
壁に立て掛けられた、二本の剣。今まで、何人の血を吸ったか分からぬ。それがあってはじめて、ラーレは人の知るラーレになることが出来た。
ラーレの白い肌を吸いながら、なおも振動を与え続けるラハーン。それこそが、ラーレをラーレにした。
父も、精霊の兵であった。戦いの中で、死んだ。隊を指揮する立場で、このラハーンの部下であった。ラハーンは、ラーレには、父のため、彼女を引き取ると言っていた。しかし、ラーレは、もの言わぬ彫像になった。
「父は、なぜ死んだのでしょう」
ラハーンの振動が、また止まった。ラーレの体内から自らのものを抜き、衣服を纏いはじめる。
「このようなとき、興のないことを言うものではない。そう教えたはずだ」
「申し訳ありません」
ですが、とラーレは続ける。
「ラハーン様にとって、わたしの父のことは、興のないことなのでしょうか」
ラハーンは、答えることが出来ない。答えの代わりに、ラーレを平手で激しく殴った。
「父を失い、人としての生を捨てざるを得なかったお前を哀れに思い、拾ってやったものを。よくも、そんな口がきけたな」
ラーレは、答えない。
彼女は、分かっているのだ。
だが、どうすればいいのか、分からない。だから、激しく
ただ剣を振るい、敵を倒す。そのことでしか、自分がそこに存在することの意味を見出せない。それ以外のあらゆることに、意味はなかった。精霊の家の軍としての自分も、トゥルケンの王家も、ナシーヤの動乱も、そこにつけ入ろうとする主人のラハーンも、不意にやって来て彼女の胸のうちにさざ波を立てたヴィールヒも、精霊の巫女も。全てに、意味などない。彼女は、この世界との繋がりが希薄な存在であった。
一通りの打擲が終わると、ラーレはまた藁の上に戻った。先ほどの続きがあるものと思ったのだ。しかし、ラハーンは続きを行おうとはせず、
「もういい。戻って、休め」
とのみ言った。ラーレは、言われた通りにした。
サヴェフは、ラーレのどの部分に眼を付けたのであろうか。ラーレがこういう歪んだ存在であることを知って、ヴィールヒに会ってくるよう頼んだのか。あるいは、その武名のみを聞き知り、ヴィールヒが会ったところ、思わぬ拾いものであったということだったのだろうか。実際のところは、分からない。しかし、ラーレは間違いなく、その心の内側に龍を飼っていた。ただ、その龍は眠っているというだけのことである。
サヴェフがそのことを知り得たはずはない。彼の目論見は、また別のところにあるからだ。それは史記の後の項にて触れられるであろうから今は置いておく。この時点では、ヴィールヒが彼女を見、その心の中の暗い塊に気付いたに違いないということのみが分かる。
「ラーレを、あなたはどう見るのです」
「お前と同じだろう」
ヴィールヒとアナスターシャは、そういう会話をした。
「わたしと?」
「誰かに造られた自分を自分と思い定め、そのことをまるで悪しきことのように感じている」
端的に、自らの心のひだを言い当てられたような気がして、アナスターシャは黙った。
「やけに、協力的だな」
「そうでもありません」
「後ろ暗いことが、あるのだろう」
「それは、誰しも」
「逃げたな」
それ以上、ヴィールヒは聞かなかった。興味が無かったのか、聞く必要がなかったのか。ニコとの間柄のことを白状せずに済んだから、アナスターシャは胸を撫で下ろす心地であった。
「あなたは、ほんとうに、
「さあな。それをするのは、俺じゃない」
「サヴェフが?」
「違うな」
「では、誰が」
「それは、人ではない」
では、ほんとうに精霊や龍がそれをすると言うのか。アナスターシャには、分からない。
「国を倒して、どうするの」
別のことを聞いた。
「さあな。農夫にでもなるか」
「あなたは国を倒し、新たな国を作り、英雄になるのね」
「馬鹿を言え」
ヴィールヒの眼が、細くなった。
