腐った国

 ――星は、空に。月は、ソーリの水の上。それは人の影を落とし、人は、己が立つところを知る。

 ウラガーン史記 第一節四十四項 「雷光」より抜粋



 未だに、眩しさが取れない。

 ノーミル暦四八三年の夏の始まりが、終わろうとしている。青っぽい匂いの風は聞こえても、ヴィールヒの眼は光に打たれ、眩むばかりであった。


 馬が曳く荷車に乗り、土と汗と血で汚れた襤褸ぼろを纏ったまま、その振動を尻で感じている。手には、返された「精霊の怒り」グロムと呼ばれる槍。

 その刃がうるさい陽の光を跳ね返すから、ヴィールヒは槍を伏せ、荷車から飛び出させるようにしていた。


 眼を閉じているから、彼はまだ闇の中にいた。ただ、押し込められていた土牢の黒い闇とは違い、この闇は、赤かった。多分、自分の瞼の色なのだろうと思った。

 ――大精霊は人の子に言う。眼を閉じよ。そこに、永遠があり、無限がある。眼は、裏を向くことはない。その永遠の中に求めるものが無ければ、憶するな。眼を開き、そして振り返れ。

 誰でも知っている大精霊の教えの一節が、何となく心のうちに蘇った。なるほど、眼を閉じていれば、それは行き止まりの闇のようでもあり、永遠に続く無限の中にいるようでもある。その赤は、自らの血潮の色。耳に聞こえるは、血の脈の音。


 ひとつ。

 ひとつ。

 ひとつ。


 また、星が墜ちる音が聴こえるような気がした。

 ここは牢ではないから、その音はもう聴こえないはずである。代わりにあるのは、鳥の声。風が、草を揺らす音。蠅が耳の横を通り過ぎる音。


 この世に当たり前に存在するはずのそれらを、ヴィールヒはとても真新しいもののように感じた。眼を閉じていても、馬と車に驚いて草の上を跳ねて逃げる兎の動きまでも手に取るように分かった。

 があれば、それはそこに存在するだけで、世界に何らかの影響をもたらす。ヴィールヒはそのような哲学的な感傷に浸る型の男ではないが、このときばかりは、久しぶりの外界に感動を禁じ得ないらしい。


 草の音。風とは、違う。

 土を踏む音。それは、二本足。

 ヴィールヒは、知っている。この世で、二本の足で歩く生き物は、人だけであると。

 数。牢の中で墜ちる星は、いつも一つしか数えることが出来なかった。しかし、このときは、正確にその数を数えることが出来た。


 十二。それが、馬と車を囲むようにして運動する。草を踏む音が、街道の土を踏む音に変わった。

「何だ、貴様らは」

 馬を操る者と、ヴィールヒの隣で座っている複数の役人、車の後ろに付いて歩く五人の護衛の者が、張り詰めた声を挙げる。十二の気配は、黙って刃を抜いた。その光景をヴィールヒは見ることが出来ないが、頭の中で描いた。

「これが、丞相ニコ様の命により護送する者であると知ってのことか。擦り傷一つでも付けてみろ。貴様らの首が飛ぶぞ」

 十二の気配が刃を納めないので、護衛の者が剣を一斉に抜いた。


 首が飛ぶのは、十二の賊だけではない。護送をする者どもも、ヴィールヒに何かあればその責めを負わなければならない。

 賊は、落ち着いているようだった。土の上をゆっくりと、滑るようにして近づいてくる気配がした。

「こいつら」

 護衛は五人。役人や馭者ぎょしゃ、眼の開かぬヴィールヒ自身を合わせたとしても、九人しかいない。賊の数は、それを予め見越した上でのものであるようにも思えた。もとより、物盗り、野盗の類ではない。襤褸を纏ったヴィールヒ一人を載せている荷車を襲っても、彼らが得るものなどない。あるとすれば、それを襲うことで、から得られるということになる。

