サンス、脱獄

 急いだ。だが、間に合わないかもしれない。

「お願いがあります」

 イリヤは、夜、食堂の店主を捕まえ、頼み事をした。

「分けて頂いている汁に、塩を一つまみだけ増やして頂けませんか」

「塩だと?」

 店主は、怪訝な顔をした。

「図々しいお願いをしていることは、承知しています。しかし、どうしても塩を増やして欲しいのです」

「悪いが、それは出来ない。このところあちこちで続きっ放しの戦いが、また広がってきた。そのせいで、塩の値段ががっているんだ」


 塩は、先にも触れたとおり王家の専売である。それを採取する者も王家に認められた者しか許されず、輸送も扱う商人も、王家の許しを得た者のみである。違法な製塩や横流しは、死罪と決まっていた。塩や鉄など人が生きるのに必要なものを王家の専売とすることは国家の統治において有効であり、その仕組みこそが諸侯が今ひとつ王家に弓を引けない理由であった。いかに各地域に点在している諸侯が鼻を鳴らして王家に楯突いたとしても、塩や鉄の流通を止められてしまえば終わりである。製塩所や鉱山を占拠し、独自に流通する手段を得でもしない限り、王家への反乱は不可能である。そして、鉄は東の山、塩は西のソーリ海でしか採れぬ。もし、それを自由にしようと思えば、このナシーヤ王家末の時代には四十近い諸侯があったとされ、それぞれがばらばらにいがみ合っていたから、それらをまとめ上げて新たな流通路を作るしかないのだ。また、戦いが発生している地域は軍や賊に奪われぬよう流通経路から外されるため、このときのそれは目まぐるしく変わり、蟻が歩いた跡のようにあちこちを通り、国土の中を曲がり、通っていたから、輸送にかかる費用がかさみ、塩自体の値段が高騰していた。

 それは、余談。ともかく、店主は、貴重な塩を増やすことを渋った。


「そこを、何とか」

 イリヤは、懇願した。

「わかった。だが、ほんの少しだけだからな」

「ありがとうございます。この恩は、必ず返します」

 渋々応じた店主に向かって、イリヤはまた慇懃いんぎんな礼を示した。

 また余談を挟むが、イリヤは後に十聖将の一人となった後もこの店主のことを覚えており、自らの持つもののうちから財貨になりそうなものを与えることでこの恩を返そうとした。だが、その頃には止まぬ戦乱の影響を受けてかこの店は既になく、どれだけ探してもこの店主も見つからなかった。それをイリヤは大層残念がり、

「ああ、背伸びをして金で返そうなどとせず、あのときすぐに、さっさと塩を返しておけばよかった」

 と嘆いたという。それが後の世になっても、

「塩の恩は塩で返せ」

 ということわざになってこの地域に残っている。恩をいつか返そうと思い、それが出来るようになってから行動したのでは遅い、受けた恩は出来るだけ早く返せ、という程度の意味である。そのことを、書き加えておく。


 それはよいとして、イリヤは、僅かに塩を増やしてもらった汁の器を手に、また牢の方へ。そして、それをまた格子に流し掛ける。

 それを続け、いよいよ十二月の終わりも近付いてきた頃。

「たぶん、今夜が最後になります。今まで、お恵みを頂いて、ありがとうございました」

 イリヤは、川で身を清め、伸びきった髭を剃り、衣服も粗末ながら清潔なものに改めて、店の表から入った。店の中にはまだ客が一人いたが、店主はイリヤを席に座らせ、その日作れるもののうちで最もよいものを食わせてくれた。イリヤが金を払おうとすると、店主はそれを固辞した。

