脱出

 ノゴーリャの街のあちこちで、騒ぎになった。もうとっくに夜は更けているが、囚人が逃げたとあれば兵は昼間よりも騒ぎ立てる。

 しかし、イリヤの好きな裏路地は、静かであった。三人の僅かな足音と雨の音が響くのみで、冬のことであるから鼠すらも姿を見せない。その静かに濡れる闇を、滑るようにして逃げた。

「なぜ、俺が正面の門から逃げたと思ったのだろう」

 牢から離れて少し落ち着いたのか、サンスが疑問を口に出した。

「俺の仲間さ。あいつめ、いかにも牢の役人って声を出しやがる」

「仲間がいるのか。声とは、何のことだ」

「いや、いいさ」

 そこへ、気配。三人は、身を縮めた。

「誰かいるのか」

 二人組になった兵らしい。裏通りを通じ、毎月決まった日に市が立つあたりまで逃げてきたが、ここまで既に探索の手は及んでいるらしい。兵が手にした明かりが、三人の潜む闇を払うべく、路地に差し向けられようとする。

 そこへ、爆音。

「なんだ、今の音は」

「街の入り口の方か」

 兵どもは慌てて音のした方へと駈け去った。

「おい、イリヤ。一体、何がどうなっているんだ」

 暗がりから身を滲み出させたサンスは眼を白黒させているらしい。

「嫌な奴らだ。俺があんたを救い出すのを、見計らったような真似をしやがって」

 夜は更けているが、あちこちを行き交う兵の声や爆音により、民も起き出しているらしい。あちこちの家に火が点り、中にはめ込んだ木板を開け、何事かと窓から顔を覗かせている者もある。この騒ぎに紛れれば、脱出できる。三人は、通りに出て駆け出した。

「お前の、仲間」

「そうさ。賭けに負けたお前が、加わるところさ」

「それは、一体」

「森さ」

「森?お前達は、一体」

 イリヤ達は、一体、何者なのだろう。他人に、彼らが何者であるかを端的に伝えることのできる言葉を、イリヤは発した。

「さあな。俺にも、よく分からねえ」

 それを聞いたサンスは、笑った。

「来るぞ」

 ルスラン。闇の中慌てたように揺れる灯火を見つけた。雨のときは、それが大きくなったり小さくなったりする。目の前の五つの灯火もちょうどそのように、闇を押したり、引いたりしている。

「まずい。暗がりに——」

 イリヤが、慌てて身を隠そうとする。

「——無用」

 ルスランは、駆けるのをやめない。

 前方の灯火が、一斉に三人の方に向けられる。雨の中を騒ぎから遠ざかるようにして駆ける気配を、不審に思ったのだろう。灯火の持ち主の一人が、声を発した。

 ルスランの、踏み込み。

 深く沈み込み、声が、その雨にぶつかる刹那。

 刃の上で遊ぶ水の玉が、二つに。

 左足が、濡れた石畳を打つ。

 目を合わせた。

 自らの重みで腿を膨らませて、その力を、腰に。

 敵と定めた、瞳。

 そこには、怯え。

 腰が戻る勢いに、両の腕が続く。

 飛沫。

 雨を、斬る。

 いや、雨のその部分にだけ、穴を穿つような。

 まさしく、竜巻タルナーダ

 あとに残ったのは、鎖で編んだ腰当てを付けた下半身が三つと、吹き飛ばされ微動だにしない兵が二人。

 振り切った片刃槍の勢いで身をひとつ廻し、ルスランが残心を示す。

 イリヤもサンスも、ルスランの槍のあまりの威力に、息を飲むことすら出来ずにただ立っている。

「暗がりが欲しいなら、作ればよい」

 無残な姿となった五人が頼りにしていたであろう灯火は地に転がり、雨に蝕まれている。

「なんて野郎だ」

 サンスが、散らばったはらわたを避けるようにして死体の脇を通り過ぎながら呆れた声を上げた。

 街の北へ抜ける、真っ直ぐに伸びた街路。この時代でも、大きな街の主な街路は石畳であることが多い。

 余談であるが舗装という技術は文明においてかなり古くからあり、たとえばメソポタミアの中心都市などではその頃既にアスファルトが使用されていた。メソポタミアと言えば紀元前五世紀頃であろうが、無論その頃アスファルトという新しい呼称はない。ビチューメンという古い言い方が今でもヨーロッパでは一般的である(ヨーロッパでアスファルトと言えば、ビチューメンに石や骨などの添加物を混ぜた合材のことを指す)らしいから、きっとその語源となった古い言葉があったのだろう。他にも古代エジプトのピラミッドの石材運搬用の丈夫な石の舗装、クレタ島に残るような基礎をモルタルやセメントで施した上に石を敷くもの、あるいは秦の始皇帝が奴婢を使い、自らが行幸する国内の街道に、土にひとつずつ石を打ち込んで作られた舗装などが有名である。

