大切にしているもの
馬車は、揺れながら王都を目指す。
夕暮れ前に、その運行は停止する。街で宿を取るのだ。既に述べたかもしれぬが、当時の宿を今の旅館やホテルのようなものと思ってはいけない。寝具は藁を板と木枠で作られた寝台の上に敷いただけの粗末なもので、ときにはただっ広い石の床の部屋に直接藁を敷いただけのもので、個室ですらないものもあった。食事は普通は出ないため、自ら贖う必要がある。ごくまれに、穀類やその加工品のようなものを提供することはある。そして、普通の食堂では、食料の備蓄や保存の設備が現代ほど進んでいないから、メニューというものがない。市などで仕入れたもので、作れるものを作るというのが普通である。後代になれば宿に食堂が併設されていたり、個室や寝台が増えてくるのだが、この時代はまだこんなものである。
ルゥジョーは、麦の粉を水で溶き、薄く伸ばして焼いた生地に塩漬けの羊肉の薄切りを焼いて挟み、丸めたものを手にしている。王家や、特に軍においては軍装のままでも座ったり立ったりし易いようにと東方より伝わった椅子と卓を用いるが、ちょうど、椅子や卓がこの地で用いられだした過渡期の頃で、都市部の店ではそれらを用意していることもあるが、昔のまま、板敷きや石敷きの床に座って食うところもまだまだ多い。
ついでに述べておくと、彼らは座るときは、
社会が複雑になると、定め事が多くなる。それが未成熟であった頃には当たり前のようにして、ごく自然な動作として行っていた「座る」という行動にまで、人は決まりを作った。それはすなわち、その個体自らが行動、挙動を社会に合わせるということであり、種族としての習性により形成されるような動物社会との大いなる違いである。
アラビア圏で生じたこのやり方は当時「胡」と呼ばれたモンゴルから中国や朝鮮に伝わり、それを通じて日本にも取り入れられ、長い間男性の間で広く用いられている。古い時代においては胡坐はきわめて正しい座り方であり、時代劇などでは男性も正座をする姿が散見されるが、畳と小笠原流礼法の普及した江戸時代の享保の頃より後でない限り、男性は正座はしない。もともと神道において祈祷の際に取られるか、将軍に礼を行うときにしか用いられなかった正座を、社会の複雑化と共に新たな価値観や決まり事を定める必要にかられた際、胡座に変わるものとして用いるようになったのだ。
ちなみに、正しく座ると書いて正座であるが、人の身体構造からしてこれほど非合理的な座り方はあるまいと思い、筆者は目上の客前でない限り、古式の胡座で通している。
それは、どうでもよい。
ルゥジョーは、ヴィールヒと向かい合い、胡坐の姿勢で座っている。
手にしたものを咀嚼する音が、続く。それ以外の音といえば、食事を提供する店の外の、雨。他の客も多くいるが、皆ものも言わず自らの腹を満たしている。
この時代の旅とは、大変なものであった。必ず国内のあちこちで戦いが起きていて、その地域を避けて通らなければならない。避けたら避けたで、今度は戦いにより生きる場を奪われた者たちが野盗として群れを成しているから、それにも怯えなければならない。戦いとは、必ず人から何かを奪う。あまりにも多くのものを奪うから、人はまた別の人から何かを奪うことになる。
商いをする者にしてもそうだ。自らの荷を誰かに奪われる危険を押して物を運ぶ彼らは、より多くの利を求める。そして、戦いという消費の終着行為によって、国により営まれる鉄や塩、紙などの値段が騰がる。つまり、民の所得が増えぬまま、物価のみが
また、限られた者のみが扱える商売は、不正の元になりやすい。塩や鉄などの重要物資は王家によって運営されているとはいえ、実態はそれに委託された地方軍やそれを治める候の管轄となっていることが多く、そういう者どもと商人らとが結託して物の値を吊り上げたりするのが当たり前になっていた。こうして富める者は富み、飢える者はますます飢えた。
この食堂にいる人々の表情。それこそが、この国の縮図であった。
「おい」
ルゥジョーは、視界にあった商人らしき男どもに声をかけた。ヴィールヒと向かい合っているという気まずさと重圧から逃れる意味もあったのかもしれない。
「その荷が売れて、幾らになる」
男どもは、脇にそれぞれ置いた大きな荷の袋を顧み、
「一人で、
と答えた。
「どこから来た」
「北よ。俺達は、サンカラの商人だ」
サンカラとは、ナシーヤの国土の北の山岳地帯にある、比較的拓けた街である。ニコが北方の国からの侵攻を退けた際、この街の近くに砦を築いたという話を聞いたことがあるから、何となく距離感が分かった。
「そんなところから。では、旅にかかる金を差し引けば、ほとんど儲けが出ぬのではないか」