「俺は、英雄になどならぬ。国に、それは要らぬものだ」
それだけ言い、手をひらひらとさせた。自室に戻れ、という意味であると察し、アナスターシャはその通りにした。
二人のウラガーンは、戻っていった。
同じ年の五月にはまた別の者がやってきて、ラハーンと鉄の輸送についての話を始めた。その者が運んできたそれは膨大な量の袋に詰められており、中は粉だった。
「麦の粉です」
ラハーンは、かっとした。
「貴様。鉄をもたらすと言っておきながら、麦だと」
「まあ、お待ちあれ」
使者は荷車から大きな
「ご覧を」
促されてラハーンとラーレが覗き込むと、そこには砕いた石が残っていた。
「この水に溶いた麦の粉は、捨てるなり、また水を抜いて兵糧にするなりなさるがよい」
「考えたな」
ラハーンは、満足そうである。今回運ばれてきた量だけで、かなりのものになる。ナシーヤがいかに資源が豊富であるとはいえ、これほどの量の鉄を密輸することが出来るまでに弱体化しているらしい、と見た。そして、ウラガーンなる新たな組織が、かなりしっかりとした機構を持っているとも。
あとは、一バラット(ナシーヤやトゥルケンの重さの単位。およそ百十グラム)あたりの値を決める話になったため、ラーレは調練の場に戻った。
この日は、弓の調練である。まず、兵らの前にラーレが進み出、自慢の長弓を構える。剣以外にも弓が使えるが、槍やヴァラシュカという斧は重いため、得意ではない。
的は、地に立てられた丸太。
それから、二百歩の距離。
こういうとき、決して眼を閉じてはいけない。眼に映るものの中から、見なければならぬものを拾い上げるのだ。幼い頃、父がそう教えてくれた。
ほんとうに静かな気持ちになることが出来るのは、剣や弓を構えているときだった。
「いつも、どこかで、戦いは起きている。心細いかもしれぬが、ありふれたことなのだ」
そう言って、父はそのまま戻らなかった。
その後、ラハーンに拾われた。それからの生は、
敵を倒すたび、人はラーレを受け入れた。それは、父のいない世界で生きてゆくことを許されるような心持ちであった。
だが、そうではなかった。戦いは戦いを呼び、倒せば倒すほどに敵は現れた。それぞれが帝国主義、保守主義の主張を掲げ、己の保身と利権のため、他者を傷つけた。そして、往々にして、そういう者は、自ら剣を振るい、敵を屠ることはない。ラーレは、ラハーンの代わりに剣を振るい、その手を血に染めているのだ。
痛みの肩代わり。そして、憎しみの肩代わり。ラーレ自身がそう感じているのかどうかは分からぬが、戦いとは、そういうものだ。それゆえ、ラーレは心を閉ざした。ただ命じられるままに戦地に赴き、戦った。自らの号令で兵は進退し、ときに殺し、ときに死んだ。ラーレが肩代わりしたものを、更に兵に肩代わりさせている。そう感じていた。
弓を引いている僅かな間は、ラーレは自分になれた。その時間は、自分だけのものなのだ。
その矢が放たれた瞬間、ラーレはまた戦乙女に戻った。見事に的に
この日の調練は、遠くにあるものに狙いを付けるというもの。風を読み、角度をつけて狙うのは難しい。繰り返しその動作を行なってはじめて、感覚が掴めるのだ。
十人一組となった兵が構え、矢を放つ。二本が中り、あとは外れた。それを、ラーレはただ見ている。
それが一巡りしたとき、また自分が進み出る。
同じように狙い、心を研ぎ澄ました。
小さな的越しに、何を狙い、矢を放つのか。
分からぬが、ラーレはただそれを行った。
ほんの僅かな間、自分になれることを期待して。
どれだけそれをしたところで、彼女が肩代わりをし、させている痛みが消えることはないと知りながら。なお、その動作をやめることは出来なかった。
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