 このナシーヤにおいては、東の山で切り出された花崗岩などでもって施されることが多い。あまりにも長く戦いが続くから、街の中も主要な街道も手入れされることが少なく、すっかり荒れている。

 その浮いたり、割れたりした舗装の街路を、三人はゆく。夜更けの雨は止み、雲の形が分かるようになっている。僅かに生じた隙間から、月。それだけで、世界には光が降る。その光に、横一直線に浮かぶ影。それは街の周囲に巡らされた土塁や石垣。そのあちこちに設けられた切り通しが、門というわけである。街の正面、すなわち南の方でにわかに起こった騒ぎのせいで、北の門にはわずかな兵のみを残し、ほとんど居ない。

 その集団めがけ、三人は駆けた。サンスが機転を利かせ、

「大変だ、大変だ」

 と叫ぶ。ルスランの言う通り、闇がなければ作ればよいという腹らしい。

 十人ほどで門を固めている兵が、サンスらが近づくのを何事かと待っている。

「た、大変だ」

 大袈裟に肩で息をしながら言う。立ったまま腰を折り曲げ、膝に両手をつくような姿勢である。

「どうした。何があったのだ」

 兵は、冷たい光の中にぼんやりと浮かぶサンスの白い息が消えるのを待った。

 数度、大きく肩を震わせた。

 流れに潜む魚のように、突如、身を翻した。

 手に、剣。兵の腰にあったものを抜いたらしい。それが、文字通り魚の鱗のように、閃いた。

 刺し貫かれて前のめりになる兵の身体を避け、前の一人に突進する。兜のひさしに手をかけ、押す。押しながら、身体を兵の右側に滑り込ませ、兵の左膝裏に足をかける。めり、と嫌な音を立て、兵の兜は背中に付いた。

「こいつ、やりおる」

 サンスが前方にいるため槍の使えぬルスランは、ひとつ笑って槍を地に突き立て、剣を抜いた。

 それが一振りで二人の兵を斬り飛ばす頃、サンスは新しい敵に組み付いている。どうやら、人を殺したことがあるらしい。数人に囲まれるような窮地を切り抜けるようなことが一再ではなかったのだろう。ある意味、その戦いぶりが、慣れていた。

博奕ばくちをやってりゃ、揉め事も多くてね——」

 組み付いた敵の腕を絡め、勢いをつけて身を返す。そこへ振り降ろされた別の敵の剣が襲いかかり、腕を捉え身体の位置を入れ替えたサンスの代わりに、捉えた者が斬られた。

 イリヤもそこでやっと剣を抜いたが、構えることが出来ない。彼の本能が、足を前に出すことを許さないのだ。その代わり、後ろからの気配に気付いた。

 口々に何かを叫ぶ集団。馬ばかりである。兵。街のほぼ中央にある役所や牢、軍の建物があるあたりから、四方に放たれた騎馬隊であろう。まだ遠いので気配から数を読むことはイリヤには出来ぬが、いよいよ晴れた雲の向こうから見下ろしてくる月に浮かぶ影の大きさから、多いということだけは分かった。

 ――駆けろ。

 声が、濡れた石畳に跳ね返る。それは、石畳に光る月が意思を持ったかのようであった。イリヤは、何も考えず、誘われるようにして駆けた。

 一人に、身体ごとぶつかる。固く、そしてねっとりとした手ごたえがあり、鎧ごと胴を貫いたことを知る。力任せに引き抜くと、また声。今度は、大柄なルスランの、太く低いものである。

「伏せろ」

 ルスランの手が、石畳の隙間を貫くようにして逆さまに立った槍の柄を掴んでいる。

 イリヤも、サンスも、その場に伏せた。濡れた石畳の匂いが、鼻の中で笑った。

 伏せた二人のすぐ横で、その石畳を割らんばかりの強烈な踏み込みがあり、頭のすぐ上を、竜巻が一瞬、通った。

 鎧もなにもあったものではない。こういう地方軍の守備兵の身にまとう鎧というのは鎖でもって編まれたものか、鉄の板を何枚か合わせただけの簡素なものではあるが、それごとルスランの呼ぶ竜巻は粉砕した。