「そうだ。だが、売らなければ、俺達は死ぬだけだ。北には、もう
「そうか」
何事かを考え込むルゥジョーに、商人の一人が問うた。
「お前は、何を商っている?荷が無いようだが、この辺りでも盗人が出るから、出来るだけ手元から離さぬ方がいいぞ」
「いや、俺は」
「お前、商人ではないのか」
「王都から来た」
「役人か」
役人、という言葉を聴いた途端、商人らが立ち上がった。別の座でも、ルゥジョーの方を見て立ち上がる者が何人かあった。
「おい、皆。こいつ、役人だ」
憎しみに満ちた眼。
ルゥジョーは、初めて見た。
自分に、それが向くのを。
「いつもいつも、自分達ばかり、いい思いをしやがって」
「どうやら、二人連れらしいな」
日頃の鬱憤をここで晴らそうというつもりか、商人どもは座を立ってルゥジョーを囲んだ。
「おい、やめろ」
まさか、無実の民を斬るわけにはいかない。
「お前たちは、いつもいつも、俺たちから奪って行きやがって」
「何が、王家だ。何が、役人だ。そんなものが、役に立った試しがない」
浴びせかけられる、殺気立った罵声。
それが止まった。
ヴィールヒが、立ち上がったのである。
「勘弁してくれ。こいつは、役人じゃあない」
「何だと」
「この鼻たれは、これから役人になろうとしている、ただの餓鬼さ」
ルゥジョーは、むっつりと黙った。どうやら、子供扱いをされることが嫌らしい。
「だから、お前達の怒りをぶつけたところで、仕方がないのだ」
「役人になろうとしているなら、思い知らせてやればいい」
「待て」
ヴィールヒの声は、不思議である。特段、変わった声でもない。しかし、話し方はゆっくりで、色がない。思わず、人が耳を傾けるような声であった。
「恥ずかしい男どもだ。こんな餓鬼相手に、数人がかりで」
「なんだと、てめえ」
商人の一人が、気色ばんだ。
「まあ、致し方あるまい。普段、人に奪われるばかりなのだ。小僧を相手に凄むくらいしか、その憂さを晴らす術が無いのだろう」
商人どもは、怒りで肩を震わせている。
「心底、憐れに思う」
そうヴィールヒが、言った。
言って、手に持ったままの料理を口に運んだ。商人どもが、ヴィールヒに摑みかかろうとするが、止まった。
「この麦も」
口を咀嚼のために動かしたまま、ヴィールヒは言う。
「誰かが、何かのため、作ったもの」
拳を振り上げかけた商人は、射抜かれたようにその動きを止めたままである。
「誰かが、誰かのために、何かをする。それが別の誰かの腹を満たし、幸福にし、その糧を得た者は、また別の誰かのために何かをもたらす。そういう国でなければならんな」
商人らに同調するような響きがあった。
「この国の形は、歪んでいる。そうは思わぬか、小僧」
ルゥジョーは、答えた。
「だから、それを正すのだ。正しき行いで」
「そうか」
ヴィールヒは商人らに眼をやり、
「どうだ、この小僧は、こう言っている。ここは、勘弁してやらないか」
と持ちかけた。商人らも馬鹿馬鹿しくなったのか、それきり座に戻り、食事を続けた。
「礼を言う」
店を出て宿に戻る道中で、ルゥジョーは言った。
「何の」
「先ほどの商人どもと、争いにならずに済んだ」
ヴィールヒは、少し笑った。
「何故笑う」
「何故、斬らなかったのだ」
「このようなところで民と争えば、王家の軍の名に関わる」
ヴィールヒが、また笑った。
「馬鹿にしているのか」
「いいや。ただ、お前が大切にしようとしているものが何なのか分からないから、それがおかしかったのだ」
丞相ニコの補佐。それが、ルゥジョーの生。ルゥジョーにも生まれた家はあるが、それはもうない。一人姉がいるが、それと接触を持つことは出来ない。つまり、ルゥジョーに許された生とは、拾われた丞相ニコのもとで、それを
丞相ニコは精霊の巫女アナスターシャを妻とし、精霊の加護と王家の軍の力を国内に知らしめ、この乱れを治めるのだ。
その意味で、明らかに、森の軍は邪魔である。勝手に精霊の巫女を奪い、それを立てることなど、許されることではない。
だが、ルゥジョーには分からない。森の軍のサヴェフが、大いなる勝ちと引き換えにしてまで取り戻したがったヴィールヒとは、何なのだろう。こうしてその人間を見てそれに接し、話しても、一体彼が何を考え、何を見、生きているのかが分からない。そしてその彼は言う。
お前が大切にしようとしているものが何なのか、分からぬと。
宿に戻り、同じ馬車で旅をしている傭兵や女にちらりと眼をやり、ルゥジョーは自室に戻った。
眠りに落ちようとしたとき、外を雨が叩く気配がした。
それに眼を開けることはなく、ただ引きずられるままに任せ、眠った。
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