第四章  払暁

サンスとイリヤ

 目的は、精霊の巫女をさらうこと以外にも、様々なものがある。そして、それらは、それのみで目的たりえず、もっと大きなのための手段として、存在する。そして、その一つ一つの細かな方法などについては、サヴェフはあまり口出ししない。例えば、今回の、サンスなる博奕打ちを救出するという件については、イリヤに一任された。そのイリヤは、何日も寝ていないらしく、目の下の隈を日に日に濃くしながら、ずっと黙って一点を見つめている。

「何か、食ったらどうだ」

 見かねたザハールが、食事を運んできた。

「要らない」

「ずっと、考えているのか」

「うるせえな、放っておいてくれ」

 イリヤが面倒くさそうにするのを無視して、ザハールはその隣に腰掛けた。無言で、イリヤの向かう机に、食事を置いてゆく。

 小麦の粉を練り、焼いたもの。羊の肉をたれに漬けて焼いたものが少し。秋の菜を塩で揉んだものと、植物の根と鶏肉を柔らかくなるまで煮た、スープのようなもの。

「要らないって言ってるだろう!」

 イリヤが苛立ち、ザハールの手を払った。その拍子にスープがこぼれ、ザハールの剣のつかにかかった。

「落ち着け、イリヤ」

 ザハールは、愛用の剣に錆が走るのを恐れてか、イリヤに背を向けて剣を抜き、柄を伝って流れるスープの滴を布で拭った。

「す、済まん」

 イリヤは慌てて立ち上がった。

「いや、気にするな。俺の剣は、これしきで錆びはせぬ」

 何人もの血を吸っても、錆びることのない涙の剣ミェーチェ・スリョージ。その刃を、白く濁った汁が伝ってゆく。

「ザハール」

 イリヤが、ぽつりと言った。

「剣は、錆びるんだな」

「何を、今更。この剣は特に鍛えられているから、長い間錆びたことはないが、手入れを怠れば、鍛えられた剣でも、錆びる」

「では、鍛えられていない剣はどうだ」

「それは、だ。おそらく、人一人でも斬れば、その血ですぐに錆びる」

「この汁でも、錆びるか」

「ああ。それにも、塩が入っている。なまくらな剣なら、錆びるだろう」

「そうか」

 ザハールは剣を腰に戻し、怪訝な顔をした。サンスを逃がす役を命じられ、何日も眠らず、食事もろくに摂っていないというイリヤを心配して見に来れば、剣が錆びるか錆びないかという子供のような話である。そして、また一点を見つめ、思考の中に潜行していったから、ザハールが訝しがるのも無理はない。

「大丈夫か、イリヤ」

「俺はな、ザハール。怖いんだ」

 ザハールは、イリヤの虚勢をはじめて会った日から見抜いている。だから、今こういう話をされても驚くことはない。というよりも、イリヤは誰が見ても臆病であった。

「できれば、何事もなく、平穏に暮らしていたい。だが、俺は人と違って、まともな職にも就けず、ただグロードゥカの街をうろついて、通行人から金を巻き上げることしか出来なかった」

「知っている」

 ザハールは、再びイリヤの隣に腰掛けた。

「ここに来てから、もう随分になるが、その間も、俺は出来るだけ大きなことに関わらずに済むよう、自分をそういうものから遠ざけてきた。焼き物のことだけを考えている間は、楽だったさ」

 ザハールは、何も言わず、頷いてやった。

「ベアトリーシャは、サヴェフがどうして俺にこの役を任せたのか分かると言ったんだ」

「そうなのか」

「だけど、俺には分からなかった。俺は、臆病で、失敗することばかりを考えてしまう。色んな方法を考えたさ。でも、その方法を頭の中で進めると、必ず失敗する」

 ザハールは、イリヤの寝台の脇に散らばった、ノゴーリャの牢の位置や衛兵の配置などの書き付けに目をやった。ペトロが、イリヤを手伝う意味で、持ち前の観察眼で調べ上げたものらしい。

「まず、どうやっても、サンスを牢から出すことが出来ないんだ。そもそも、無理だよな。牢に閉じ込められている男を、誰にも知られず出すなんてさ」

「だが、どうにかしなければ。正面から牢を破るのは得策ではないと、サヴェフには止められたが」

「そうだよな。だから、こっそりと」

 イリヤは、小麦を練って焼いたものを乱暴に掴み、口に押し込んだ。

「眠る」

 それだけ言って、汚い寝台に入った。

「ザハール。あんたなら、正面から牢をぶち破るんだろうな」

「俺には、そのようなやり方しか出来ぬ」

 ザハールは、要領を得ない様子で小屋から出るしかなかった。

「そうだよな。俺にも、俺にしか出来ないやり方があったんだよ」

 その声が、眠りに支配されてゆくのを感じたから、ザハールは静かに小屋の扉を閉めた。



 翌朝。イリヤは、汚い身なりのまま、ノゴーリャの街に出かけていった。

 街に入る前に、麻の衣を破り、顔に泥を塗り、さらに汚らしい姿になった。季節は、もう秋である。乾いた風が、彼の服の破れ穴から入り込み、出て行った。

 街に入ると、道ゆく人は皆怪訝な顔をして、イリヤを見た。森の賊が蔓延はびこっていた頃は、旅人もこの街を避けて通るようになっていたが、それから二年も経った今では、旅人も戻り、活気が蘇っている。森で作った焼き物を仕入れ、東西で売るための商人なども多く立ち寄るのだ。