 それで、門を守っていた兵はすべて沈黙した。

 板で作られた門にあてがわれた丸太のかんぬきを外し、門を押し開く。

「逃がすな!」

 後ろで、叫ぶ声。

 駆ける。

 門の外は、街道が伸びているほかは、一面の原野。冬の草が濡れ、石畳とは違うやり方でそれぞれに月を宿している。

 駆ける。

 馬蹄の響きが、近付いてくる。

 振り返る余裕などない。

 追ってくる、馬。多い。

 矢が放たれた。それらは風を切る音を立て、三人を追い越していった。

 そして、凄まじい衝撃と、爆音。遅れて、風と熱。

 三人は、草の上に投げ出された。

 自分の肩ごしに門の方を振り返ると、門を出てすぐの両側で、火が上がっている。

 火が移り、いななく馬。

 地に転がり、叫びながら自らの身体を喰らってゆく火から逃れようとする兵。

 吹き飛び、動く気配もない者。

 それらが、夕の赤のような火に照らされている。

「ベアトリーシャに、感謝することだ」

 三人が駆け去ろうとした方向から、声。すぐ近くである。はっとして首を前に戻すと、黒い馬の脚とひづめがあった。

 見上げる。

「――ザハール」

 ザハールは、三人を見下ろし、少しだけ微笑わらうと、再び眼を前へ。

 その薄い色の瞳に、火が揺れている。

 一歩、一歩、馬が歩む。

 イリヤは、ザハールが敵の中に突っ込もうとしているのだと思った。

 いくら爆炎で敵を吹き飛ばしたとはいえ、まだ多くの騎馬が無事で、驚き棹立ちになっている馬を宥めたりしているし、門の向こうからはまだ騎馬がこちらに向かって駆けてきている。

 それらに向かって、ザハールは、一歩ずつ近付いてゆく。

 涙の剣。

 抜いた。

 同時に、馬が駆け出す。まだ若い馬であるが、ザハールが日ごろ可愛がっているだけあり、主の意思をよく汲むらしい。

 速い。

 墜ちる星が流れるほどの速さで、ザハールは単騎、炎に照らし出された敵の方へ。火の向こう側の敵からは、馬蹄の音は聞こえてもザハールの姿は見えぬであろう。

 それが見えたときには、もうザハールの目鼻や、漆黒の兜から流れる金色の髪の毛筋まで分かるほどの距離になっている。

 風が通り過ぎるように馬を駆り、いちど門の中に入り、すぐにまた門から飛び出してきた。そのときになって、やっと、イリヤにも、敵が何人ほどいたのか分かった。

 倒れている人間が、五十ほど。

 ベアトリーシャが仕掛けたと思われる爆薬により何人が死んだのかは分からぬが、これだけの騎馬を、わずか馬を一往復させるだけで薙ぎ倒すザハールの武に、背筋が寒くなった。

「ザハール。久しいな」

「ルスラン殿。このようなところで、またお会いするとは」

 二人が簡単に再会を懐かしんだ。

「サンスだな」

「そうさ」

「よく、脱け出てくれた」

「俺は、別に。このイリヤが、俺を出してくれたんだ」

「イリヤ。ありがとう」

 イリヤは、言われてそっぽを向いた。サヴェフは、明確にではなくても、結果を予め想定し、結果になるようにイリヤを指名したのだろう。具体的にその手段をどうするかは現地でイリヤが決めたが、まず牢から逃げるときに、牢の正門の方だ、と声を上げたのはジーン。そして、街の南側にベアトリーシャの爆薬を仕掛けて騒ぎを起こして注意を引き、その間に三人は北へ。門を開いたところで追手が来るであろうことも考え、そこにも爆薬を仕掛けておいた。そして、仕上げとして、ザハール。その絵を描いたのは、ペトロ。サンスも流石に筋金入りの博奕打ちだけあり肝が太く、喧嘩で身に付けたと思われる独特の戦い方も堂に入っていた。ルスランの武は、言うまでもない。

 誰もが、持てる智や武の全てを使い、この事業を成し遂げた。イリヤは、ただスープを鉄格子に何か月もかけて引っ掛け続けただけである。

 それが、つまらなかったのだ。だが、悪い気分ではなかった。

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