「退け。我らは、王家の使いなるぞ」

 賊は、やはり物言わぬ。

「埒が開かぬ。やれ」

 護衛の指揮をする者が、号令をした。

 同時に、賊も地を蹴った。


 十二の賊に、五の護衛。数で言えば、負ける。

 悲鳴。そして、血の飛ぶ音。

 誰もが、そこにいる誰もが、何が起きたのか分からなかった。空は晴れ、夏の日差しがしつこいほど地を刺し貫いている。

 雷だった。晴れた空から雷が落ち、賊の一人を打ったのだ。


 いや、それは、ヴィールヒだった。

 眼を固く閉じたまま、腰を深く落とし、着地していた。

 精霊の怒りと人が言うその鋭い刃に肩から背中まで断ち割られた賊の身体から、血飛沫と共に魂までもが抜け出てゆく。


 静寂。誰にも、何が起きたのか分からない。黒っぽい、小さな鳥が飛んできて、ヴィールヒの握るグロムの刃の腹に羽を休めようとして、やめた。

 静寂は、再び動き始めた。静寂自体が巨大な生命を持って、激しく呼吸をしているようだった。


 ひとつ。血と、魂。

 ひとつ。肉を裂き、骨をも砕く。

 ひとつ。通り過ぎる何か。

 ひとつ。大精霊の怒り。

 ひとつ。地を揺らす咆哮。

 それは、さながら、暴れる風。


 誰も、その眼で見たことなどなかった。

 天にある大精霊が哭き、雷霆らいていで人を打つのを。

 それが、ヴィールヒそのものであった。

 二年もの間、牢に押し込められていた者の身体の使い方ではない。

 腕や、技とはまた違う何かで、ヴィールヒは十二の敵を肉塊に変えた。

 それも、呆気に取られる役人や護衛の者が、瞬きを十行うほどの間に。

「お前は、一体——」

 その声にヴィールヒが反応して、即座に向き直った。しかし、それに敵意がないことを知ると、刃を上げ、石突を地に立てた。


 それで、ゆっくりと脈を打つ静寂が、もとの世界に戻った。ヴィールヒの周りにある者は、そこで初めて背骨を鷲掴みにされるような奇妙な圧迫感から解放された。

「眼が、利かぬのではないのか」

 ヴィールヒは、答えず、片手を差し伸べた。荷車に載せろ、ということらしい。今しがた、あれほど槍を振り回し、十二の敵を正確に斬り、刺し、貫いていたにも関わらず、人の助けを得なければ荷車に戻ることも出来ないというのが奇妙である。意識して眼を閉じていたとしても、人というものは、つい何かの拍子に眼を開いてしまうものであるが、ヴィールヒはまるで座っているときのように、決してその眼を開くことがなかったのも奇妙である。

 ここにある誰もが、分からぬことが多すぎて、獣が食い散らかしたような無残な死骸を後ろに、黙って荷車を曳くしかなかった。


 道中、付き添いの役人が思い出したように、

「怪我はないか」

 とヴィールヒに尋ねたが、ヴィールヒは、

「眩しい」

 と答えるのみであった。それで、役人は自分達に咎めが降りかからぬことを確信し、安堵した。役人も護衛の五人も、ヴィールヒが荷車から飛び出して戦う間、棒に剣を握らせただけのような格好でただ立っていたに過ぎない。


 役人や軍の者など、所詮はこの程度である。自らのことをのみ考え、国や全体のことを考える者は、ごく一部に過ぎない。それよりも、ヴィールヒは、荷車の振動が呼ぶ浅い眠りの中で見ていた夢のことを考えていた。