「なんだ、なんだ、理由わけありではないか」

 客が面白がって、二人に声をかけてきた。

「いやね、傭兵さん」

 と傭兵らしき姿の客に向かい、このイリヤという奇妙な物乞いのことを話した。

「イリヤ、と言ったか」

「はい」

 イリヤは、傭兵に向かって眼を細め、胸の前で手を組んだ。

「お前、もしかして」

 傭兵は、外套を纏ったまま、片刃の槍を机の脇に立てかけた。イリヤに見覚えがあるらしい。イリヤには、覚えはない。

「二年前、グロードゥカの戦陣で、ザハールと共にあった者ではないか」

 そう言われて、イリヤも何となくこの大男のことを思い出した。

 少し白髪の混じった髪から、三十代の半ばから四十前くらいであると思われた。頬や獣の革で作られた冬用の衣服から出た手の甲や頬などには、無数の古傷。確かに、あのとき、踊り巫女を一晩で三人抱いたと自慢していた傭兵であった。名は、確か、

「――ルスラン?」

「おお、おお、覚えていてくれたか。そうだ、ルスランだ。ザハールは、息災か」

「ああ、多分」

 イリヤは、戸惑った。ここで、自分を知る者が現れるということを、想定していなかったのである。だが、ルスランはそんなイリヤの戸惑いに気付く素振りを見せず、大笑いをしながら肩を叩いてくる。

「俺は、これから、チェリヌイの戦場に向かうところだ」

 イリヤも、聞き知っていた。チェリヌイというのはこのノゴーリャの街やイリヤの帰るべき森などがあるグロードゥカ地方の東と境を接する地方で、それがにわかに兵を挙げ、隣国のグロードゥカの肥沃な土地と豊富な人口を狙いに来たのである。ルスランはまだ傭兵稼業を続けていて、その戦場に向かう途中なのだという。

「お前がここにいるということは、ザハールもやはり?」

 ルスランが懐かしむような笑顔を向けてくるから、イリヤはつい口を滑らした。

「いや、いない」

「なんと。では、どこに?」

 こうなると、答えざるを得ない。

「森にいる」

「森とは、賊が巣食っているという、あの森か。近頃は静かになり、王家の軍に組み入れられたと聞くが」

「そうだ」

「ザハールは、賊になったというのか」

 ルスランの嘆くような声色に対し、イリヤにはそれを否定する義務が生まれた。

「いや、違う。は、賊じゃあない」

 もう、ありのままを話すしかない。結果として、それが良かった。店主は、気を使って奥に引っ込んでいった。これも、この時代の気風であろう。

「では、俺も共にゆこう。戦場より、もっと愉しみのある場所だ」

 ルスランは簡単に言う。イリヤには、それを断ることは出来ない。

「その前に、寄っていくところがある」

 イリヤは、店主に重ねて礼をし、ルスランと共に店を出た。

 夜更け。やはり、雲によって月はない。その闇の中を這う路地を、二人は通った。ルスランは時折、物につまずいたりしたが、イリヤは歩を緩めることはなかった。

 そして、牢の前に。

「サンス。サンス」

 小声で呼ばわる。静かな夜でも透らず、それでいてよく聞こえるような声だった。それに誘われ、サンスが格子の側まで来たが、闇のため姿は見えない。

「待たせたな。この格子から、出ろ」

「出ろって言ったって、お前」

「お前が臭い臭いと言っていた汁。あれは、俺が夜毎、この格子にそれを掛けていたからだ」

「何だって。どうして、そんな意地の悪いことをするんだ」

「この格子の鉄を、錆びさせるためさ」

 ここまで書けば聡明な読者諸氏なら誰でも既に分かっていることであろうと思うが、イリヤが食堂に眼をつけたのは、このためであったのだ。ノゴーリャの街に入る前、こぼれた汁が剣にかかったのを気にしたザハールを見て着想した。時間をかけ、少しずつ塩気を与えてゆけば、鉄の格子も錆びて脆くなる。サヴェフがこの役目を他の誰でもなくイリヤに頼んだのは、正攻法を嫌うイリヤなら何かしらの方法で、人知れずサンスを脱獄させられる案に至ると思ったからだ。そして、サヴェフは、イリヤなら、きっと一挙にものごとを覆すような手段は用いず、時間をかけるであろうということも想定していた。それは、何かしらの形で、サンスがイリヤと心の繋がりを持つことを意味する。博奕打ちのサンスは他のそれと同じように義理堅いというか、自分なりの筋道であったり美学を強く持っているであろうことが予見されるから、彼に森の軍の一員として事を為す理由を、彼に会う前から与えたことにもなる。さすがに、後代になっても史記の上で最高の参謀と言われるだけはあると筆者は感嘆を禁じ得ない。そのサヴェフの思いはさておいて、イリヤは今紛れもなく、彼にしか出来ぬことを為そうとしていた。

