馬車にて
ルゥジョーは、急いだ。一晩だけノゴーリャで夜を明かし、翌朝一番で街外れの馬車乗り場に向かった。
王都にいては、サヴェフがこれほどまでに危ない存在であるとは分からなかった。なにごとも、自らの目と耳で、そして肌で感じなければならないと思った。
あまり目立たぬようにしてここまで来るため、馬は用いていない。帰りは、乗り合いの馬車を用いて
馬二頭立ての、帆付きの馬車である。十人以上の人が乗れるであろう。このご時世で大きな移動をしようという者は傭兵か商人くらいのものだから、客は、他にはまだ三人ほどしか集まっていない。
余談であるが、このナシーヤでは、馬は貴重である。本来、農耕のために用いるべきところであるが、戦乱が続くため、馬はもっぱら軍のものとなっていた。牧も、民営のものはない。全て、軍もしくは王家のものであった。ただ、馬といっても気性や体格などは様々だから、軍馬に向かぬようなものを、このようにして民間に下げ渡すことがあった。その際も法外な対価を支払わされることが殆どであったから、彼らはあまり馬を用いるということに慣れていなかった。牛は民間でも牧を営むことが許されていたから、荷を曳かせたりするために使役する際は、牛を用いることが多かった。
だから、きっとこの馬車に繋がれている馬も、足が遅かったり気が優しかったりする、文字通りの駄馬なのだろうとルゥジョーは思った。一頭は見事な芦毛を持っているが、見た目が良いからといって軍馬に適しているとは限らない。
馬の牧が民間では営めなかったという事実からも、森の軍がどういうものであったかということの片鱗が窺える。彼らは、森の賊と言われていた頃、かつての首魁アガーシャが軍から横流しを受けた馬をもとに、牧を営んでいたのだ。それだけでも、彼らが、ただの無頼漢の集まりではなかったということが分かる。
森の軍では特に馬の育成に力を入れ、僅かな間に、独自に騎馬隊を構成するまでに数が
そして、王家の軍との折衝により名目上その傘下に入ったことで軍として認められたため、誰も彼らが牧を営むことに異議を差し挟むことは出来なくなっている。
だから、彼らは、明らかに軍であったのだ。
無論、ルゥジョーはそこまでのことは知識としてしか知らず、その実態までは分からないから、考えない。ただ、馭者に人数分の金を握らせ、すぐに出立するように急かした。
馬車は、進む。
どう復命するかを、ルゥジョーは考えた。何故自分がサヴェフを斬ることが出来なかったのかも。
街を出ると石畳は土に変わるから、振動は柔らかくなる。
そこで、ふと周りを見た。
客は、三人。
一人は、女。フード付きの外套を被っているから、顔は見えない。黒い髪の艶の具合から、若いらしいと思った。何かの行商なのか、大きな荷を二つ、脇に置いている。貴重なものでも入っているのか、それを揺らさぬよう、手を添えて気遣っている。
もう一人は、体格の良い男。長柄の槍を持ち、粗末な革の胸鎧を身に付け、革袋を脇に置いていることから、傭兵であるということが分かる。
さらに、もう一人。これも男。ひょろりとした、線の細い印象の男であるが、荷を持った女と同様にフードを被っているから、顔は分からない。眠っているらしく、その頭部がこくりこくりと前後している。分からぬのは、その男が荷を持たぬことである。また、そのくせ、隣の傭兵と同じく、槍を手にしていることであった。槍はそれほど長いものではないが、柄は鉄拵えで装飾が僅かに施されている。だが、男は平服なのだ。傭兵ならば、武器だけではなく鎧なども帯びているはずである。男の身なりは、なんの変哲もない、薄汚れた生成りの麻衣。それに、ルゥジョーは見覚えがあった。いや、この時代においてはそれはどこにでもあるものであるから、確証はない。しかし、ルゥジョーの頭の中で何事かが繋がり、思わず声をかけたのだ。
「おい」
男は、頭を上げ、眠そうな眼を開いた。開いて、
「なんだ。まだ、昼にもなっていないのか」
と帆の外を見て、眩しそうに眼を細めた。
「おい、お前」
「おお、誰かと思えば、昨日の。サヴェフには、会えたのか」
男は、昨日軍営で言葉を交わしたあの金髪の男であった。なぜ、それが今、ここにいるのか。
「お前は——」
何者なのか。それが、口から出なかった。
「——お前、お前と、お前は言うがな」
男は、また外に眼をやった。
「やはり、眩しいな。星明かりくらいが、ちょうどいい」
それは、独り言。再びルゥジョーに眼を戻し、続けた。
「俺は今、あるべくして、お前の前にあるのだ、ルゥジョー」