 史記には、その夢のことについて細かな記述ある。以下、筆者の訳による。


 ひとつ。

 ひとつ。

 と墜ちる星の滴の音に合わせ、誰かが歌い、待っている夢。それは、ひときわ淡い色の髪の女。恐らく、そう歳は長けていないだろう。

 星が一つ墜ちる度に、その者の髪が、蒼っぽく透き通る。一度、ヴィールヒはその者に声をかけたことがある。

「お前は、そこで何をしている」

「あなたに見えぬものを、代わりに見ているのです」

「俺は、この通り、暗闇に眼が慣れ過ぎてしまって、光を見ることが出来ぬのだ。俺が眼を開くことが出来るのは、決まって夜なのだ」

 すると、歌う者は舞をやめ、くすくすと笑った。

「誰もが、そうなのです」

「ほんとうか」

 ヴィールヒは、反問した。誰もが光を見ることが出来ないなどということがあるはずもないことくらい分かっているが、夢の中のことであるからどうしようもない。

「ええ、誰もが。皆、眼を開くことが出来ず、見るべきものが見えぬと嘆きます。皆、省みることばかりを考え、閉じた瞼の中で眼を裏側に向けようとしています」

 歌う者が遠ざかってゆくから、ヴィールヒは、待て、と言った。

「あなたも、そう。眼を閉じたまま、何を見ようとするのです?見るべきものは、前。それがもし自らの後ろにあるのなら、恐れることはありません。眼を開き、後ろを振り返ればよいのです」

 ヴィールヒは、なおもその者を追う。

「待ってくれ」

「求めなさい。あなたが求めるものから、遠ざかってしまわぬよう」


 史記には、そういう風に描かれてはいるが、実際のところは、グロードゥカの地下牢からどこに護送されるのか知らぬヴィールヒは、檻の中の退屈から解放されたことを喜びながら、新たに襲ってくる荷車の退屈をしのぐため、浅い夢のことを何となく思い出していたというところであろう。



 荷車はゆっくりと進み、やがて車輪を止めた。

「宿だ」

 役人にそう声をかけられ、ヴィールヒは荷車から降ろされた。瞼の裏の世界の赤が、より強い。それで、彼が眼を開くことが出来る時間が近づいていることを知った。

 宿の中では、役人と食事を共にした。暖かく、美味い食事であった。ナシーヤの食事には、辛味がややある。東の大山脈に堰き止められた雲が垂れることが多く、たとえば南の乾燥地帯などに比べれば日照時間が短い。中国の四川料理が辛いのも日照時間の少なさによる体温調節、発汗と関係があると言うから、その方面からナシーヤの文化史などを調べてみるのも面白いかもしれない。



 筆者は文化人類学者でも料理研究家でもないから、丸い唐辛子を刻んで酢で漬けたものを、小麦を練って薄く伸ばして焼いた生地の上に乗せてその上にたれをつけて焼き、薄切りにした羊の肉を乗せ、丸めて包んで食うものを手に取るヴィールヒのことに焦点を当てる。



 酢に溶け出した唐辛子の辛味が、ヴィールヒの体内を熱くする。牢の中で過ごす間、一日一度の粗末な食事のみであった。身体は痩せ、先程槍を持って少し暴れただけであちこちが痛む。久方のまともな食事が、その痛みに染み込み、失った肉を再生させようとしてゆくのを感じた。

「どうだ。美味いか」

 役人が、声をかけてきた。

「美味い」

 ヴィールヒは、そこで初めて眼を開いた。火が焚かれた室内は薄暗く、開いた眼を光が刺すことはなかった。細めた眼で、役人の顔を、初めて見た。大人しそうな、いかにも文官といった細い線の身体を持った男の顔が、木綿で織られた袖無しの服から生えていた。その顔には、ヴィールヒへの畏れが滲んでいると同時に、親しみもあった。