「押せ。俺は、引く。思い切り力を入れれば、格子は外れるはずだ」

 サンスは闇のなかで頷く気配を立て、イリヤと共に格子に手をかけた。二人で呼吸を合わせると、格子は音を立てて折れ、壁の石から外れた。あと、五本。全て外せば、十分にこの窓から外に出ることが出来る。

 二本目までは、外れた。しかし、三本目からは、どれだけ力を籠めても、外れることはなかった。脆くはなっているらしく、手応えはあるのだが、どうしても折れず、抜けない。

「くそ、時間があれば」

 処刑のことがなければ、もっと確実に実行できた。塩を増やしてもらい、錆びは早まったとはいえ、人間の力で壊せるほど脆くするには、時間が足りなかったのだ。

「くそ、くそ」

 大声にならぬよう注意しながら、イリヤはサンスと共に格子をゆすった。

 ひとつ、雨が降りだした。それはふたつになり、みっつになり、やがて辺り一面を濡らした。イリヤは闇を吸い取ったようなその滴に衣を黒く濡らしながら、なお格子を懸命にゆすった。しかし、ぎい、ぎいと虫の鳴くような音を立てるばかりの格子に外れる様子はない。

「どけ」

 背後で、ルスランの声がした。それは太く、落ち着いていた。雨すら、一瞬その声に応じ、動きを止めるようだった。

「牢の中の奴。お前もだ。そこを、どけ」

 静寂。雨と、自らの鼓動のほか、何もない。

 その雨とイリヤとサンスの全ての視線が、闇の中のルスランに集まる。集まりきったとき、ルスランは太い気合を発した。

 腰の剣。

 閃く光すらもない闇を、斬った。

 それは錆びて脆くなった鉄の格子を容易く砕き、石から抜けた欠片が落ちる頼りない音がした。

「何をしたんだ」

 サンスは、見えないため、戸惑っている。

「よくは知らぬが、ここから出るのだろう。出ろ」

 ルスランの声に応じ、サンスはその身を格子のなくなった窓から雨の中へと滑り出させた。

「サンス」

「イリヤ」

 雨の混じる闇の中、二人は向かい合った。どういう表情であるのかは、闇のためによく分からない。

「賭けは、俺の勝ちだな」

「ああ、お前の勝ちだ、イリヤ」

 あとは、この闇と雨に紛れ、このノゴーリャの街から抜け出すのみである。

 そこで、牢の中から声がした。

「おい、サンス。起きてるか。賽子さいころはどうだ」

 牢番である。サンスと、よく賽子を転がし、その日や翌日の飯の量を賭けて遊んでいた。その処刑が近いため、最期にと思って声をかけてきたのかもしれぬ。この夜は、偶然がよく重なる。たまたまイリヤはルスランと再会して格子を破ることが出来、たまたま牢番がサンスに賽子遊びをしようと声をかけてきた。こうも稀なことが重なるものかと首を傾げたくなる気持ちも分かるが、史記にそうあるのだから致し方あるまい。

「おい、もう眠ったのか」

 牢番は、手にした灯りを獄の中に差し向けた。イリヤとルスランが逃げ出そうとするのを、サンスが制する。

「静かに。気配を立てず、ゆっくりだ」

 静かな声で、そう言った。二人は気を取り直し、雨を踏む音を立てぬように、ゆっくりと路地裏をゆく。

 数歩歩いたところで、牢番が破れた格子から明かりを外に差し向けた。

 また、牢の中から、声。

「おい、囚人が逃げたぞ!正面の門のところだ!」

 牢番は灯りを引っ込め、その声に誘われるように牢の中へ戻っていった。

のか。しかし、正面の門とは、何のことだろう」

 サンスが闇の中で、小さな声を立てた。イリヤはそれと同じくらいの大きさの笑い声を返した。

「なにが、おかしい」

「いや、なんでもない」

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