瞳
――人は問う。其は何ぞやと。大精霊、答えて曰く、此は龍が牙なりと。龍もまた、地に立ちて、人の追うものなりと。
ウラガーン史記 第三章八項 龍が牙より抜粋
「サンス。頼まれてくれるな」
サヴェフが、サンスに早速頼み事をしている。
読者諸氏はお忘れかもしれぬが、この時点での彼らの目的は、精霊の巫女をその手にする足掛かりとして、そしてそこから続く更なる事業の拠点としめ、ノゴーリャの街を奪うことである。そのために、サンスは加えられた。
「構わぬが、手本が要る」
サンスは、博奕をよくする。これは彼の特技と言ってよいのかどうか分からぬが、その中で、証文の偽造をよくした。サンスのために断っておくが、彼にとっては博奕そのものが生き甲斐であったから、証文の偽造というのが本業であったわけではない。彼がそれをするのは、例えば街で威張り散らしてばかりいる鼻持ちならない名家の次男坊相手であったり、貧しい者から不必要に物を奪ったりする大商人相手のときのみであった。サンスは、博奕自体、めっぽう強い。運にしか左右されるはずのない
「俺は、大精霊に惚れられている」
らしい。
賽子というのはとても歴史の古いもので、もともとは占いの手段であったものが、遊びの道具になったという。詳しい発祥はよくわからぬが、もともとは柱状の動物の骨を使用していたらしい。たとえば、紀元前八世紀頃であったと思うが、その頃のアッシリアの遺跡からは既に今と同じような正六面体のものが出土しているという話を聞いたことがあるから、人類史において相当に古い道具であることは間違いない。それを、サンスはいつも懐に忍ばせている。
上に挙げたような、サンスが懲らしめてやりたいと思うような相手と博奕をするとき、彼はそのいたずらをしばしば行う。博奕をする際に取り交わす証文を、以前に取った証文の字を真似ることで相手の筆跡そっくりに偽造し、現代で言うところのサインまで完璧に真似、あり得ぬほどの対価を巻き上げたりするのだ。その金を、路地裏の貧しい子に分け与えてやったり、自分自身が楽しむために使ったりするのだ。それがために恨みを買い、捕まったわけであるが、サンスのその才能が、彼が思いもしなかったことに使われようとしている。
「手本なら、既にある」
サヴェフは、用意が周到である。街に焼き物を売りに行く者に言いつけて、どこからかくすねてこさせた、軍の文書。おおかた、酒場で眠っている兵から奪ったのであろう。
「これを、真似ればいいんだな」
サンスは、獣の革に書かれたそれを、じっと見つめた。
「どれくらい、時間が要る」
「まず、一日。内容は、どうすればいい」
「今から言う」
「まったく、妙なものを賭けちまったもんだ」
サンスが苦笑し、森の軍が本営と呼んでいる小屋の隅で座っているイリヤをちらりと見た。
これが、森の軍におけるサンスの初仕事となる。その場にいたサヴェフも、イリヤも、ザハールも、陽が暮れる前にどこかに行ってしまった。サンスはそれらに目をくれることもなく、じっと軍の文書を眺めている。その文書自体は、大したものではない。ある兵に課せられた、異動命令のようなものであった。この文書の本来の持ち主は、王家の軍と人が呼ぶ中央軍から、グロードゥカ地方軍への移動を宣告されたらしい。それはどうでもよいことであるが、サンスは今から、用意された新しい獣の革に、サヴェフに頼まれた通りのことを書こうとしている。
手本にする文書を、様々な角度から見てみる。それを書いた者がどんな者であったのか、字を見れば何となく想像できるのだ。おそらく、人を観察したり、想像する力を、博奕をすることで培ってきたのだろう。今までなら、その相手を知っていることがほとんどであったから、それほど苦労はしなかったが、今回は全く知らぬ相手が書いた何でもない字を真似るのだ。
なかなか、姿が見えぬ。
獣の油を燃やして灯された火が、少し揺れる。冬の風が、吹いてきているらしい。
サンスは、板をはめ込んだ窓を開き、その冷たい空気を小屋の中に招き入れた。
四角く穿たれた枠の向こうには、星。
息をするように、ひとつひとつが瞬いている。なんとなく、それを見上げた。
「――寒い。閉めろ」
背後で急に声がして、サンスはぎょっとして振り返った。
風を受けて揺れる灯火に、一人の男が浮かんでいた。
「なんだ、お前。いつから、そこに」
「お前がサヴェフらに引かれ、入ってくるより前からだ」
サンスは、その男から異様な圧力を感じた。その男は、まだ若い。サンスよりも、幾つも歳下であろう。しかし、なにか、圧倒するような気を、男は持っていた。それを決して外に放とうとはしないが、サンスには博奕で培った勘がある。それが、あぶない、と告げていた。
「嘘をつけ。お前など、はじめはいなかったぞ」
「それはそうだ」
男は、喉を鳴らすように笑い、椅子を引いて腰かけた。
「この小屋の中の、どこにいたっていうんだ」
「隅の藁の中で、眠っていたさ」
なるほど、小屋の隅には藁が積まれている。その中で眠れば、温かいであろう。男は金色の髪から藁屑をつまみ、捨てた。