名を、知っている。名乗ったことはない。ルゥジョーは、背中が冷たくなった。
「そう、尖るな」
ルゥジョーが脇の剣に手をやろうとしたのが分かったのか、男は静かに言った。
「お前の、名は」
ルゥジョーは、からからになった喉を動かして言った。
「ヴィールヒ」
まさか、と思った。もしこれがヴィールヒなら、王殺しの疑いをかけられて二年の間獄に投じられ、サヴェフが王家の軍との勝ちと引き換えに取り戻した、あのヴィールヒということになる。
そう思うと、この男の持つ異様な気にも、納得がいく。強い気を放つわけでもなく、放たぬわけでもない。たとえば、空に星があるような、あるいは、ふと雨の粒が頬を打つような、そんな気であった。
それが、得体の知れない威圧となり、ルゥジョーを包む。
いや、威圧ではない。ルゥジョーは、はっきりと自覚した。
恐れているのだ。この男を。
なるほど、二年も獄に入れられれば、眼が悪くなるのかもしれない。ヴィールヒは、ほとんど開いているのかいないのか分からぬような眼を、静かにルゥジョーに向けている。
そして、どこか、荒んでいるようにも見える。長い間心と身体を責められれば、こうなるのかもしれない。いや、この程度で済んでいるということもまた、ヴィールヒの心身が並ならぬものであることを表しているのかもしれない。
「まあ、王都までは、まだまだ長い」
ヴィールヒは、ごろりと横になった。
女も、傭兵も、それに対してどのような反応も示さない。
「サヴェフは、何か言っていたか」
「巫女を、ノゴーリャに移すと。それを立て、乱れを鎮めると」
ヴィールヒは、口の中で笑った。
「それを、お前に言ったか、あいつめ。なるほど」
何がなるほどなのか、ルゥジョーには分からない。
「あいつめ、昨日の夜になっていきなり訪ねてきたと思えば、王都に行けと言う。なるほど、そういうことか」
「そういうこととは、どういうことだ」
「静まれ」
そう静かに言う声の前に、ルゥジョーは動くことが出来なくなった。
「王都までは、まだまだある。そう気を張っていては、疲れるだけだぞ、若造」
そう言うヴィールヒも、まだ二十を超えたところであるが、あえてルゥジョーを刺激するような口ぶりを取った。
「とにかく。お前は、俺と共に、王都へゆくのだ。おかしなことを考えることは、出来ない。俺は、王都に行くだけだからな」
確かに、そうである。ここにヴィールヒが居合わせたからといって、どういう不都合もない。しかも、ヴィールヒは、武器こそ持っていても、平装である。すなわち、今ここにあるヴィールヒは、いかなる立場の人間でもない、ただの一人の男ということになる。ただの男がどこに行こうと、丞相の従者にしか過ぎないルゥジョーが口を挟むことは出来ない。下手に手を出し、それこそヴィールヒと争って殺しでもしたら、ルゥジョーの、いや、王家の軍の信用は失墜する。
「王都に行って、どうするのだ」
「さあな」
「サヴェフに言われ、行くのか」
ヴィールヒは、答えない。
「その槍で、どうするつもりなのだ」
「ああ、これか」
ヴィールヒは、傍らに放り出している槍を、引き寄せた。それだけで、激しい風が馬車の中に巻くような気がした。
「べつに。どう使うかは、使うときになって、考えるさ」
普通の槍よりも、短い。ヴィールヒの身長くらいしかないか。刃は鞘に納められているから見えない。重さで敵の装甲を叩き割ったり貫いたりするものではなく、速さでもって正確に敵の鎧の切れ目を突いたり、すれ違いざまに斬ったりするものなのだろう。
「聞けば、その槍は、精霊の怒りなどと言われるそうではないか」
「そうだ。人は、そう呼ぶ。俺は、ただの槍だと思っている」
「戦場で雷光を見、それが墜ちたところにその槍があったという話は、ほんとうか」
ヴィールヒは、吹き出した。
「まさか」
「では」
「拾ったのさ。いや、倒した敵から、奪った。それだけのことだ」
やはり、人の口はあてにはならない。戦いは常態化し、人はその中で働く人間に対して娯楽性を求める。各地で噂される傭兵や軍人の活躍話などが、そうだ。
「そんな話を間に受けていたのか、若造」
ルゥジョーは、黙った。これ以上喋れば、腹を立ててしまう。こういうときは、口を開かぬのに限る。しかし、ヴィールヒには、話させなければならない。彼が何を思ってこの馬車に乗り、何を思って王都に向かうのかを。
やや鋭い振動が、ルゥジョーの尻を突いた。車輪が石か何かを、踏み越えたらしい。
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