 イリヤは、それらに眼を付けた。

 旅人に粗末な食事を供する食堂の位置も、頭に入っている。余談であるが当時の食堂というのは現代のレストランと違い、メニューなどない。食材の仕入れや保存が現代のようにはゆかぬから、その日ある食材で作れるものを作るのだ。それゆえ、あまり凝ったものは出ないことがほとんどである。店の中で食うこともあるが、多くは植物の葉や皮で出来た包みに入れ、店の外に持ち出すのだ。

 牢の位置も、実際に目で確かめた。彼にとって救いであったのは、サンスがヴィールヒのように地下牢に入れられず、石で造られた建物の中にいたことであった。建物のどの位置にサンスがいるのかも、ペトロが調べてくれている。

 路地の裏。イリヤは、こういう薄暗い空間を、ずっと住処にしていた。その仕草や、汚い身なりが、路地裏によく馴染んだ。

「やい」

 鉄の格子の向こうの空間に、声をかけた。

「やい」

 もう一度呼ぶと、反応が返ってきた。

「なんだよ。眠っていたんだ」

 声の調子からして、イリヤやザハール、サヴェフらよりも少し歳の頃は上であるように思えた。

「お前、サンスだな」

「そうさ。この石牢の中で忘れ去られてもう何年も経ったと思ったが、まさか窓の外から声がかかるとはな」

「もうすぐ、出してやる」

 サンスが、格子の向こうで笑い声を上げた。

「お前が?俺を?ならば、裏からではなく、表から声をかけてもらいたいものだ」

「いいや、俺は、裏から声をかける」

「まあ、いい。どうせ、出来っこないさ。ここの牢の壁は厚いし、兵だってたくさんいる。お前のような汚い小男一人が来たところで、どうなるわけでもないのさ」

「それは、どうかな」

 イリヤが、不敵に笑った。

「驚いた。汚い格好をした物乞いのわりに、いい眼をするじゃあないか」

「どうだい、サンス。賭けをしないかい」

「賭け?」

「俺は、あんたをここから出すと言う。あんたは、それは出来っこないと言う。もし、俺があんたを出すことが出来なかったら、そのときは、正面から牢番に体当たりをして、あんたの牢の格子に手をかける姿勢で死んでやるよ」

「ほう、そりゃあ、面白いな。それで、もしお前が賭けに勝ち、俺を牢から出すことが出来たら?」

「俺たちの、仲間になれ。一緒に来てもらうぜ」

 サンスが、指をひとつ、ふたつと鳴らした。癖なのかもしれない。

「いいぜ。ちょうど、牢番相手の賽子さいころに、飽きてしまっていたところだ」

「よし。じゃあ、待ってろ」

「俺は、何をすりゃあいいのさ」

「何も。俺がお前を出してやるまで、賽子でも振って遊んでな」

「気に食わねぇ野郎だ」

 そこで、はじめてサンスが牢の中の暗がりから立ち上がり、イリヤが覗く格子の方へ歩いて来た。歳の頃は三十前。長く伸ばした黒髪を一つに括り、それを背中に垂らしている。一見、柔和な表情の優男といった風であるが、博奕の喧嘩で付いたと思われる古い傷が目尻から頬にかけて走っており、汚い衣の内側には引き締まった筋肉が身を潜めていることが見て取れて、なかなか気骨がありそうだった。

「どうせ、人の生なんて、賽子とおんなじさ。振ってみなけりゃ、どう出るか分からねぇ。だから、俺は振る。お前が、俺の牢の前で斬り死にするのを、楽しみにしているぜ」

 冗談で言っているのではないことが、イリヤには分かった。彼がごろつき稼業をしていた頃、街でもあまり関わりたくない類の男がいた。それが、サンスのような種類の男だった。

 サンスは、本気である。イリヤも、文字通り、命を賭けたのである。そのために背筋が寒くなっているのをサンスに悟られぬよう、格子からゆっくりと離れた。

「おい、サンス。何を喋っている。そこに、誰かいるのか」

 牢番の声。

「いいや、誰もいやしねぇよ。あんまり退屈だったもんでな。どうだい、今夜も、賽子で遊ばないか」

「お前、またをして、食い物を多くせしめようって腹だな。そうはいくか」

「ちっ。つまらねぇな」

「大人しくしていろ。お互い、つまらぬことで上役に首を跳ねられたくはないだろう」

「わかったよ」

 牢番が去ったあと、サンスが格子の外に眼をやると、そこにイリヤの姿はなかった。

 ただ、汚い格好の物乞いが、向かいの建物の壁にもたれかかって眠っているだけであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る