「牢の中は、辛いものであったか」

 と、畏れを隠すように、親しく声をかけてくる。

「辛いとか、そういうものではなかった」

「そうか。では、どのようなものであったのだ」

「あそこには、何もなかった」

「何もなかったのか」

 役人に、自らの身体に茶色っぽく残った、拷問の跡を見せてやった。

「ひどいな」

があるときは、まだ良かった。痛みがあると、己が確かなものだと信じることが出来た」

 思い出すように眼を伏せ、ヴィールヒは訥々とつとつと語り出した。

「しかし、それすらも無くなったとき、俺は、ただ数えるしか無かった」

「何を、数えるのだ」

「数を」

「何の数を?」

「分からぬ。何かの数を、ずっと数えていた。しかし、それは、数えられるものではなかった。それは、いつも一つであった」


 役人は、ヴィールヒが何を言っているのか分からないらしい。もしかすると二年もの間暗い牢で過ごしていたから、心が壊れているのかもしれぬと思ったかもしれない。

「どうして、そのようなことを聞く」

 ヴィールヒの眼が、また役人の頼りなさそうな顔を射った。

「俺の弟も、牢に居る」

「そうか」

「謂れなく、突然掴まった。反乱の疑いだというから、お前のように赦されでもしない限り、恐らく、殺されることであろう」

「では、お前も?」

 弟が反乱を企てたとあれば、兄も普通は捕まる。

「いや、俺は」

 と役人は果実で作られた酒が容れられた器を手に取った。

「ほんとうの兄弟ではない。だが、兄弟のようにして過ごしていた。国を良くしようと志を持ち、共に役人になった。弟が、俺を誘った。あれは、とても良い男だった。俺などよりずっと頭も良く、清らかな心を持っていた。その弟が捕まるとき、俺が代わりに捕まってやればよかったのだ」

「生きる意味のある者ほど、死が近い。そういう世の中なのかもしれぬな」

「そうだ。俺が生きる意味は、弟よりも軽い。だから弟は先に死に、俺はまだ生きている」

 役人は、弟の生死について、諦めてしまっているらしかった。そのことをヴィールヒが言うと、

「そうだ。何をしても、弟を助け出す。そういう気持ちが持てぬのだ。それよりも、苦労して得た今の立場を失うことを怖れる。自らの死を、怖れる。だから、俺は、生きる意味の軽い男なのだ」

「人など、そんなものだろう」

「そうして、この国は、腐ってきた。俺は役人になるため、歴史も学んだ。五百年の、血塗られた歴史を。途中で嫌になった。どの時代も、人の欲と罠、戦いと血にまみれていた。そして今なお、いつ終わるのかもしれぬそれらが、この国を支配している」


「俺は、どこにゆく」

 ヴィールヒは、全く別の話題を持ち出した。

「ここまでだ。だから、お前と話をしたかったのだ」

「ここまで、とは?」

「この宿に明日、迎えが来るそうだ。お前、ほんとうに何も知らされていないのだな」

 迎えと言われても、ヴィールヒにはとんと心当たりがない。別の役人に引き渡されるということだろうか、と思ったが、その先どうなるのか分からぬ以上、興味の向けようがない。

「眠る」

 ヴィールヒは食い終わった皿の前から立ち上がり、あてがわれた部屋がどこか問うた。それを役人から聞き、食堂をあとにするとき、

「お前の声は、この国の声なのかもしれぬな。俺は、ずっと兵として戦場にいた。血と、罠のその真ん中に。そこでは、お前のような者の声は聞こえなかった」

「ヴィールヒ。お前の立っていたところが、腐ったものであるとは思わぬ。しかし、この国は、腐っている。その中で、お前は自らが立つ意味がある場所を、見つけられるのか」


 この時代の気風に則り、役人はヴィールヒに対して一個の士として接している。もしかしたら酸味の強い果実の酒にただ酔っているだけかもしれぬが、ヴィールヒは、役人が自らを士と遇することに応える義務がある。

「お前の声を、俺は知った。国が腐っているなら、どうすれば自分が立べき大地が得られるのか、考えることにしよう」

 と言い、部屋をあとにした。


 その夜も、夢を見た。

 星が墜ちる度、女の髪は蒼くなった。

 眼を開けると、それと同じ色の空が木枠に板を取り付けた窓の隙間から覗いていた。

 それが橙になり、世界の色がいつも通りになったとき、迎えと言う者がやってきた。

 昨日のようにヴィールヒは眼を閉じている。しかし、ほんの僅かに薄眼を開けていられるようにはなった。

 その細い世界に、彼の知った姿があった。

「サヴェフか?」

「痩せたな、ヴィールヒ」

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