なんでもないことであるが、異様なことなのだ。サンスは、自分の勘や、気配を読む力に絶対の自信を持っている。それが、いくら隅で眠っていたとはいえ、この男の存在に気付かないなど、あり得ないのだ。博奕の勝負のとき、街のごろつきなどはよく酒場に仲間を伏せさせていたりするが、そのようなもの、彼は一瞬で看破してしまう。
サンスは、だんだん、恐ろしくなってきた。眼の前にいる、得体の知れぬ圧迫感を与えてくる男が何者であるのか、全く分からない。
「座らぬのか」
男の癖なのか、ちょっと眼を細めるようにして言った。
「おう、座ってやるとも」
男が閉めろと言った窓を閉めると、何故か声を大きくして、男の正面、もともと自分が座っていた椅子に腰かけた。
「何をしている」
男が、サンスの前の文書を覗きこんでくる。
「サヴェフという奴に、頼まれた。軍の文書を、書くんだとさ」
「そうか。サヴェフは、何と書けと?」
その内容を伝えると、男は苦笑し、立ち上がった。
「災難だな。同情する。せいぜい、頑張ってくれ」
小屋から出る前に、男が、サンスの名を尋ねた。
「サンスだ。あんたは?」
「ヴィールヒという」
ヴィールヒが扉を開けると、冬の風が一気に小屋の中に吹き込んできた。
その風を生む
翌朝、サヴェフとイリヤが様子を見に行くと、サンスは椅子と卓に腰掛け、まだ何も書かれていない革を睨んでいた。
「おい、どうした」
「話しかけないでくれ」
羽の先を割ったペンのようなものを手に取ると、一気に革にサヴェフが言った内容を書き付け、手本にした中央軍の文書を書いた者のサインまで書き上げた。
「これで、いいだろう」
差し出されたそれを見たサヴェフは、驚いた。ほんとうに、精密なのだ。文字の形は勿論、それを描くときの力の強さや、文字同士の間隔など、すべての癖が再現されている。
「大したものだ」
「俺がこれをするのは、自らが正しいと思ったときだけだ。これほどよく分からぬ状態で書いたのは、初めてさ」
苦笑するサンスは、イリヤと目を合わせた。
「まったく。俺は、一体、何を賭けちまったんだ。そろそろ教えてくれ、イリヤ」
イリヤがサヴェフを見、サヴェフが頷く。
「俺たちは、これから、ノゴーリャの街を奪いにゆくのだ」
「なんだって」
サンスは、仰天した。
「それが、この文書だっていうのか。お前たち、一体、何を考えているんだ」
てっきり、サンスは、知り合って自らを牢から逃がしたイリヤらを、反乱軍か何かだと思っていた。それは半分は当たっていて、半分は、少し違うということにこのとき気付いた。
「だから、言ったろう。ノゴーリャの街を――」
「違う、イリヤ。ノゴーリャの街を奪って、どうするんだと聞いている」
サヴェフが、口を挟んだ。
「サンス。お前にも、これからはその力を使ってもらうのだ。話しておこう。私たちは、精霊の巫女を、奪おうとしている」
サンスは、更に驚いた。精霊の巫女といえば、王家ですら手を付けることの許されぬ、守護不入の聖堂の中の絶対的な人物である。大精霊と直接繋がることができるたった一人の人間であり、それは人でありながら人を超えたような存在であると民には認識されている。
それを奪い、この森の軍は、どうするのか。ノゴーリャで、何をしようとしているのか。サンスは、それ以上問うと頭痛が起きそうであったから、何も言わぬことにした。
「助かった、サンス。眠っていないのであろう。よく眠れる薬草がある。それを擦り、温めたものをやろう。ただし、もう少し後でな」
促されるまま、サンスは小屋の外に。
そこには、武装した五百もの人が集まり、整然と並んでいた。荷車やそれを曳く馬のほか、騎馬の者もいる。はっきり言って、面食らった。これは、文字通りの、軍である。それらと向かい合うようにして小屋の脇に並ぶ者の中央に、サンスは立たされた。すぐ隣に、昨夜話したヴィールヒが立っている。
「彼は、サンス。長く、ノゴーリャの牢に入れられていた」
サヴェフが、全員に聞こえるように、声を張り上げる。小柄であるがその声は太く、森の木々も枝を揺らすようであった。
「これより、我らは、ノゴーリャに入る。道中、いくらか時間がある。皆、考えてくれ」
曇った空の下、しんとした音が流れる冬の空気。それが急に揺れ、風が吹いた。
「何故、自分が戦うのかを。あえて、強いはせぬ。これは、我々の、個の戦いなのだ。しかし、忘れるな。お前たちが抱く何事かを、希望に変えてゆくことを。そのために、戦うのだということを」
サンスには何が何だか分からない。一斉に声を上げる兵の気迫に圧倒され、周囲を見回すのみである。
「――進発。まずは、ノゴーリャへ」
サヴェフが剣を抜き、号令を下す。兵らがそれに応じて声を上げ、動きだす。
それは、一個の動物のようであった。
その鱗のように光るのは、瞳。五百人が持つ千の瞳が、それぞれの色に燃えていた。皆、何かをそれに強く映しているのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます